Blog / ブログ

 

【報告】フランシスコ・ナイシュタット「歴史認識理論における精神分析の痕跡」

2008.03.10 セミナー・講演会

2008年2月27日、フランシスコ・ナイシュタット氏(ブエノスアイレス大学教授、国際哲学コレージュ・ディレクター)の講演「歴史認識の理論における精神分析の痕跡 ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』における運命と解放」がおこなわれた。初来日のナイシュタット氏だが、すでにUTCP主催のパリ・シンポ「哲学と教育」(於国際哲学コレージュ)には2年連続で参加していただいた。


Naishtat1.JPG

ナイシュタット氏によれば、現代の歴史記述には三つの転換があったと言う。解釈学的、社会学的、そして言語学的転換である。解釈学的転換は、歴史認識の能動性について焦点を当て、社会学的転換によって、社会や歴史の長期的構造を取り出し、歴史記述の次元を再設定することが可能となった。言語学的な転換とは歴史記述のエクリチュールに対する反省を促した。では、二十世紀の歴史理論に精神分析はいかなる位置を占めるのかと彼は問う。精神分析が被分析者の過去を極めて独特な時間形式によって解釈する営みならば、それは歴史認識の理論へも一定の貢献をなしうるはずだからである。もちろん、歴史の理論に精神分析を導入する試みには問題点もある。たとえば、フロイトの精神分析はつねに個人の無意識を対象にするのであり、単純に「集団」に適用されるものではない。このように指摘しながら、彼はそれでもなおベンヤミンにおいて精神分析と歴史認識の理論は決定的なかたちで関係していると言い、そこに大きな可能性を見出している。

ナイシュタット氏は、ベンヤミンとフロイトの具体的な関係には言及することなく論を進めていたが、ここでベンヤミンとフロイトとの関係を簡単に振り返っておこう。ベンヤミンが本格的にフロイトに取り組んだのは、ベルン大学在学時(1917‐1919年頃)に指導教官となるリヒャルト・ヘルベルツとパウル・ヘーバーリン――彼はユングの知人でもある――の心理学の講義やゼミにおいてである。へーバーリンはフロイトについての演習も行っており、そこにベンヤミンが出席していることをショーレムが報告しているが、へーバーリンによるフロイトとの対決にベンヤミンは影響を受けているようである。この辺りの思想的関係はいまだほとんど研究されておらず、ベンヤミンとフロイトとの関係を包括的に考えるためにまず着手すべき課題であろう。その後もベンヤミンはフロイトの著作に断続的に取り組んでおり、『トーテムとタブー』や「快感原則の彼岸」などは読んでいたようである。

ベンヤミン研究では、ジークリット・ヴァイゲルの『歪んだ類似性 Entstellte Ähnlichkeit』(1997)におけるフロイト受容に関する次の主張が有名である。『パサージュ論』には、第一期の作業時期(1927‐29)と第二期の作業時期(1934‐1940)のあいだに数年のブランクがあるが、彼女によれば、そこでベンヤミンはフロイトの考え方や概念を受容し、第二期の作業時期における意識的な精神分析理論の受容に先立って、すでにベンヤミンの思考に深く浸透しているのである。ただ、彼のテクストにフロイト読解のまさに「痕跡」は散見されるものの、『パサージュ論』の理論構成をフロイトから読み解くことが強引であることは否めない。おそらく、その最大の理由は、フロイトにおけるイメージ論の欠落である。ファンタスマゴリーの概念を見てもわかるように、ベンヤミンにとってはイメージの受容そのものの次元が重要だったからであり、それはフロイトであるよりも、やはりクラーゲスやユングの参照に比重があると考える方が自然なのである。このような「反動的な思想家」――ベンヤミン自身の言葉遣いである――への傾倒から彼をいわば「救う」ために、フロイトへの引き付けがなされる傾向があるが、ベンヤミンとフロイトについて語るためには、やはりまず両者の媒介としてクラーゲスやユングを問題にする必要があるように思われる。

Naishtat3.JPG

ナイシュタット氏の議論も、大枠ではベンヤミンのテクストに直接的なフロイトの精神分析の転用を術語の用法などに見出している。しかし、彼は、歴史認識の理論にとっての精神分析の意義という問いを最初に掲げ、ベンヤミンとフロイトの精神分析という問題へとアプローチしており、上で述べたような困難をいわば周到に回避しながら議論を組み立てていたことは、今後この問題に取り扱う際の大きな示唆となった。

では、ベンヤミンと精神分析はどのように交叉するのだろうか。ナイシュタット氏によれば、ベンヤミンが実証主義的な歴史でも歴史主義的な歴史でもないかたちで過去を考えている点に精神分析との親近性が認められると言う。ベンヤミンによれば、過去は事実によって確認されるのでも、伝統のうちで再認されるのでもない。過去は、見かけ上の時間の連続性を打破して「現在時」に入り込んでくるときのみ認識可能となる。講演ではこの過去の認識の在り方が精神分析における想起の作業に結び付けられていた。

さらにナイシュタット氏独特の観点として、『パサージュ論』が歴史認識の政治的ヴィジョンを示しているという見解を挙げておきたい。もちろん、このヴィジョンは明示的に書かれているわけではなく、さまざまな断片の読解を通じてのみ読み取られるべきものなのだが、それが結実した概念が「目覚め」にほかならない。この目覚めの概念にも彼は精神分析との関係を見出していたが、それは何よりも過去を現在との関係において解釈することで過去との関係を変えることができるからである。

目覚めが政治的概念であることは、それが革命に近付けられて理解されるからであることは言うまでもない。ナイシュタット氏は、この概念が必然的に孕むことになる危険性に注意を払ってもいた。目覚めは、目的論的・終末論的な観念からの解釈と親和的であるし、それを通して特権的な指導者による導きによって目覚めは成し遂げられるという全体主義的な思想に容易に結び付くからである。彼によれば世俗的な目覚めの概念をいかに確保することか重要なのだが、そのとき興味深いことに、目覚めの概念を世俗的に考えるためにも精神分析からベンヤミンを読むことの必要性が示唆されていた。この読解の方向性はさらに追及されるべきものであるように思われる。

Naishtat2.JPG

ベンヤミンの歴史認識の理論とフロイトの精神分析のあいだに親縁性があることは明白だし、彼自身『パサージュ論』の試みを十九世紀の精神分析であるとも言っている。しかし、問題は、この関係をいかにして取り出し、その内実を分析することである。ナイシュタット氏のアプローチは、その可能性のひとつをはっきりと示していた。

(報告:森田 團)

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】フランシスコ・ナイシュタット「歴史認識理論における精神分析の痕跡」
↑ページの先頭へ