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時の彩り(つれづれ、草) 016

2007.12.27 小林康夫

☆ 行く年(嵐のあと)

昨日、吉増剛造さんの「映画=詩」を見ながら、なぜか、人がある人にほんとうに「出会う」のはたいへんなことだ、とつくづく思った。

ひょっとすると、現にこうして吉増さんと話しをしていても、まだわたしは吉増さんに出会っていないのかもしれない、などと感じた(そう言えば、「ものごとはそれがなくなってはじめて、その本質が顕現する」と言っていたのは、4月にお会いしたジボーネ先生だったなあ)。そうしたら、その後に上映された島尾ミホさんに捧げられた「映画」(当日に新たに編集しなおした、とおっしゃっていたが)は、まさに25年前にはじめて出会った、そしてもはやこの世にいない島尾ミホさんへの吉増さんの「出会い」の旅であった。その「激しく苦しい官能」にわれわれ観衆は言葉を失った。だから、わたしも舞台上で、吉増さんに、わたしも吉増とお会いしてもう二十年以上にもなるけど、まだほんとうには「出会って」いないようにも思う、とつぶやいていた。

「出会う」なんて簡単な言葉だけど、「ほんとうに出会う」のは難しい。人生のすべてはそこにかかっている、と年の瀬ということもあって、わたしも少し感傷的か。しかし、「出会う」ことへのパッションをもつことはなかなかのこと。多くの人は、「出会い」を懼れて、自己のうちへの自己を幽閉する。吉増さんの生の強度(それが詩!)に、わたしはあらためて脱帽!

UTCPも本来、「出会い」の機関としてありたい。今月もシンガポールからクロウ先生、ワシントンからパク先生を迎えた。お二人の講演やワークショップが3日連続。昨日、佛教と脱構築について対話をして、今日は、イスラームへの包括的なイントロダクションという次第。迎えた方の言葉に耳を傾けることは大切だが、それだけでは「出会った」というわけにはいかない。その言葉に対する応答が相手の心に届いて響いたときに、はじめて、ほんのわずかにしろ「出会い」への可能性が開かれる。そういう言葉を届けることが、ある意味では「責任=応答可能性」というものなのだ。

クロウ先生には、わたしは先生の言葉がはらむ感情、ある種の「怒り」の感情に、わたしはsensitiveであったということしか言い得なかったのだが、滞在中に同行した奥様が少し体調を崩されて、それをUTCPのスタッフが多少お助けした、それへのお礼をわざわざ帰国前日にオフィスを訪れて伝えてくれた。そのおり、かれがわたしの返答の言葉をきちんと受け止めていてくれたことがわかって嬉しかった。

パク先生も、講演やワークサロンだけではなく、串焼き屋で開かれたUTCPの忘年会にもきてくださって対話を続けたが、佛教と脱構築から出発して「テンションの倫理」へとみずからの思考を深化させていこうとする、(ごめん!)ちょっと「けなげな」強さにわたしは感銘を受けた。われわれとお二人との「出会い」への旅が、ようやくはじまったということだろう。

新しいUTCPがはじまって3ヶ月。わたしとしては、激しい、いいスタートがきれたと思う。正直言うと、若い研究員の方々の「出会い」へのパッションは、まだまだ十分ではないし、対話の力ももっと発展させてもらいたいと願うが、それは今後、少しずつ展開されるだろう。来る年への希望を預けて、UTCPの活動を支えたくださったすべての方々に感謝と、「よい年を!」と申し述べさせていただきたい。


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