【報告】「哲学と大学」第4回 「条件付きの大学―フランスのエリート教育の光と影」
2008年4月30日、公開共同研究「哲学と大学」第4回が実施され、藤田尚志さん(日本学術振興会特別研究員)が発表「条件付きの大学―フランスにおけるエリート教育の光と影」をおこなった。
藤田さんの発表の大半はジャック・デリダ『条件なき大学』(西山雄二訳、月曜社)の細緻な批判的読解に充てられた。彼の主張は主に次の三点に要約される。
1)「無条件性」(政治)に関して――『条件なき大学』の中心にある「無条件性」という概念は、「正義」や「贈与」などと同様、きわめて後期デリダ的であり、脱構築不可能な逆説的観念ではないか。そしてその逆説性を誇張法によって強調するだけにとどまり、本来であれば直ちに行われるべき「無条件性」の精緻な分析や、《無条件性を条件づけるもの》の具体的な分析が無限に延期されているのではないか。例えば、「無条件性」に関して、デリダは「かのように」の論理に基づいて大半の議論を組み立てているが、しかし、脱構築を出来事の思想として論じる末尾において、〈おそらく〉の思考を引き合いに出している。「かのように」の論理と〈おそらく〉の思考の関係はいかなるものなのか。
2)職業/労働(経済)について――デリダは、資本の論理とはまったく無縁なものとして人文学の純粋性を想定し、それらを大学全般に押し広げようとしているようにみえる。しかし、デリダ自身言うように「大学が真理を事とし職業とする」のであれば、資本の論理ではないとしても、何らかの〈エコノミー〉が人文学においてすらも作動していると考えるべきではないか。
3)パックス・アメリカーナ(文化)について――デリダはカントの「かのように」をアメリカ的人文学研究が継承発展させたことをもって、ドイツの近代大学から現代アメリカの大学へのヘゲモニーの移行を彼なりの仕方で語る権利を確保しようとしているように見える。現代アメリカの大学をモデルとして世界中の大学について語るのであれば、はたしてそれを「資本主義の《精神》」と完全に切り離されたものとして語ることは可能だろうか。
私(西山)は訳者としていくつかのコメントをした。短い講演録『条件なき大学』はたしかに理解しにくい論点を含むテクストである。大学を擁護するために結局何をすればよいのか、という問いに対する具体的な回答は提示されず、理想論が語られているだけだという印象を受けるかもしれない。ただ、大学の無条件性と条件付け、大学の無条件性と主権性、人文学の純潔性と資本の論理をデリダは区別しているのだろうか。無条件性を分割不可能な主権のあらゆるファンタスムから分離することはきわめて困難であり、それゆえ、無条件性は主権との識別しえない地点でかろうじて生じるのではないだろうか。信仰告白の形でデリダが言い表わそうとしているのは、識別が困難な無条件性と主権性との関係ではないだろうか。
また、藤田さんは発表後半、フランスのエリート教育について、大学とグランゼコールを比較しながら分析した。選抜方式や財政面で著しい差別化が図られている両者だが、近年ではグランゼコールの特権性に対する批判も高まっている。例えば、国立土木学校の元学長ピエール・ヴェルツは、『グランゼコールを救わねばならないのか。選抜の文化から刷新の文化へ』(2007年)において、グランゼコールのフランス的閉鎖性を指摘し、ハーヴァードやイェール、オックスブリッジなど海外の一流理工系大学と比べて研究教育制度の規模が中途半端だとしている。
藤田さんは「エリート教育には賛成、ミクロエリート主義には反対」というヴェルツの主張を強調しつつ、「日本でエリート教育は可能か」と問う。藤田さんによれば、例えば、世界基準の哲学・思想研究のためには、1)哲学史・思想史に関する知識(技術力)、2)問題を直観する力ないし感性(身体能力)、3)確かな語学力が必要であり、そのための教育制度を日本でも整備する必要がある。
私見では、ミクロエリート主義は、例えば、社会的に負けたくないという心理に後押しされて、有名校に入学・進学することで将来の安定を目指そうとする私的な出世主義と同義であるだろう。これに対して、エリート教育は、社会の安定と繁栄を実現するべく、公共的な視点から行動し思考することができる人材の育成のことを指すのだろう。藤田さんが指摘するように、「エリート教育」という響きが敬遠され、知性に対するシニシズムが浸透する日本社会でこの問いを考える意義は大きいと感じられた。
(文責:西山雄二)