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時の彩り(つれづれ、草) 027

2008.03.14 小林康夫

☆ 春、つづき(杜子春)

前回のブログを書いたその日、「春」でもうひとつ驚き、感動した。中島さんたちの「中国伝統文化が現代中国に果たす役割」の国際シンポジウムが終わって、UTCPのオフィスに参加者のみなさんがいらっしゃった。実は、前日よりこのために、わたしは、墨と筆と紙を用意しておいたのだが、そこで、さあ、みなさん、お題は「春」、どうぞ記念の一筆をお願いしたい、と。

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そうしたら、王守常先生(北京大)、一瞬息を整えて、拡げた紙に「春到人間草木知」と墨痕も鮮やかに。いや、その字の速いこと、まるでダンスを見ているような筆の動き。筆順だってまったく独自の境地。わたし、ほんとうにあっけにとられて呆然。感に堪えかねて思わず、すごいねえ、と叫ぶと、横に立っていたジョエル・トラヴァールさん、だって王先生、文化大革命の嵐を書を書くことでじっと耐えたんだもの、とわたしに囁く。わたしは、良寛さんの言葉じゃないが、書家の書はあまり好きではないが、王先生の書は、そういった類の書ではなく、まさに中国文人の「常」の「書」。なんともいえない深さがあった。この書はUTCPの宝。そのうち表装して研究室にかけよう。

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でも、続いて、干春松先生(人民大学)もさらさらと筆をとる。これも名筆。いや、中国の若い研究者たちもつぎつぎに楽しそうに詩句を書いていく。「中国伝統文化」の華やかなパフォーマンスに日本の研究者もフランスの研究者も脱帽!

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☆ カルロ・ペルフェッティ

いや、忙しいのである。二週間くらいのあいだに、どれも短いものとはいえ、5本くらい原稿を書いているのだから、当然。しかも来週、行くことになっている、ハワイNYでなにを語るのか、よくわかっていないという危うい状態だからなおさら。でも、そういうときに限って、あまり関係のない本を読みふけったりすることが多い。

先日も、講談社現代新書の新刊『脳のなかの身体』(宮本省三)を仕事の隙間に読んだ。リハビリテーションという領域にまったく新しい方法(認知運動療法)を持ち込んだイタリアのペルフェッティのもとで学んだ理学療法師の方のプレゼンテーションで、もちろんその内容はまさに「哲学的」でとても興味深いのだが、それはさておき、そこで宮本さんが紹介しているペルフェッティ先生の教えにわが膝をうつ、という感覚があった。

「先生からは、『何も見ても患者の治療に結びつけるように思考せよ』と教えられた。ある脳科学の研究論文を読んだら、それをどのようにしたら治療に生かせるかを考える。哲学書、たとえばサルトルやメルロ=ポンティを読んだら、それをどのように治療に生かせるかを考える。スーパーマーケットや子どもの玩具屋に入ったら、その商品や遊び道具をどのように治療に生かせるかを考える。ある絵画を見たら、その絵画が描かれた仕組みをどのように治療に生かせるかを考える。ある人間関係の現象を見たら、それをどのように治療に生かせるかを考える――」(p.243)

そうなのだ。人間科学も同じこと。なにも見ても、なにを経験しても、それがどのような人間の本質の顕現なのかを考えること。人間科学の専門家であるということは、そういうことだろう。自分の好きな、自分のテーマだけを切り取ってきて、その専門家ではあるが、人間一般についてはなにも考えようともしないというのでは、未来は開けない。

哲学という名に求められていることは、きっといまいちど、そのような「人間一般」についてのきびしい思考を日々、あらゆる対象・他者を相手に実践することにほかならない。

哲学は、きっとまさしく「リハビリテーション」なのである。

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