【報告】「1968年代」の残光―〈68年5月〉の歴史化と抵抗
5月14日、中期教育プログラム「時代と無意識」の一環として、西山雄二氏(UTCP)による講演 《「1968年代」の残光――〈68年5月〉の歴史化と抵抗》 が行われた。
タイトルは「1968年の残光」ではなく、《「1968年代les années 1968」の残光》である。「ある出来事によって歴史的時間性が切断されることで姿を現わすのが〈時代〉である」(小林康夫)ならば、その出来事を点的に刹那的なものとして捉えるのか、線的に厚みを持ったものとして捉えるのかによって、切断面が剥き出しにする現代フランスという時代の相貌もまた異なってくるだろう。60年代や70年代といった時代における68年の重要性を考えた場合、1968年こそが時代を切り分ける参照点にならねばならない。「1968年代」とは、そう考えた近年の歴史学者によって提唱された表現である。
発表冒頭、「68年の精算」を声高に叫んで現フランス大統領となったサルコジーの演説と68年当時の緊迫したニュース・フィルムを立て続けに映写し、次いで60年代の世界情勢(ヴェトナム戦争、プラハの春…)と特殊フランス的状況(62年に終結するアルジェリア戦争)の中に68年を位置づけ、そして68年5月の出来事を時系列順に詳しく辿り直すといった、ともすれば「啓蒙的な配慮」として片づけられがちな「交通整理」は、実はすでにして時代の厚みを切り出そうとする「68年代」的方法論の一つの極である「歴史化」、すなわち68年の歴史内在的な解釈の実践であった。
そのうえで、西山氏はこれまでに提示された68年5月の多種多様な解釈を並列してみせる。極左の陰謀だった、大学危機の表面化だった、若者の祝祭的な反抗だった、新しい社会闘争の誕生だった、いや旧来型の階級闘争だった、心理劇(メロドラマ)にすぎなかった、などなど。これらの解釈の中で氏がとりわけその重要性を強調したのが、レジス・ドゥブレによる「5月=新たなブルジョワ社会の揺籃」説であった。既成秩序の変革を試みた68年世代こそがその後、資本主義を加速していくことになるとするこの仮設は、依然として検討されるに価するものであろう。
これと対になる形で示されたのが、68年5月を歴史からはみ出た純粋な出来事として解釈するというドゥルーズやブランショの歴史外在的な姿勢であり、西山氏によれば、発表副題のもう一つの鍵語である「抵抗」であった。「リアリストであれ、不可能を要求せよ」を68年の中心的標語と見なす西山氏自身は、基本的に「抵抗」の立場に立ちながら、できるかぎりその「歴史化」を試みることで両者の調停を図ろうとしているように思われる。68年5月に「移民」や「ユダヤ人」といった「他者の形象」を見出し、氏自身が2002年5月(ルペン・ショック)や2003年2月(イラク戦争反対デモ)、2004年1‐3月(「研究を救おう!」運動)にフランスで遭遇した経験と重ね合わせることで、他者との平等を志向し、他者と連帯しようとする際に生じる、ある種の解放をともなう「歓喜の情動」を68年代の出来事と見なそうとしているのが、その証左である。
発表後の質疑応答で、司会の小林康夫氏はまず冒頭の映像を振り返り、68年5月のパリの写真にはヘルメットも角材も見当たらなかったことが、日本の68年との最大の違いである、と指摘し、こう続けた。
政権奪取を片時も考えることなく68年5月を生きたパリの若者たちにとって、そして遠くから(フランス革命時のカントのように?)眺めていた同時代の世界中の若者たちにとってはなおさら、68年5月は「革命」ではなく、その標語としてはむしろ「パリの舗道の下には砂浜がある」のほうが政治的な射程よりも重要だったのではないか。社会を構成している堅固な「石畳」が投石用にめくられていったその下には、ただ「砂」だけが、「何もない空間」があった。文明以前の根源的な自然にほかならない砂、見る者を軽やかに砂浜へも砂漠へも誘う砂が喚起する想像、「砂の想像力」のほうが、絶えず離合集散を繰り返し、隣人との淡い(政治的ならぬ)連帯によって国家権力と斜めに切り結んだ68年の若者たちの行動をうまく掬い取っているのではないかと西山氏に問いかけた。
私見では、政治的な射程を逃れて根源的な「何もない空間」へ掘り下げていく「砂の想像力」と、アンガージュマンや革命のように政治的な具体的目標を持たない「異議申し立てcontestation」、そして空間を奪取するのではなく単に占拠するだけの気軽さと身軽さを強調する小林氏と、68年とは「ざらついた感触をともなうある種の喜びの質を想像する」ことによって「政治的なもの」自体を問い直す動きであったと捉える西山氏は、どちらも68年を直接的に「政治的politique」な運動であったと見るのではなく、政治的なものの起源(砂ないし空白の占拠であれ、歓喜の情動ないし共に存在することであれ)へと遡行しようとする「原-政治的archi-politique」とでも言うべき動きであったと見ている点で共通しているのではないだろうか。(文責:藤田尚志)
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