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時の彩り(つれづれ、草) 004

2007.09.25 小林康夫

 冬学期(激しさを!)

「もう秋か!」――というランボーのフレーズが心に染みるように響きわたる季節(とき)、風も立って、「いざ生めやも」(ヴァレリー)と口をついて出る。こうなると、「季節よ、城よ」ときて「無疵な魂がどこにある」――これはまたランボーですね――までわたしの〈時間の抒情〉はポエジーの坂をころがるようにくだっていく。

そうそう、10月9日からはじまる冬学期、火曜Ⅴ限の後期課程の授業は「ポエジーを読む」ことにしておいたはず。詩歌はいつの時代にもあるが、「詩」は明らかにモデルニテの徴候のひとつ。その「時代」の哲学を、フランス詩ではなく、日本の現代詩を通して読んでみようか、と考えている。それと連続して、火曜Ⅵ限に大学院の講義をセットしたが、これはUTCPのリーダーとして行う基軸セミナーとも重ね合わせるような形で運営する予定(授業としては10月9日初日、UTCPセミナーとしては10月16日初日)。ここのテーマは今後1年間のこととして、「〈時代〉を問う」。すでに触れたように、歴史性の問題をできる限り広く問いかけることにしている。同時に、わたしがセミナーをするというより、ある種の共同研究の場であるような形を模索したい。これについては、近日中に本サイト上で固有の「場」を――おそらく〈哲学の樹〉として――立ち上げる予定。(なお、ご存じない方のために言っておくと、中島隆博さんとわたしが出会った場所も、二人が編集委員として加わっていた、講談社の『哲学の木』事典だったのです)。ともかく10月1日から新しく採用したPD/RA/共同研究員の若い力がUTCPに流れ込んでくる。中島さんともつねに言っていることだが、われわれは〈真正の激しさ〉を求めている。〈激しさ〉のない哲学なんて何になるだろう。〈時代〉を突き破る〈激しさ〉にこそ出会いたい。〈激しさ〉だけが希望!


 「檜垣」(蘭拍子をめぐる座談会)

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「檜垣」というのは能のなかでももっとも「重い」作品、世阿弥の傑作と言っていい。去年、前COE時代にベルリンの日独センターでUTCP主催で行ったシンポジウムで、ゲストの坂部恵先生が能の哲学をなさるというので、それにあわせるように、わたしは学生時代から魅惑され続けてきた「檜垣」の老女の存在論を取り扱った。そうしたら、この6月に、お家元の観世清和さんと松岡心平さん、横山太郎さんが話す座談会に呼ばれることになった。考えてみれば、松岡さんもUTCPメンバーだったし、横山さんもそのPDだったから――二人といっしょにストラスブールのシンポジウムに参加したこともあったな――これはUTCP企画と言ってもいいかもしれない。その記録が雑誌『観世』(檜書店)10月号に掲載された(前半部分。後半は11月号)。話の中心はその舞台で踏まれる特別な「乱(蘭)拍子」。そこに能の歴史のなにを読み解くかというスリリングな展開。もちろん専門家ではないわたしの出る幕はないのだが、しかしわたしが語る檜垣の老女の「恋の火」の「存在と時間」にじっと耳を傾けてくださったお家元が「心が洗われるようなお話しでした」と受けとめてくださったことが忘れられない。


 案内(直島・10月6日)

この夏、高校生たちと「哲学」において出会うという美しい経験をしたその場所にまた戻っていくことになった。直島の家プロジェクトにあらたな作品が加わって計7軒になるオープニングの記念イベント「よく生きるアートの場所」のパネルディスカッションのファシリエーターという役割。パネリストがいっしょに光州ビエンナーレに「出品」した宮島達男さんや、去年のスタンダード展でその「はいしゃ」に感動した大竹伸朗さん、さらにベネッセコーポレーション会長の福武總一郎さんらで、みなさんにお会いして話ができるのはとても楽しみ。

ついでに秋の海の光をいっぱいに浴びて、その「永遠の切っ先」(これはボードレールだね)に刺し貫かれてしまえ、心よ。

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