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【報告】「哲学と大学」 第3回「フンボルトにおける大学と〈教養〉」

2008.02.01 └哲学と大学

1月28日、公開共同研究 「哲学と大学」の第 3 回、「フンボルトにおける大学と〈教養〉」が実施され、斉藤渉(大阪大学言語文化研究科准教授)が発表をおこなった。

発表レジュメ(PDF)

周知のように、フンボルトは、ナポレオン軍に大敗後の荒廃状態のなか、プロイセンの精神的な権威の復興のために、内務省の宗教・公教育局局長としてベルリン大学の創設に尽力した重要人物である。局長フンボルトの主要な職務は、宗教・公教育局制度の整備、学校・教育計画の策定、財政管理の健全化(教員や聖職者の給与の安定化)であった。だが実際は、聖職者の教育行政への圧力や地方分権的行政機構の不統一から教育改革は暗礁に乗り上げ、フンボルトは一局長のもちえた権限に限界を感じて、1年半あまりの在職期間の後、1810年春に辞職願を出している。1810年9月29日にベルリン大学が創設された時、彼はすでにウィーン大使に着任している。それゆえ、彼の経歴や歴史的・社会的背景を加味した上で、ベルリン大学創設者=フンボルトという規定のイメージを捉えなおす必要がある。

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本発表では主に、フンボルトにおけるBildung概念が論じられた。これは動詞bilden(形成する・形づくる)およびその再帰形sich bilden(自らを形成する・形づくる)の名詞形であり、「教育」「陶冶」「教養」「形成(人間形成・人格形成・国民形成)」などの訳語が可能である。この語はさらに、教育(Erziehung)、文化(Kultur)、啓蒙(Aufklärung)などとも関連しており、当時の社会的・歴史的・思想的文脈を解明するうえで重要な言葉である。

フンボルトがその学校計画のなかで目指した教育は、一般的人間教育(allgemeine Menschenbildung)である。社会に役立つ応用技能の習得を目途とする職業教育ではなく、一般的人間教育は「人間自身を強め、純化し、整えること」を目的とする。それは「どのような人間にも必要な能力を育成する」という点で「一般的」である。また、一般的人間教育において重視されるのは、「素材」ではなく「形式」である。つまり、個々の学習の内容ではなく、さまざまな素材に共通する基盤となるものの習得、すなわち、「形式的陶冶(formale Bildung)」が尊重されるのだ。これは、実生活の要求に即した有用な人材の育成を目指し、古典語教育重視を批判した、啓蒙主義の教育学とは相反する考え方であった。例えば、「形式的陶冶」の論理によれば、古典語学習は、特定の職業に限定された効用ではなく、思考や判断の能力を養うという一般的目的のために有効かつ必要とされるのである(教育における「素材」と「形式」の関係――もちろん、両者を明確に区別することなどできない――は、今日の外国語学習を考えるときに興味深い議論である。「素材」として「役に立つから」外国語を学ぶのか、それとも、「形式」として「言語能力一般の向上のために」外国語を学ぶのか)。

フンボルトの大学論としては、「ベルリンに設置される高等教育施設の内的および外的組織について」がもっとも有名である。これは未完の草稿(アカデミー版で10ページ)であり、かつ、 成立時期が未詳(推定も1809年12月から1810年夏までの幅あり)であるという点で慎重な解釈を要求するテクストである。さらに、フンボルトはベルリン大学の構想にあたって、J. B. エアハルト、J. J. エンゲル、フィヒテ、シュライアーマッハー、シュテフェンスなどの既存の大学論を読んでいたと考えられるので、フンボルト独自の着想がどこにあるのかを見定めることは困難であるだろう。
 
斉藤はまず、大学の「孤独と自由」という論点を取り上げた。「[高等教育]施設が目的を達成できるのは、一つ一つの施設が学問(Wissenschaft)の純粋な理念と対峙する場合だけであるから、孤独と自由(Einsamkeit und Freiheit)こそがその領域内で指導的な原理となる」という有名な箇所である。この場合、「純粋」とは、社会や国家(大学の外部)による要求や介入を捨象したという意味であり、それゆえ、大学は自己の活動に責任をもち(=孤独)、他からの干渉を受けない(=自由)とされる。ただし、フンボルトはいたずらに大学にとっての国家無用論を唱えたのではなく、最終的には「実践」の言説を強調しているのであり、ここには、学問の純粋さの社会的実践という屈折した思考が描かれていると言える。

(「孤独」は客観的な概念ではなく、あくまでも反省的な概念である。つまり、孤独とは「独りでいること」ではなく、「独りでいると感じること」であり、例えば、ひとは「都会の雑踏のなかでも孤独でありうる」。大学を「孤独」と規定する場合には、それゆえ、その内省的な質が問われることになるだろう。意図的に社会から距離をとることのできる「孤高」なのか、それとも、社会から排除された「孤立」なのか。大学は社会とは異質な論理をもつ場であるべき〔=孤独〕だ、という場合、その反省的な質は時代と社会の各文脈において異なる。)

次に、フンボルトが提起したとされる、いわゆる「研究と教育の統一」である(実は彼自身はこの表現を使用していない)。「教師と生徒の関係もこれまでとはまったく異なったものになる。教師は生徒のために存在するのではなく、両者は等しく学問のために存在する」。大学での学問研究は教師を不用にし、学生はもはや学習者ではなくなる。「教育」が伝達可能な完成した知識の形態を前提とするとすれば、「学問」(研究と教育の統一)はつねに未完成な創造的探究であり、教育の対象とはなりえない。これは狭義の大学理念に収まるものではなく、「啓蒙」の課題としての「自ら考える」ことの実践という広義の文脈をもっている。

最後に、斉藤は、大学運営に関するフンボルトの実務的側面を強調した。魅力的な大学運営は諸外国からの留学生を引き寄せるため、ベルリン市への経済効果が見込まれること。また、ベルリン大学の創設によって、政府に対する国内の知的尊敬を高めうるだけでなく、他のヨーロッパ諸国に対する国家主義的な対外文化政策としても有効であること。「深く徹底した精神は、学問と技芸においてドイツ民族が他の民族に勝っている点ですが、それは大学によってのみ維持されうるものです」言うフンボルトには、すでに「ドイツ的大学の自己主張」の問いが見え隠れしている。

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質疑の時間にはさまざまな論点に話が及んだ。ここでは、フンボルト・モデルに関する論争を引き起こしたパレチェクの仮設にだけ触れておこう。

(パレチェクの立論に関しては、潮木守一氏の論考「フンボルト理念とは神話だったのか―パレチェク仮説との対話」広島大学高等教育研究開発センター編『大学論集』第38集、2007年3月)が有益である。

シルヴィア・パレチェクは、論考「19世紀ドイツの大学で『フンボルト・モデル』は広まっていたか?」(2001年)において、近代的大学の理念を提示したとされるフンボルトの影響を否定した。まず第一に、「フンボルト・モデル」「ベルリン・モデル」と呼ばれるものは19世紀を通じて知られておらず、1910年以降に流通し始めたものである。つまり、ベルリン大学100周年記念行事を通じて、大学の「フンボルト・モデル」は発見され、神話化されたのであり、それは、当時の自然科学の隆盛に対抗するための精神科学の復興の試みでもあった。また、「研究と教育の統一」という大学モデルが19世紀に浸透していたかどうかはきわめて疑わしく、実際は依然として職業教育が大学の主たる役割であった。

斉藤によれば、まず、パレチェクは主に19世紀の百科事典や法律教科書を調べて、フンボルトの名前が引かれていないことを論拠に「フンボルト・モデル」の影響力を否定する。フンボルトの大学理念には、たしかに事後的な伝統の発明という作為性がつきまとうものの、しかし、彼女の議論にはいくつもの留保をつけなければならない。例えば、パレチェクはベルリン大学関係の資料などは参照しておらず、こうした関係資料を踏まえてより精度の高い説明を導き出すべきではないだろうか。次に、フンボルトは独創的な思想家ではなく、むしろ、さまざまな思想の網の目のなかで自らの言説を紡ぎ出した人物である。それゆえ、「フンボルト理念」をフンボルト個人に即して実体化し批判するのではなく、むしろ、当時のもろもろの大学論の伝統と影響関係から出発して、「フンボルト・モデル」「ベルリン・モデル」を読み解く必要があるのではないだろうか。

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フンボルトが準備したベルリン大学は敗戦後の荒廃状況のなかで、国家の精神的権威の復興のために誕生した。

「国家が不幸にもこれまでとまったく違う状況に置かれた場合、何らかの方法でふたたび諸国の注意を自らに向けさせ、何らかの点で抜きん出る努力をすることが必要だと思われる。啓蒙と学問の振興によってプロイセンはいつも尊敬を勝ちとってきたが、この尊敬を増し、外国の賛同を取りつけ、政治的にもまったく無害な方法でドイツにおける精神的権威を獲得することは容易であろう。こうした権威は、さまざまな点できわめて重要になりうるものである。」

過度の経済的競争を強いるグローバル化経済によって、国家が「これまでとまったく違う状況に置かれた」現在、大学は諸個人の「精神的権威の復興」に寄与する場になりえているだろうか。すでに政治・経済の論理に幾重にも包囲されている以上、大学は「政治的にまったく無害な方法で」学問探究を進展させることはできない。フンボルト・モデルが発明された伝統だったとしても、彼が提起した問いの数々――大学の主権性、研究と教育の統一ないしは対立、大学組織と経済・社会との関係、学問の宛先としての権威の所在――は、とりわけ学問が困難な時代において、何度でも私たちに回帰する。

(文責:西山雄二)

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