【報告】「共生と詩(1)―吉増剛造と《友愛の庭》」
12月26日、UTCPワークサロン「共生と詩(1)―吉増剛造と《友愛の庭》」が開催された。吉増剛造氏の映像作品数編を上映し、その合間に小林康夫が対話を試みるこの催事は、UTCPの2007年最後の年送り(国内)イベントとなった。
冒頭、真っ暗な会場で作品「エッフェル塔」の映写がおもむろに始まる。パリ市街地を走行する自動車の中から撮影される映像。エッフェル塔を求めて車は移動し、車内で撮影する吉増自身のつぶやきにも似た詩的な語りが聞こえてくる。撮影カメラの設定によって、映し出されるイメージは二重写しとなり、光が時間的・空間的なずれをもたらす。吉増自身、このイメージを「昆虫の複眼的世界にも似た光の納豆現象」と卓抜な言葉で形容した。また、映像内でカメラを回す吉増の言葉と会場での吉増の語りが同一人物の二重の声として会場に共鳴する。映像内で吉増はエッフェル塔に接近する経験を驚嘆とともにとめどなく語る。同時に、会場での吉増はいくぶん乾いた口調で映像作品に事後的なコメントを断続的に加えていく――かくして、イメージと声の二重性によって、この映像上映は会場を特異な時空へと変えたのだった。
二本目は、先週来日したクロード・ムシャール教授(パリ第8大学)の自宅を訪問したときの映像である。オルレアン駅から車を走らせて郊外へ。ムシャール宅で食卓を囲み、卓上の瓶やグラスがやはり二重写しになり、さまざまな色の光の反響世界が画面一杯に広がる。その後、ローマ時代の遺物が今でも出てくるといわれる地下室へ。唐突に、樹木に登るムシャール氏のイメージへの転換。そして、やはり二重写しになった無数の葉、葉、葉・・・緑の色彩の残響が画面を覆いつくし、大きく揺れる。
小林康夫との対話もまた、イメージと言葉の連鎖だった。「今日は吉増さんが自分の作品を見るという特別な映画館をつくりたかった」、と小林の前口上。
吉増の映像作品には、ジョン・ケージ作曲の「ニアリー・ステーショナリー」のBGMとパウル・ツェランの詩が頻繁に登場する。
「あなたはわたしを どうぞ 雪でもてなしてくださってかまいません」というツェランの言葉が昨夜眠る前に思い浮かんだ、と小林。
さっきの「エッフェル塔」の形姿はいやに細かった、実際はスカートを履いたようにみえるんだけど・・・と小林。
エッフェル塔が好きなトリュフォーを観て研究したんだ。たしかに、塔の映像は細い紐のようだったなぁ、水っぽいというか、艶っぽいというか・・・と吉増。
対話は世界の表現方法という核心に入っていき、吉増の言葉が溢れ出す――「時間のリズム、世界のとげとげしさを把握する手法と詩と映像は同じ。世界を明瞭に理解するのではなく、世界の割れ目をこしらえていく作業。詩を書くとき、割注をはさむように、極小の文字を挿入して時間の割れ目を表現してきた。そうした手法が、最近は映像創作として結実していったのかもしれない」。
「世界の表面を引っ掻くこと、引っ張ることが重要。いわば、「目の筆先、目の筆触」によって世界を描くこと。なるほど、ヴィトゲンシュタインは目を世界の限界として図に描いた。でも、世界を線で囲った点には賛同できない。世界に限界はないのだから」。
それでは「秘密」についてどう思う?、と切り出す小林。
秘密と告白、いやむしろ白状。秘密と白状の往復運動に身を委ねることこそが、手間暇をかけて言葉をつくりだすこと、という吉増の明答。
いや、それは個人の秘密であって、世界の秘密については?、と言葉を返す小林。
たしかに。世界の向こう側へと恐れつつ接近する感覚。文字を書きつけながら、抵抗を感じながら紙にもぐりこむ感覚、つまり、大地にもぐりこむ感覚、と応答する吉増。
その後、南方熊楠の軌跡を辿る「熊野、椰の葉」、そして、「プール平」、「南島」と作品上映は続いた。
「しかし何故だろう、ほとんどすべての映像作品に水のイメージが登場するんだよね。水を求める歩行というか・・・そして、かならず上方への運動が挿入されるんだよね・・・さっきの地下室から樹木への上昇運動のように・・・何故なんだろうねぇ・・・」、と吉増。彼が触れようとしている世界の秘密が垣間見えた気がした。
庭、声、光、記憶、渦巻、本、文字、歓喜、水流、接近、地下、樹、口、宇宙、島、貝、誘惑、歌、葉、塔、分身、波動、車、硝子、警戒、レール・・・二重のイメージと分身した声によって、世界が無尽蔵な謎として告白され、創作活動の源泉をなす世界のリズムと裂け目が会場を静かに満たした二時間だった。
(文責:西山雄二)