【報告】UTCP若手研究者シンポジウム「いま、共生の地平を問う」
4月20日、UTCPに所属する若手研究者たちが一堂に会して、2008年度のオープニング・イベント「いま、共生の地平を問う」が開催された(司会:西山雄二)。
串田純一さん、古橋紀宏さん、大竹弘二さんによる発表は、イベントの問題設定のとおり、三者三様の視点から「共生」を今日において問い直そうとする試みであった。
1. 串田純一「共生あるいは偶然と必然のあわい ―生物学的投企の解釈から」
トップバッターを務めるのは、去年までUTCPの研究員であった串田さんである。発表は、「共生」の「地平」、「共生」の必要条件をめぐるものだったといえるだろう。串田さんはまず、『生物から見た世界』においてヤーコプ・フォン・ユクスキュルが記述するダニの行動と、『偶然と必然』でジャック・モノーの語る大腸菌内でのタンパク質の合成のメカニズムに共通する構造を取り出してみせたうえで、生物学的な方法論についての批判的な検討を試みる。
ユクスキュルの記述によれば、木のうえからダニが身を投げて温血動物の上に落ちるのは、哺乳類の皮膚腺から漂い出る酪酸が、ダニにとってそちらへ身を投げろという信号として働くためだ。ダニは下に温血動物がいることを予想して身を投げるのではない。「酪酸が存在している」ということと、「そこに哺乳動物がいる」ということとはあくまで別の事態であり、酪酸に反応して落下するダニの行動自体は合目的的なものではないからだ。また、ダニに味覚は無い。温血動物の上にうまく落ちたダニは「単なる温かさ」を関知して、自身の栄養となる血液を吸う。ここでもまた、「単なる温かさ」と「血液そのもの」は別であり、ダニの行動自体は合目的的なわけではない。そのことは人工膜と任意の暖かい液体とによる人工環境を作ってやると、ダニは血を吸うときと同じように、その液体を吸引してしまうことから説明できる。すなわち、ダニの「身投げ」、および「吸引」という行動は、「酪酸の存在」および「単なる温かさ」への因果的な反応であるのだから、ダニが血にありつくためには、「酪酸の存在」と「そこに哺乳動物がいる」という事態、および「単なる温かさ」と「血液そのもの」という要素が共存・隣接している「環境」のなかにいなければならないのである。
またモノーが記す、大腸菌におけるラクトース分解系タンパク質の合成の発現機構にも同じ構造が取り出せる。まず大腸菌を、ガラクトシド(糖の一種)を含まない培養基のなかで発育させる。その培養基にガラクトシドを加えてやると、ガラクトシドの分解に必要なタンパク質がそれまでの千倍の速度で合成される状態が続くが、ガラクトシドを取り除いてしまうと、ほとんど即座にタンパク質の合成速度はもとの遅い速度に戻ってしまう。この一見すると「奇跡的なまでに合目的的な現象」にみえるシステムも、ガラクトシドを構成する酸素原子の一つを硫黄原子で置換した誘導体を培養基に加えてみるという実験によって、そうではないことが明らかになる。この偽の誘導体と酵素は複合体を作るものの、加水分解されないまま留まるために分解と合成のフィードバック・システムが成立しない。すなわち、このシステムの活動は酵素の基質を合目的的に取り込んでいるのではなく、ガラクトシド分子の立体構造に対してあくまで因果的に反応しているのであり、したがって加水分解という事実と、システムを作動させる誘導物質があるという事実との間には必然的な関係は無いのである。ユクスキュルのダニの場合と同じように、この有機的システムの成立も、互いに独立した諸事象の共存の総体としての「環境」次第のものなのである。
このことを言い換えれば、ダニやタンパク質に対しておこなわれた実験は、有機体の活動の条件である「環境」を記述しようという試みだったといえるだろう。そのことを指摘したうえで、串田さんは、いくら実験を重ねても「環境」それ自体は記述しきれない、環境の「全体性」という性格はいつまでも残ると言う。なぜなら、ある現象に関して生物学が見いだす法則性は、いつも先行する別の生命的あるいは有機的現象を前提としているからだ。それ故、生命を何らかの非生命的なものへと還元することは生物学という学問の方法論上、原理的に不可能なのである。
その上で串田さんは、上記のような生物学のスキームに対して哲学的な解釈を行った。一見では合目的的に見える有機体の活動のうちに偶然性を見いだす人間の能力は「投企」と言い換えることができるが、この「投企」そのものが、そのつど「事実性」、すなわち環境という、記述に還元できない有機体の活動の条件全体に依拠している。そう論じた串田さんは、最後に、自分たちにとって「共生の地平」が問われるべきものになっているということは、「必然であった自然の結びつきを単なる偶然として断ち切る能力を律することが必然的に要請されている」という定式を引き出し、発表を締めくくった。
2. 古橋紀宏「魏晋南北朝時代における礼制の変遷と「共生」」
続いての二つの発表は、「共生」をめぐる具体的な事例を取り上げたものとなった。共同研究員の古橋紀宏さんによる発表は、魏晋南北朝時代における礼制の変遷を、「共生」および中国におけるクラシカル・ターンと関連づけて論じたものだった。
前漢の儒教徒の手になる、周の時代の制度を理想化して描いた書物である『周礼』は、中国古典の「共生」概念である「均の理念」を体系化したものだった。その後、後漢末に『周礼』を中心とした諸文献を解釈した「周制」が形成されるが、魏晋南北朝時代には、その「周制」に従って実際の制度を改変しようとしたのである。例えば『周礼』に描かれた周の井田制は、北魏において均田制が成立するにあたって大きな影響を与えた。それは小林康夫リーダーが言うように「古典に記された周の制度を、実際にかつて存在したものと考えて、そこに回帰する試み」であったといえるだろう。
古橋さんは、「周制」の制度化のなかから、三年の喪の制度化に注目する。三年の喪とは、『論語』陽貨編の一節に由来するもので、父母が亡くなったとき、足かけ三年の喪に服することをいう。弟子の宰我が、喪が三年とは長すぎると不平を言うと、孔子は、人はみな生まれてから三年間は父母の懐に入っていたのだから、父母から受けた愛情を反芻するには喪も三年間必要なのだと言い返すのである。したがって三年の喪の「制度」化をめぐる動きには、「孝」と「忠」の複雑な絡み合いを読み取ることができる。「周制」が積極的に行われて一般へと浸透し、やがて強制されるものへと移行していくのは、異民族の支配する北朝に於いてであった。その後、北朝では宗法(嫡系重視)の制度化が起こり、経書の原理の一つである嫡系の優越が身分にかかわらず認められることになる。なぜ北朝でこのように血統に基づく「孝」の「制度」化が進んだのかといえば、そこには中島隆博事務局長の言うように、「『礼』のシステムを一つにまとめあげることによってしかセキュリティーが担保できない」状況があったのである。
3. 大竹弘二「国家から文化へ―ヨーロッパ新右翼の政治」
最後に共同研究員の大竹弘二さんが、1970年代後半以降のヨーロッパにおいて勢力を広げてきた新右翼について分析をおこなった。大竹さんは現在進行形の事象を扱うなかで、ありうべき「共生」がどのようなかたちで浮上しうるのかをじっと見極めようとしていたように思う。発表は、随時カール・シュミットの議論を参照しながら展開した。新右翼の思想的源泉には、三十年代後半以降の状況に反応したシュミットの仕事があるという。
新右翼の台頭の背景には六十年代の左翼による政治反乱と、七十年代の経済危機に伴う社会不安がある。そういった混乱状況に対して新右翼が採用した戦略は、伝統的あるいは道徳的価値の称揚によって自らの再基礎付けを図ろうとすることだった。ここで注目すべきは、ここで基礎づけられる「自ら」が従来のネーションの枠には必ずしも収まらない、ヨーロッパの「文化」的な同質性によって規定されていることである。
この同質性は、その外部に対しては単一なものとして機能するが、内部に対しては差異が組み込まれており、ヨーロッパは諸民族の棲み分けによって秩序づけられた共同体として構想される。大竹さんはこういったヨーロッパ像についての正鵠を射た表現として、新右翼のイデオローグであるヘニンヒ・アイヒベルグによる造語「エスノプルーラリズム(Ethnopluralismus)」を挙げる。世界は複数の広域からなる多元的なものとして構想され、ヨーロッパもまたそのように構想されるのだが、両者のあいだには文化的な同一性を担保するための「差異への権利(droit à la différence)」が差し挟まれており、それが移民の排斥や人種主義を正当化する論理として機能するのである。
この「エスノプルーラリズム」は旧植民地に対する論理であるばかりではなく、アメリカ型の普遍主義、すなわち覇権主義的な軍事介入やグローバル資本主義の流入に抗するための論理でもある。
もっとも、前者の覇権主義的な軍事介入への抵抗については、それほど新右翼に特徴的な態度とは思えない。たとえば1999年のコソボ動乱の際にNATO軍が行なった空爆に対するアラン・ド・ブノワ──GRECE(「ヨーロッパ文明調査・研究集団」)を率いる、フランス新右翼の代表的な人物として知られる──の主張は、アメリカが「人道的介入」と位置づけ、「戦争」と呼んだこの一連の介入について、「人権や『人道的介入』を隠れ蓑にして、道徳がグローバルな支配を僭称するに至る」というものだったが、周知のように、こういった主張は何も新右翼だけに見られたものだったわけではなかったからだ。
むしろ新右翼の反普遍主義に特徴的なのは、グローバル資本主義のもたらす「文化」破壊的な側面への反応である。物質として、イメージとして流入するアメリカ文化のもたらす「文化的な根こぎ」に対して、新右翼はみずからの文化的基盤をもって抵抗する。そこで招喚されたのが、八十年代後半頃からドイツで「ライヒ」や「中央ヨーロッパ」といった理念が復活したことや、イタリアからの分離を図る「北部同盟」の活動に顕著なように、既存のナショナリズムとは必ずしも直結しない過去であったことは注目すべきだろう。パオロ・ヴィルノが憤慨するように、今や、かつての左翼の最高の希望であった反国家主義を右翼が標榜するという事態が起こっているのである。
シンポジウム前に行われたミーティングで中島隆博・事務局長は「自分が抱えていない問いを抱えること」について語ったが、それは研究領域云々の話のみならず、今日の「共生」の地平を問うものにとって必須の行動ではないか。扱う対象は三者三様に異なっているように見えても、そこで話されていることが連続しているように感じられたのは、発表者のみならず、会場のなかにそういった姿勢が共有されていたからであるように思われる。
(文責:萩原直人)