【報告】ミシェル・ダリシエ「三木清の『構想力の論理』」
6月10日、「UTCP日本思想セミナー」の初回として、大阪大学のミシェル・ダリシエ氏に「三木清の『構想力の論理』」という題目で講演していただいた。
この発表でダリシエ氏は、三木清の『構想力の論理』の内容を説明しつつ、とくに、三木がいかに批判的な仕方でベルグソンの影響を受けたかに注目した。発表の冒頭で彼は三木の「直観」という概念を語り、次に三木のカント批判を説明し、最後に「三木の政治・社会的なベルグソン哲学」について論じた。ダリシエ氏にとって三木の「直観」はとても重要な概念で、それはベルグソンに由来するものである。
三木はベルグソン哲学を通じてカントの時間概念を批判する。ベルグソンによると、カントは「時間を空間化」した。換言すれば、カントは「流れた時間」に注意したために、「流れる時間」を見逃したのである。これに対して、三木はこの「流れる時間」に依拠して真の弁証法を構想する。この新しい視点を明確にするために、三木はさらにベルグソンの時間解釈をも批判する。たしかに、三木はベルグソンに依拠してカントの抽象的時間からもっと感性的な方向に進むのだが、しかし、ベルグソンの純粋持続的時間も結局、抽象的時間でしかないと判断するのである。そして、三木は動いている生命に着目して、生命の形は弁証的に精神と物質を含めているとする。両方を含んでいるからこそ、生命の形の弁証法は新しい歴史観を形成するとダリシエは説明した。この新しい歴史観は根本的に創造的な世界観である。この歴史観および世界観はいくぶんへーゲルの精神現象学を思い出させるものだが、三木の場合はヘーゲルとは異なり、非‐目的論的な歴史的過程を示すのである。
講演の後には活発な議論が繰り広げられ、三木清についての理解が深められた。ただ最後にわかったことだが、ダリシエ氏は三木清の思想の歴史的あるいは政治的意味に余り興味をもっていなかった。三木清の『構想力の論理』の哲学的意義を示すために、「私たちはなぜ今、こうした論理を信じるべきか」という質問には答えた方がいいのではないか。『構想力の論理』の歴史的意味を示すためには、「この論理を当時の歴史背景においてどのように理解すべきか」という質問にも答えた方がいいのではないか。三木の歴史的意味はある程度、彼の転向と繋がっているので、やはり彼の非マルクス主義的なマルクス主義と彼の非歴史的歴史哲学に注意したらよいと思う。たとえば「歴史的物質は表現」であるというのは非常に抽象的な議論だ。そして、そういう言い方は自身の歴史的条件を隠している。つまり、「物質」と「精神」という特別な対立は特に近代資本主義に普遍されているが、それを超-歴史な前提とすれば、「物質」や「精神」、あるいは「歴史的物質」というような概念の歴史性が見えなくなる。つまり、そういう概念は物象化の形で現われるので普遍的や自然なカテゴリーのようにしか見えない。そういう傾向は昭和の思想によく確認されるし、それは左派や右派に限られていない。この非歴史的な歴史観は政治的理想と繋がると当時に非資本主義的な資本主義の要求という形で現われる。こういう思想的傾向はさらに、転向の問題とも関係するのではないかと考えられる。
(文責:ヴィレン・ムーティ)