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【報告】フォーラム 「イメージ(論)の臨界:ミュトスとロゴスの間」

2008.03.10 森田團

3月1日(土)、京都大学・岡田温司研究室の主催による「イメージ」をめぐるフォーラムの第2回が京都大学で開催された。

今回は「ミュトスとロゴスの間」というテーマのもと、6名の研究者が発表を行った。司会を務めたのは今回のテーマに相応しいギリシア哲学・キリスト教思想研究の柳澤田実氏(南山大学)で、対象地域や時代の異なる多様な発表を的確なコメントで一気に共通の地平に乗せてしまう見事な司会ぶりであった。前半3名、後半3名の発表の後、発表者全員による総合討議の時間が十分に取られ、対話のなかからさまざまな興味深い論点が引き出された。6時間近くの長丁場であったが、岡田研究室の方々のおかげで終始スムーズに進み、最後まで会場は満席であった。以下、前半の発表を郷原が、後半の発表と総合討議を森田 團氏が報告する。

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最初の発表は橋本梓氏(国立国際美術館)による「ミノタウロスの戯れ 雑誌『ミノトール』における神話イメージの変奏」。『ミノトール(Minotaure)』とは『シュルレアリスム革命』誌を引き継ぐようにしてシュルレアリスム周辺で1933年から1939年まで13号(合併号を含むため11冊)刊行された雑誌(アルベール・スキラ編集)である。牛頭人身の怪物ミノタウロスを表す雑誌名は当時ミトラ教に傾倒していたバタイユによって付けられたもので、人間の知性偏重への懐疑や異種混交への関心を読み取ることができる。とはいえ雑誌自体にはバタイユはそれほど関わっていない。注目すべきはむしろ、各号の表紙に用いられたさまざまな画家たち(ピカソ、マッソン、ダリ、マグリット、マチス……)の手になるミノタウロス像である。たとえば創刊号の表紙となったピカソのエッチングではミノタウロスは雄々しいというよりどこかおどけた印象を与える。同時期に描かれたミノタウロス連作などを参照するなら、ピカソのミノタウロスは画家自身であることがわかる。また「殺戮」などでタイトルに反して淡泊なデッサンを発表していたマッソンのミノタウロスは胴部が椅子と化した寂しげなものだ。このように、「雑誌」という共同体によって成立する神話(ミュトス)の変奏曲として、怪物の多様な表象が示された。

続いての発表は米田尚輝氏(東京大学大学院・国立新美術館)による「作品の神話、装飾的なるもの――アロイス・リーグルを中心としたウィーン学派の方法」。米田氏はヴィンケルマンの様式概念に抗して形式主義的様式論を展開したリーグルに焦点を当て、そこで分析対象となった装飾模様という表象の特異な位置づけを浮き彫りにした。リーグルはその『美術様式論』(1893)において芸術の起源を機能に求める唯物論および現実物の模倣に求める模倣理論にいずれも反対し、純粋に内在的な基本的欲求としての「装飾欲」ないし「芸術意欲」の存在を主張した。そこで論拠とされたのがトナカイ骨片彫刻やアカンサス文様といった装飾模様である。こうしたリーグルの様式理論は美術の展開を触覚的把握と視覚的把握の二項関係によって捉える視点に基づいているが、この対はヴェルフリンが『美術史の基礎概念』で提起した線的なものと絵画的なものの対に相当するといえる。ここから時代を飛び越えて、グリーンバーグの装飾批判が喚起された。平面性を絵画の特質としたグリーンバーグは他方で表面と同一化するかのような絵画を絵画の衰退=装飾化と捉えた。それゆえポロックのオール・オーヴァーは彼にとって自身の理論のアポリアを示す脅威として現れたのである。かくして、美術における「装飾」というカテゴリーの位置づけがたさが明らかになると同時に、リーグルが「芸術意欲」という超越的概念に依拠せざるをえなかった事情も示唆された。

続いての発表は上尾真道氏(名古屋芸術大学)による「経験と虚構の狭間におけるイメージ:精神分析における幻想概念の考察を通じて」。フロイトはそのヒステリー研究において、イメージを解消すると同時に連鎖的に成立させるイメージの先験的条件として「言葉」の次元を導入することによって、「感覚」に根拠を置くアリストテレス以来の心的イメージ論から一線を画した。しかしこの理論を突き詰めるとイメージが虚構に還元されてしまう。イメージは経験といかなる関係を持つのか。そこでフロイトは「幻想(Phantasie)」という概念によってこの問題を考察した。上尾氏は具体的に狼男症例における狼イメージの分析を取り上げ、明白な狼イメージの背後にひとつの目撃、すなわち眼差しの経験が想定されていることを指摘した。その眼差しはフロイトの欲動理論やラカンの眼差し論を参照するなら「見ること」そのもの、あるいは「イメージ」そのものであるといえる。その「イメージ」が最後に写真の「眺める者を不安にする」(ベンヤミン)イメージに接続され、「幻想」としてのイメージの日常性も示唆された。まとめれば、「幻想」としてのイメージは言語=虚構と眼差し=経験の狭間で成立し、しかしその「経験」とは主客配分以前の自体的な眼差しだ、ということになろうか。しかし、だとすると、「経験」の「現実(Realität)」とはどこにあるのか。この問いは、総合討議のなかで問われることとなった。

(以上、文責:郷原佳以)
 
 
第二のセッションは、まず私、森田團が「KYRIOLOGIE:クロイツァーの象徴神話論におけるイメージの問題」と題して、『古代民族、とりわけギリシア人の象徴と神話』(第二版 1819‐21)におけるシンボル概念の考察の過程で提出されるキュリオロギーという概念に注目し、このテクストに潜在的に存するイメージへの問いを浮き彫りにすることを試みた。シンボルは、クロイツァーにとって人為的に定められた記号ではなく、自ら以上のものを呈示する神と人間とのあいだの媒体である。それに対して、通常は「本来的な意義」を意味するキュリオロギーとは自然によって定められたイメージの次元を指示する概念として用いられている。ライオンの現われは、それが現実のライオンの現われであろうと、絵画における現われであろうとライオンである。このライオンはライオンだといういわばイメージのトートロジーというべき事態を指すキュリオロギーがシンボル概念とどのように関係するのかを発表では問うた。

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次に寺田晋さん(大阪大学大学院・日本学術振興会特別研究員)が、「活動写真と群衆」という表題のもとに、コミュニケーションの社会的回路が制度化される過程とメカニズムのひとつのモデルとして、群集概念が活動写真をめぐる言説においてどのように機能し、それがいかにコミュニケーションの管理という方向へと秩序付けられていったかを描き出した。1910年代から20年代にかけて「見知らぬ人々」である群集のあいだの新たなコミュニケーションのかたちが模索されるなか、暴動を群集心理から説明する言説の紹介の影響からこのコミュニケーションの管理を志向する言説が生まれてくる。寺田さんがこの概念の具体的な分析の場としたのが活動写真(館)である。活動写真の場をめぐる言説のなかで、説明者(弁士)の積極的な介入によって群集を(権力が)管理しようとしたり、社会強化の立場から群衆の団体化の機能を評価するような言説も生まれたのだが、そのなかで中井正一の映画論がその固有の表現手段の考察から新たなコミュニケーションの在り方を模索していたことが最後に指摘された。

大橋完太郎さん(東京大学大学院嘱託助手)は、「絵画の中を歩くことはいかにして可能か?――タブローを貫くディドロの唯物論について」と題して、ディドロのラジカルな唯物論が絵画論の地平でどのような表現を見るのかについて考察した。『1765年のサロン』を読解しながら、大橋さんは絵画について語ることを可能にする想像力が、ディドロにおいては摸倣再現の能力に密接に結び付いていることを指摘し、絵画を語ることによって再現前化するもうひとつのタブロー(あるいはイメージと呼んでもいいだろう)の次元において、天才において発現する力――想像力でも創造力でもある――とディドロが想定する諸物を生成させる物質的なものの力が重なることを明らかにした。このもうひとつのタブローにおいてこそ、物質的なものの力に貫かれたイメージが中心的な問題になるのだが、そこで同時にディドロが想定している歴史哲学的な対立である古代と近代――それに対応する天才と批評家――が交錯することもさらに示唆されていた。

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質疑応答では、最初に司会の柳澤さんが、六つの発表共通の話題を、イメージの力の問題、新プラトン主義にまで遡るイメージの現われの一元論というべきモデル、イメージが孕むある種の分節不可能性、そしてイメージについての思考が経験主義的、あるいは唯物論的思考の拡張をもたらしていることの指摘という四点にまとめ議論の土台を作り、基本的にこれらの問題をめぐってパネリストとのあいだ、そして来場者とのあいだでの議論が行われた。

個人的に興味深かったのは、イメージの力がすべての発表に共通したテーマであったことである。ここではこの力を象徴するひとつのイメージを提示しておきたい。クロイツァーが引用してもいるイアンブリコスは、『エジプト人、カルデア人、アッシリア人の秘儀について』において、シンボルの範例としてファルスを挙げ、それが宇宙の生成力のシンボルだと述べている。むしろファルスは力そのもののシンボルだと言ったほうがいいかもしれない。それが古代ギリシアにおいて境界石に用いられていたこともまた示唆的である。おそらく、イメージの力の発現は(内と外の)分割に関わり、だからこそイメージとは内と外との境界領域においてのみ体験される。雑誌の表紙、植物的なもの、フロイト=ラカンの眼差し――このような領域において眼差しの経験は固有の現実性を持つのではないだろうか――、クロイツァーのシンボル、活動写真(館)、ディドロのタブローは、おそらくそのような場であったのである。

最後になりましたが、若手研究者フォーラムに発表する機会を私たちに与えてくださった岡田温司先生、ならびにフォーラムを準備、運営していただいた鯖江秀樹さんをはじめとした岡田研究室のみなさまに感謝申し上げます。どうもありがとうございました。

(文責:森田 團)

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