【報告】学ぶこと、祈ること、信じること―ワークショップ水月昭道「高学歴ワーキングプア」
3月17日、水月昭道氏(立命館大学衣笠総合研究機構研究員、浄土真宗本願寺派僧侶)を招いて、ワークショップ「高学歴ワーキングプア―人文系大学院の未来」が開催された(司会:西山雄二)。
いつものUTCPイベントと比べると、学部1年生から院生、非常勤講師、そして教員や一般市民まで幅広い層の聴衆が集まった。深刻な論題だったが、水月氏のユーモア溢れる絶妙な語り口に引き込まれて、あっという間に時間が過ぎた。
水月氏の新書『高学歴ワーキングプア』(光文社新書)は、発売から半年の現在、すでに8刷、7万部を超えた。まず、彼は執筆の背景、若手研究者を取り巻く現実、いま語られている問題について語った。この新書で指摘されている大学院の現実に関しては、すでに過去のブログに詳しく記したので繰り返さないでおこう。この日、水月氏がとくに強調した点だけいくつか書きとめておく。
若手研究者(とりわけ、現在1万6千人以上の余剰博士たち)をめぐって、その「質の問題」がしばしば指摘される。つまり、「現在、大学院生は量が激増したのだから、質も落ちている。だから、ほとんどの者が就職できなくて当たり前」という論理である。だが、水月氏によればそれは「ウソだらけ」の説明だ。単純に考えて、量が増えれば競争は激化し、質もまた向上しているはずだからだ。かつてと比べて優秀な人材が不安定な身分の「野良博士」として放置されているのだ。
また、水月氏は若手研究者のいわゆる自己責任論を慎重な仕方で斥ける。一般の若年フリーターと同じく、「博士号をとって仕事がないといっても、好きで大学に残ったのだから自己責任」という見解は広く浸透している。しかし、博士進学者は本当にフェアで適切な情報を与えられているのか。十分な情報が与えられて選択したならば、自己責任と言えるかもしれないが、そうなってはいないのではないか。なるほど、世間は院生の自己責任云々を批判してもよいかもしれない。だが、少なくとも、人文系の研究者は自己責任論を語ってはならない、それを言っては人文学そのものの価値が損なわれはしないか、と水月氏は言う。まずは、自己責任論を抑制することから出発しないと、大学院の問題解決の糸口は見えないのである。
そして、とくに大学教員が口に出す表現だが、「昔から大学への就職は難しいから仕方ない」という説明がある。たしかに昔も大学院生は研究職ポストを勝ち取ることは大変だっただろうが、しかし、問題なのは今と昔の量的な違いである。大学院生は20年前に7万人だったが、現在は26万人もいる。しかも、少子化によって市場は縮小する傾向にある。この圧倒的な量の違いを認識し、問わなければならないのだ。
これまで大学院では研究職への道という単線型がよしとされてきた。しかし、大多数の博士学生が大学教授職で就職できない現在、この人生モデルを複線化する必要がある。つまり、多様なスキルを開発することで、いろんな自分をみつけることが重要である。また、大学院の側も、複数の人生経路を提供できるような能力開発の場となるべきだ。水月氏によれば、大学院生にとってまず大切なのは、「学問をすることと飯を食うこととは本来、別」だと自覚しつつ、「自分の身は自分で守ること」である。仏教風に言えば、「聖の世界」と「俗の世界」は別、というわけだ。水月氏の年来の研究主題は「子どもの道草」であるが、彼は単線型の大学院モデルに対して、まさに「道草」をも含めた複線型の人生を提唱するのである。
(水月昭道『居住福祉ブックレット7 子どもの道くさ』東信堂、2006年)
ところが、大学院の現状はどうか。民間企業と比較した場合、人材育成という点できわめて劣悪である。民間の場合、雇用した人の能力を最大限に活かす環境整備をし、世界を相手にともに戦う仲間として社員を遇することは基本である。しかし、大学院では学生が自分のところの人材という意識はない。むしろ院生はあくまでも「子供」扱いのままで、しかも「子供」からお金(授業料)をとっている。教師は論文を書けとは言うが、論文指導のサポートはさほどしない。「大学はだまっていても人が入り、ほっておいたら邪魔者は勝手に消えてくれる」場所なのである。
さらに、水月氏は自らの学問観を披露した。人文学によって、「生きるということにたいして、必死で考えることができる。そのための、さまざまな経験をすることもできる」。とはいえ、「今なにをすべきかという問いをつねに持ち続けなければならない、そのしんどさ」はある。「どんなに注意を払っても、失敗を経験するのが私たち人間である。どれほど生きたいと願っても、いつかは死なねばならない」。「そのような人間の不自由さを自覚したうえで、どのように生きねばならないのか、と問い続けること」が人文系学問の使命である。「迷った時期もあったけど、人文系でよかった」と率直に告白する水月氏の表情は印象的だった。
水月は最後に、「自分が今もえていること」について語った。それは筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者同士のネットワークづくりである。ALSとは重篤な筋肉の萎縮と筋力低下をきたす神経変性疾患である。有効な治療法はいまだなく、呼吸器を装着する等の措置がもしとられなければ、多くの患者が発症後3年から5年で呼吸筋麻痺により死に至るという難病だ。ALS患者はかろうじて動かせる指先のわずかな動きや頬の筋肉、瞼の反応を電子信号化してパソコンに入力することで、かなりの時間をかけて文字を書く。水月はそうしたALS患者の現実に対して学問の力で何ができるのか、こうした現実をどのように考え、社会へと回答を寄せるのか、と最後に聴衆に問うた。
質疑の時間にはさまざまな議論が提起された。
「水月氏は大学院生の人生の複数化を主張するが、それは諸刃の剣ではないか。大学院個人の生き方を説くだけなら、むしろ文科省の大学院重点化政策を支持することになりはしないか。社会正義の観点から大学院制度の改革もまた提起しなければならないのではないか。」
「大学院生の人生の複数化は学生だけでなく、教員にとっても重要な課題。これまでの大学教員は人生の選択肢を研究職以外に知らない。だから、教員は学生に複数の職の可能性を助言する術をもたないまま教育をおこなう。その場合の指標は、この学生は学者になれるのかどうかという単線的なものしかない。」
「ともかく、水月氏の著作を出発点として、大学院の現状を社会に発信することが重要。」
「自己責任とはいえ、モラトリアム的に大学院に進学する若者も多いのではないか。論文を書いたり学会で発表したりして、社会的な責任を果たしているのだろうか。大学院生の自己責任というのは半分は当たっているのではないか。」
「大学院で研究しながら生活の糧を得るための手段を考える、と言われたけれど、では逆に、仕事をしながら学問をすることもできるのではないか。大学院に残って研究することのメリットは何か。」
「大学院重点化政策が失敗だと議論されているが、とくに教員の方にはそう言ってほしくない。私としては大賛成だ。なぜなら、機会が増えて、自分は大学院で好きな研究を続けることができたから。」
「大学院の個別的な問題も一般的な社会状況において、経済問題として考えなければならない。大学院生だけが悲惨なのではなく、格差構造が強化されるこの日本社会全体において、若者一般が非正規雇用として苦しい状況にある。」
ときおり、学ぶことと祈ることが類い稀な仕方で共存する学者に出会って、はっとすることがある。子どもの道草の実態と本質、高学歴ワーキングプアの問題、ALS患者のネットワーク構築に取り組む水月氏の姿を見て、彼はまさに学ぶ人であると同時に祈る人だと感じた。実際、彼は自らを「僧侶」ではなく「念仏者」と呼称する。「僧侶」という言葉には教師然とした響きがあるので、祈りをささげる「念仏者」の方が好きだという。教える立場が回避されつつ、生を学ぶ行為と生を祈る仕草が水月氏のなかで無理のない仕方で交錯しているように思われた。
私が思うに、高学歴ワーキングプアにとってもっとも切実な問いは「信じる」ということだ。苦しい研究生活のなかで、彼/彼女らには、自分を信じること、学問を信じ続けることが試されるからだ。私は最後にこの念仏者に、「学問において、信じることとは何か。私たちは何を信じることを許されているのか」、と問うてみた。
「私自身、この先どうなるのか、分かりません。実際、この4月からの身分(立命館大学で研究員として継続雇用)が確定したのは少し前のことでした。私は道が開けるだろうなどとは考えていないんです。私に何かやるべきことがあれば、どこかに縁が降りてくるだろう、と信じているだけです。学問の道で縁がなければ、また別の場所にきっと別の縁があるのだろう、と。縁をひたすら信じること、それは道が開けることとは違うんです。縁のなかに含まれる自分の使命にしたがうだけです。」
(文責:西山雄二)