【報告】グローバリゼーションの時代における明け開き――フランシスコ・ナイシュタット・セミナー「世界と時間」
2月末の数日の間に、UTCPの招聘で同時に来日していたフランシスコ・ナイシュタット氏(ブエノス・アイレス大学)とトム・コーエン氏(アルバニー大学)の講演をそれぞれ2回ずつ聴く機会を得て、まるで示し合わせたかのような両者の問題意識の近さ、そしてそれゆえにこそ際立ってくるアプローチの相違に驚かずにはいられなかった。大げさにいえば、人文学が21世紀の世界状況を前に迫られている自己反省の2つのあり方を見せられたような気さえしている。以下では28日(木)に行われたナイシュタット氏のセミナーについて報告するが、この点についてもいくらか示唆できればと思う。
「世界と時間」という枠組みを立てるとき、ナイシュタット氏の問題意識の中心にあるのは「世界史」と「世界化」という(日本語では)一字違いの語で呼ばれる二つの「大きな物語」の対照的な性格である。なるほど一方はもはや終焉を告げられて過去のものとなっており、他方は今まさに世界中を席捲し、さまざまなレベルで日々話題に上る概念だ。
ロベルト・エスポジトを参照しながら氏が整理するところによれば、「世界史」は人間ないし人類概念を基盤として人間の進歩を辿るものであり、哲学的理性によって再構築されるべきものであった。対して「世界化」は世界同時的な強度化の現象である。したがって、いわば「世界史」の時間図式に「世界化」の空間図式が取って代わったと考えることができる。もちろん、「世界史」がまた地理的空間の征服の歴史であり、それがブローデル=ウォーラーステインの「世界システム」を用意したことを考えれば、時間図式/空間図式という単純な対立は避けねばならない。とはいえ15世紀以来の連続的な歴史プロセス(「世界史」)と現在の「世界化」の間にある種の断絶が認められるのは確かだ。
「世界史」についてまず振り返っておくなら、中世に至るまで人々は周りの環境を変えようとはしなかった。唯一意味のある歴史とは聖なる歴史であり、世俗の歴史には意味がないと考えられていた。しかしルネサンス以降、人々は周りの環境に手を加えて自分の環境を整え、自らの物質的・社会的基盤を形成するようになる。そして17世紀から19世紀にかけていわば歴史認識の世俗化が起こり、歴史は神の国へ近づく過程としての出来事の叙述としてではなく、人間が産出すべきものとして捉えられるようになる。そこで決定的な役割を演じたのが人間の観念であり、それと共に、主体たる人間の歴史としての普遍史、世界史(Weltgeschichte)の観念が生まれたのだ。19世紀に隆盛を見た歴史主義は人間主義と不即不離の関係にある。
歴史主義は19世紀後半にはすでにニーチェによって鋭い批判の対象となっていたが、20世紀になると人間の作り出した科学技術が人間にとっての脅威となりうることが繰り返し証明された。啓蒙が神話に回帰せざるをえないことを説得的に示したのはアドルノとホルクハイマーである。ベルリンの壁が崩壊すると「世界史」という「大きな物語」は終焉を迎え、新たなエピステーメーとして現れたポストモダンによる歴史哲学批判が行われた。そこでは全体は部分へ解消され、「世界史」という「大きな物語」と歴史哲学は失効し、歴史はもはやいかなる必然性も有さず、偶然性、異質性、多様性によって織りなされるものとなった。
しかし、率直にいって、ここまでならば、「人間」と「世界史」の誕生から消滅までの歴史を確認したにすぎない。ナイシュタット氏の議論の肝はむしろこの後にある。
氏が注意を促すのは、90年代位から、もはやポストモダンとは呼べない新たなタイプの言説が見られるようになったことである。なぜポストモダンではないかといえば、そこにはある種の必然性、自然主義、つまり「大きな物語」が再び顔を出しているからである。それが「世界化(mondialisation, globalisation)」の時代である。われわれはいわば束の間の幸福な時代としてのポストモダンを脱出し、経済原理に支配された、9・11に象徴される「世界化」という脅威の時代に入った。「世界化」の「世界(globus)」とは地理的・歴史的に飽和された全体性であり、あらゆるところが同時に同じ濃密なプロセスに晒されている。このカタストロフィックな時代に、しかし注目を集めている2つの言説がある。すなわち「生政治(biopolitique)」、そして「地政学(géopolitique)」である。すぐれて「世界化」の時代に相応しいこれらの言説は、「世界史」と「世界化」の対立を前にして、歴史哲学とは異なったかたちで歴史を思考し直すための突破口を与えてくれはしないだろうか。このように問うたうえで、ナイシュタット氏は、ハイデガーの「Lichtung(明け開き)」、ブロッホの「希望」、そしてベンヤミンの「救済」といった概念をその導きの糸としうることを示唆して講演を締め括った。
トム・コーエン氏は講演の中でたびたび「われわれはつねにすでに「後」の時代にいる」と繰り返していた。「後(ポスト)」という時代意識はナイシュタット氏にも共通のものであろう。しかしコーエン氏が「気候変動」の脅威をヒッチコックの『鳥』を通して前-歴史的、前-人間的なものの回帰として示そうとするとすれば、おそらくナイシュタット氏にとって「気候変動」とはすぐれて21世紀的な「世界化」の時代の政治的な産物なのであって、「ポストモダン」(「ポスト・ポストモダン」であるにせよ)の非政治的な枠組みでは太刀打ちできないものなのだ。
(文責:郷原佳以)