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【報告】ソフィストとは誰か?

2008.02.07 「アカデミック・イングリッシュ」セミナー

2月5日、 納富信留・慶應義塾大学准教授を招いて近著『ソフィストとは誰か?』(人文書院、2006年。第29回サントリー学芸賞[思想・歴史]受賞作)に関する英語でのレクチャーを頂き、引き続いて討論が行われた。

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「ソフィスト」とは誰か?――本書は、「哲学史」の片隅で等閑に付されてきたこの問いを掘り起し、様々な視点からその答えを見出そうと試みている。最も外面的に定義すれば、ソフィストとは「古代ギリシア(およびローマ)において金銭と引き換えに様々な「知」を、とりわけ当時の民主政社会において必須であった弁論の技能(テクネー)を教授した職業人」である。これに対して、弁論ではない「対話」を実践しつつその相手から報酬は受け取らず、ソフィストと真っ向から対決して「哲学(フィロソフィー)」を打ち立てたとされるのがソクラテスである。ところが、そのソクラテスが同時代において事実上ソフィストと同一視されて死刑となり、またその「弟子」にはソフィストとして生きた人々もいたということを考えると、「ソフィストとは誰か?」という問いがそう簡単に答えられるものではないということがわかってくる。

そもそも、上記のような「哲学者の影としてのソフィスト」という像はプラトンの諸対話編によって形成されたものであり、自らを「ソフィスト的でないもの」として規定することこそが哲学の最初の課題だったのである。そして一般的には、この課題は「ソフィスト達は「真らしく」語る技術―それは「力」に他ならない―を教えようとしているが、哲学者はあくまでも「真そのもの」を愛する―なぜならそれは教えられないから―」というかたちで一つの回答を得たと言うこともできる。ところが、ニーチェ以降の反プラトニズムの流れにおいては、まさにこの「真理そのもの」というイデアの地位が根本的に問われざるを得なかった。事実、世界は今や再び壮大な「相対主義」に覆われつつあるようにも見える。

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こうした状況のもとで改めて哲学の可能性を問おうとするならば―そして現に私たちはそうしようとしているわけであるが―、やはり哲学の生成の条件であったソフィストの実像あるいは本質を今一度彼ら自身の立場から理解することが不可欠であるに違いない。ところが、「ソフィストの本質」は二重の意味で捉え難い。第一に、彼らはまさに語りの人であったために極一部の例を除いて書物を残しておらず、基本的にはプラトンやアリストテレスといった「哲学者」の著作とバイアスを通してしかその事績を知ることができない。そして何より、ソフィストの「本質」という発想自体が実に哲学的、つまり反ソフィスト的だと言わざるをえない。

とはいえ、ゴルギアスやアルキダマスの場合は今日まで伝承された著作がいくつか存在し、納富氏はこれらを翻訳しつつ丹念に解釈してゆく。彼らソフィストたちは、「有と無」や「真」といった古今の自然学者や哲学者の用語・議論を縦横に引用して巧みに組み合わせ、時にそれらの矛盾を突きながら、弁論を枚挙的・重層的に構築してゆく。それは何よりもまず、民主政下で政治的・司法的な決定権を持つ市民の聞き手たちを説得しある結論へと追い込むことを目指しているが、同時に哲学への鋭い批判あるいは皮肉(笑い)としてとらえることもできるのである。

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しかし、実はここでソフィストたちもまた重大な矛盾に直面しているということを見逃すことはできない。彼らは基本的に「語る人」であり、その知の核をなすのは、そのつどの場の情況・雰囲気に合わせて臨機応変に語りを繰り出す能力であった。そのため彼らは書くことを、語ることよりも容易で鈍重な余技としか見なしていない。ところが現実には、彼らの存在が歴史に残ったのはまさにプラトンおよび彼ら自身の「書いたもの」を通してのみなのである。その事情(例えばペロポネソス戦争敗戦以降のアテナイ民主政の衰退といったような)の如何にかかわらず、彼ら自身が何かを書かざるを得なかったという事実そのものが、ソフィストとその言葉の在り方の限界を端的に示していると言うこともできるのかもしれない。歴史とは、そして哲学とは、書くことと共にしか存在しないのだろうか? これはあまりに大きな問いであり、著者・納富氏も暗に示唆するに留まっているが、ソフィストと哲学者との間には書くことと歴史という契機が横たわっているということは間違いないだろう。

(文責:串田純一)

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