【報告】セミナー「フッサールにおける文化と間文化性」
5月8日(木)、マッギル大学(McGill University, Canada)のフィリップ・バックレイ(Philip Buckley)教授を迎え、「フッサールにおける文化と間文化性」というテーマで講演会が開催された。
バックレイ氏は冒頭、本講演のテーマをこのようなかたちで設定した背景には、自身の研究生活における二つの経験があると述べる。第一の背景は、フッサールが自らの倫理学的考察を展開した貴重な論考――すなわち、彼が1923年から24年にかけて日本の雑誌「改造」へ寄稿した、通称「改造」論文(Kaizo articles)――を翻訳した経験であり、第二の背景は、CIDA(Canadian International Development Agency)のプログラムを通じてインドネシアでの高等教育に従事した経験である。バックレイ氏はインドネシアで西洋哲学を講ずるという経験を通じて、異なる文化間における対話の可能性という問題を自らの思想的課題として自覚するに至ったと語る。こうしたすぐれて現代的な問題状況に取り組むにあたり、「改造」論文においてフッサールがなした社会哲学的な考察は絶好の出発点を与えてくれるとバックレイ氏は指摘する。
しかし、「間文化性」を思考するためにフッサールを出発点に据えるという発想は奇異に映るかもしれない。周知のように、フッサールは相対主義の克服を使命として自らに課すほどの、きわめて普遍主義的な傾向の強い哲学者である。たとえ彼が「ヨーロッパ的人間性」という特定の文化的特徴に着目することがあるとしても、それはそのうちに普遍的学を可能ならしめる「理性の目的論」を看取していたからに他ならない。フッサール哲学を貫く普遍主義的志向は、「特定の文化的世界に根づき」、「他の文化的世界と出会う」という文化的・間文化的現象をその哲学において思考することを不可能なものとするのではないか。
本講演はまさにこうしたフッサール理解に揺さぶりをかけ、それを覆そうとするものであった。バックレイ氏によれば、フッサールの社会哲学のうちにはきわめて興味深い両義性を認めることができるのであり、その両義性を通じてわれわれは現代における「間文化的交流の可能性」を思想的に捉えるための豊かな概念空間を開くことができるのである。
社会哲学を論ずるに際し、フッサールは文化への帰属を共同体への帰属と等置し、共同体という概念を個々人が有する「人格性」との比喩において捉えようとする。共同体とは、複数の人格性によって構成されながらも、それ自体が独自の「高次の人格性」を有する独特な存在者である。共同体は存在論的にその構成要素である個々人に依存しているのだが、しばしば個々人に対して支配的に振る舞い、個々人を階層的な秩序のうちに位置づけてゆく。このとき、共同体は「非本来的な」在り方を呈することになるとフッサールは述べる。では、文化に属することはフッサールにとってつねに「非本来的」であらざるを得ないのだろうか。この問いに答えるためには、フッサールにおいて本来性/非本来性の区別が生起した現場へと立ち戻らなければならないとバックレイ氏は述べる。
フッサールが上記の区別を初めて展開したのは『算術の哲学』においてである。それによれば、「本来的な認識」とは直観による直接的な思考のことであり、算術では「数えること(counting)」に相当する。他方、「非本来的な認識」とは記号を媒介とした間接的な思考のことであり、「計算すること(calculation)」に相当する。計算は思考の経済性という基準においては多大な貢献を与えるものであるが、その代償として原初の直観を見失うというある種の「盲目性」を課すものでもある。フッサールによれば、本来性から切り離された知は自らの源泉を忘却した単なる「技術」であり、その様態は自らの活動の意味に対する洞察を欠いた「受動性における能動性(activity in passivity)」にすぎない。たとえ非本来的な知が実践的な次元でその優位性を誇るとしても、それは自分が何をしているのかを本当には知らない「オイディプス的な知」にすぎないのである。フッサールの後期哲学は、こうした非本来的な知の様態(=学問の危機)に抗して、それを本来的な知の様態である「能動性における能動性(activity in activity)」へと目覚めさせるための努力として理解できよう。
以上を受けて言えば、共同体が本来的なものであるためには、そこに属する個々人が自らの活動の意味に対して哲学的な洞察をもつ必要があるということになろう。だがそれは、共同体が完全な「理性による支配」によって貫徹されることを意味するのだろうか。
バックレイ氏は、フッサールの強調点はむしろ、非本来性と本来性との緊張関係を積極的なものとして認めることころにあると語る。われわれはつねに多かれ少なかれ世界のなかへと没入した非本来的な状態において自らを見出すのであり、そこから完全に退去した上で世界そのものを外側から見通すことはできない。純粋な現象学的還元は不可能なのである。そこでフッサールは、世界の内側にとどまりつつ現象学的還元を行うこと――すなわち、「日常的な現象学(mundane phenomenology)」を行うこと――に焦点を当てる。
「日常的な現象学」が開始されるのは、特定の文化のうちに根づきつつ異なる文化と出会い、それによって両者の間に敷かれた様々な「境界」の自明性が問いに付される場面である。バックレイ氏は、こうした境界は他の文化圏との間にだけではなく、自らの文化圏のうちにも、また、個人のうちにすら存在していると指摘する。このように解釈された現象学的還元は、自己が行う理性的運動のうちに他なるものを回収してしまうのではなく、自らが還元によっては回収しきれない他なるものによって重層的に編成された多元的存在であることに気づかせてくれる。様々な境界線上で生じる異和や衝突は、個人が個人であり、共同体が共同体であるための不可避の条件なのである。バックレイ氏は、こうした人間存在の条件に対する自覚を出発点としてのみ、本来的な共同性を思考するための通路が開けてくるだろうと指摘し、本講演を閉じる。
その後、会場からはいくつもの質問が寄せられ、本来性概念に関する解釈の問題から、本講演で描き出されたフッサールとハイデガーとの距離、翻訳の可能性や他者の痛みへの応答といった様々な話題について活発な討論が展開された。
バックレイ氏が繰り返し強調するように、対話を通じて間文化的な理解を進めてゆくことは、いかなる保証も約束もない困難に満ちた活動である。だが、そうしたこともまた対話の可能性の条件の一部をなすということは、バックレイ氏が本講演でのフッサール解釈を通じて明らかにした通りである。共生の地平を問う上でフッサールが今なお重要な洞察の源泉であり続けているということを再確認させられたという点で、本講演は参加者全員にとってきわめて意義深いものであったと言えよう。
【文責・小口峰樹】