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時の彩り(つれづれ、草) 009

2007.11.02 小林康夫

☆ 海の思考(「わたしは、自分がなにから逃げるのかはわかっているけど、なにを探しているのかはわからないのです」モンテーニュ

 海に行きたい!と11月の薄曇りの空に叫んでもむなしいか。UTCPも活動が一挙にフル回転しはじめて、リーダーとしては嬉しいかぎりだが、しかし全部におつきあいしているとこちらの身があぶないくらいになってきた。

先週から今週にかけて、ドゥルーズ講演(仏語)、「ユートピア=〈夢の島〉」セミナー(英語)、イタリア「旅」シンポジウム(伊語)と参加してきて、それぞれ異なるトポスを縫うようにしてわたしの頭のなかにひと筋の「線」が、澪のように!、浮上するとすれば、それは、まさに地上的な「線」を無効にする「海」の茫洋として非人称的な「面」。これは、火曜のわたしのセミナー(「時代と無意識」)でドゥルーズ哲学について論じあっているときに、わたし自身の最終の興味は、あの錯乱分裂的、かつ逃走=闘争的エクリチュールを通じてドゥルーズが見たで「あろう」、強度の地理でもあるあの「内在平面」をわたしも、しかし錯乱せずに、見たいということに尽きる、と思わず言いだしてしまったこととも関連する。

グレーの海面の下には、巨鯨も怪物も不気味なものも、そのすべてが隠れている。「存在の下に〈ある〉?もの」――それに出逢ってしまうことが、昨日(11月1日)のシンポジウムで問題になっていた「難破」ということ(そして言うまでもなく、その事態こそがすぐれてドゥルーズ的な「出来事」なるもの)。その前日に、PDのガブラコヴァさんが扱った日野啓三の小説に現れる「夢の島」を埋め尽くすがらくた残骸はきっと「海」が不可能になり、「怪物」が「ゴミ」に置き換わってしまったわれわれの「時代」の指標なのかもしれない。「難破」はもはや不可能だ。それは単なる「事故」に置き換わってしまった。ジブラルタル海峡の外は、「地獄」という「外部」なのではもはやなく、そこもまたどこか見覚えのある「地中海」。永遠の「煉獄」へとわれわれは運命づけられているのか、ダンテ・アリギエーリ君よ!――と、フィレンツェからいらした二人のすてきな女性研究者、デイさんとグエリッキオさんとを囲んだ昨夜のシンポジウムのあとの楽しい会話の延長で、今回はちょっと錯乱的であることにご寛容を賜りたく……どこからともなくきこえてくるのは、きっと武満徹さんの「Toward the sea」かな。

昨夜のシンポジウムの宮下志朗さんのハンド・アウトより)

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