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【報告】「哲学と大学」 第2回「カント『学部の争い』」

2007.12.09 └哲学と大学, 宮崎裕助

公開共同研究「哲学と大学」第2回は、UTCP共同研究員・宮崎裕助によるカントの『学部の争い』に関する発表だった。

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発表レジュメ「カントの『諸学部の争い』をめぐって」

 『学部の争い』(1798年)は、『人間学』と並んで、カントが生前に公表した最後の著作である。初版の諸論文は検閲に遭って発禁処分となったため、序言には検閲を行ったフリードリッヒ・ヴィルヘルム二世への弁明が綴られている。大学論は第1部「哲学部と神学部との争い」で展開されており、この部分は日本語訳にしてわずか20頁ほどだが実に豊かな問題を提起している。
 カントの時代、大学は三つの上級学部(神学部、法学部、医学部)と下級学部(哲学部)とから構成されている。上級学部の教説は国民に強力な影響力をもつ。神学部は各人の永遠の幸せを、法学部は社会の各成員の市民的な幸せを、医学部は肉体的な幸せ(長寿と健康)を対象とする。上級学部は政府から委託されて、文書にもとづく規約(聖書、国法、医療法規)を整備することで公衆の生活に直接的な影響を及ぼす。政府は上級学部の教説を認可し統御することで、国家権力を行使するのである。
 他方、下級学部(哲学部)は国家の利害関心からは独立しており、その教説は国民の理性のみに委ねられる。哲学部は国家権力の後ろ盾がないが、しかし、すべての教説を判定する理性の自由を保証されている。哲学部は国家権力に対して反権力を対置するのではなく、一種の非権力、つまり権力とは異質の理性を対置することによって、この権力の限界画定を内側から試みるのだ(デリダ)。哲学部は大学の一学部として制度的に限定されると同時に、批判的理性を行使する無条件な権利をもつという点で学問の全領域を覆う。それゆえ、哲学部をめぐるアポリアは、ひとつの有限な場所と遍在的な非場所(シェリング)という二重性をもつ哲学部をどのように大学制度のうちに定着したらよいのか、という問いになるだろう。
 上級学部と下級学部の争いは合法的なものであって、戦争ではない。上級学部が右派として政府の規約を弁護するならば、下級学部(哲学部)は反対党派(左派)として厳密な吟味検討をおこない、異論を唱える。理性という裁判官が真理を公に呈示するために判決を下すかぎりにおいて、この争いは国家権力に対しても有益なのである。その場合、まるで梃子の作用が働くように、真理への忠実さという点で哲学部は右派となり、上級学部は左派となるだろう。こうした大学の建築術的な図式において重要なことは、各勢力の争いの両極を分かつ支点において大学全体の方向を転換するような「梃子(モクロス)」(デリダ)の作用が維持されること、そうすることで、真理をめぐる複数の政治的戦略が可能性として残されることであるだろう。

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 討議の時間では、カントの大学論を現在の視点から読む上での注意事項が挙げられた。まず、カントのいう哲学部と哲学を分けて考える必要性だ。カントの時代の哲学部から文学部や理学部、経済学部などが派生してくるわけで、それは狭義の哲学部ではない。また、この大学論はカントの政治的な振る舞いが込められたテクストであり、その文脈を十分に考慮しなければならない。
 大学の各学部の上級/下級という区分は、現在で言うと専門と基礎教養に対応するものだろうが、カントの区分は実によく練り上げられている。神学は来世、法学と医学は現世を対象とし、さらに法学と医学は社会的次元と身体的次元に関係する。上級学部は人間の生活に関わるほとんどすべての領域を包括するのであり、これを統御する国家は優れた「統治性」(フーコー)を発揮することができる。これに対して、下級学部(哲学部)には理性の自由が許可されるとカントは幾度も書いているのだが、意外にも、真理に関する記述は手薄である。つまり、カントは真理を実定的なものとして提示するのではなく、むしろ真理の可能性の条件を提示し、理性の自由な判断はいかにして可能かを論及するのだ。例えば、真理とは虚偽を発見し、これを排除する手続きであって、そのためには公開性の原則が保持されなければならない、というように。
 「学者の形象」に関しても議論となった。カントは『啓蒙とは何か』において「als Gelehrter(学者として)」という表現を何度か使用して、理性の公的使用を説明した。日常生活において聖職者や士官として社会的役割をはたす人々が、「Gelehrter」として理性を世界市民的な視点から行使しうるとされる。この場合、「Gelehrter」は敢えて「知識人」と解した方がよい、という意見が出た。カントは大学教育を受けた者を原像として「Gelehrter」を使用し、これを「自分の見解を書くことを通じて表現できる者」という意味合いで使っているのではないか。こうした「学者の形象」を踏まえて、それでは、誰もが「自分の見解を書くことを通じて表現できる」この高度情報化社会において、「在野の学者」とはいったい誰のことを指すのか、という問いも発せられた。
 前回に引き続き関西から参加してくれた斉藤渉氏(大阪大学)は、カントの時代の大学制度に関して詳細なコメントを加えてくれた。次回(1月28日)は、フンボルト研究者である斉藤氏による発表である。あのフンボルトの大学理念がいよいよ登場するわけだ。
(文責:西山雄二)

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