筒井史緒 【standART byond】報告⑨~Vol.7 「うちなる聲で 世界と響く―即興演奏がひらく中動態の世界― Resounding with the World: The Middle Voice of Improvisation」開催報告
2025年11月2日、日曜日。長すぎる残暑と唐突に訪れる冬が交互に訪れるなか、すきまのように訪れた秋の午後。東京大学駒場キャンパスにて、「幸福知のためのアート・ワークショップ・シリーズ standART beyond」の第七回、「うちなる聲で 世界と響く―即興演奏がひらく中動態の世界―」が開催された。

今回のワークショップは、わたしにとって特別だった。シリーズ開始以来、企画とホストをつとめてきたわたし筒井が、自らワークショップを行う初めての試みだったからだ。
これまでは、お招きしたゲストの方にワークショップをしていただくスタイルで行い、わたしはあくまでホストとして、シリーズ全体の意図である「本質を生きる・生命に戻る・幸福に生きる」というヴィジョンを、多面的に浮き彫りにしてゆくナビゲーターをつとめてきた。
おそらくこれからも、基本的にはそうだ。生命も本質もひとつだが、そのあらわれは多層的で限りない。だから、本質に触れ体現する多様な方々の、多様なありように触れていただくことが、それを貫く〈なにか〉にアクセスするための有効な方法なのだと思っている。
でも今回、ふっと、「そろそろわたし自身のワークショップをやりたい」と思った。本シリーズの核を担うわたし自身が、いまここで、何をどう問うのか。宗教学を探究し、歌をうたい、日々を「〈生きることとは何か〉の例証」として営むことの奥に、わたし自身は何を見ているのか。
全体を統括するホストであるからこそ、「わたし」という切り口から、もういちどシリーズに光を当ててみたい。ここへきて、そんな気がしたのだと思う。
トピックとして、自身のライフワークのひとつである「即興演奏」を扱いたい、ということはすぐに決まった。問題はテーマだった。何を大事にするための即興演奏なのか、という〈軸の意識〉だ。
わたしの活動は多岐にわたっているが、宗教学も、歌も、ほかの営みも、すべて生命の本質に触れるための場ととらえている。だから分野は異なれど、いつもどれもまったく同じ意識でたずさわる。
しかし、その「ひとつの意識」が何なのか。改めて自問してみると、すっと言葉にはならなかった。そもそも、言葉ではつかまえられないもの、言葉を逃れてゆくものを、体感によって探求しているのだから。
それでも、ワークショップを編むとなったら、フォーカスをはっきりさせる必要もあった。
「ワークショップ」についての考え方は様々だ。ひとりひとりの体験にゆだねるために前もって体験の質を事前にまったく規定しない、という考え方もある。たしかにこれも大切だし、わたしもこのスタンスを重んじる場面もある。
それでも今回は、即興演奏という一見「なんでもあり」に見える営みを、たんなる「なんでもあり」の場にしたくない、という気持ちがはっきりとあった。それは、わたし自身が何のために即興演奏をやっているのか、なぜわざわざそれを皆とワークショップで共有したいのか、という、想いの核そのものでもあった。
自分でゼロからワークショップを企画し、ひとつの動線を創るということは、言語化することなく来たその核に、向き合うことでもあった。それは、言語化できない想いを言語化することを通じて、自分が見ている景色についてあらためて考える作業だった。
何度も逡巡した結果、テーマを「中動態」とした。
開催にあたって、SNSにこんな募集の文章を書いた。少し長いが、全文を再録する。言葉にもならず、かたちにならないまま、それでも何かを言葉に編もうとする息遣いのそこここに、わたしがこのワークショップに込めたものが滲んでいる気がするから。
「11/2、東京大学駒場キャンパスにて、即興演奏のワークショップをします。
いつもわたしが歌うときに無意識に直観でやっていることを、
お伝えしてみたいと思っています。
歌うことが、世界に歌わされていることと同じであることについて。
透明になることについて。
わたしは歌うとき、自分がゼロになることを大事にしています。
歌を自分で創り出す、というより、世界を聴いて、感じて、それを音に換えています。
例えていうなら、風鈴が鳴るような感じとでも言いましょうか。
風が吹いて、風鈴が鳴るような。
風鈴の音が、鈴の意志というより、風の跡であるような。
世界が吹いて、わたしが鳴る。
とりわけ即興演奏においてはそんなふうに、受動と能動が同時に起きています。
受動と能動が同時に起こることを、中動態とか、中動性とかいいます。
本来、生きることは中動的なことがらなのだと思うのです。
生きることは、生かされていることだから。
内発的に湧き上がるものが、そのまま世界の息吹であるような、
為すことと為されることがひとつであるような。
鳥が鳴くのか、
鳥は世界に鳴かされているのか。
風は吹くのか、
風は宇宙に吹かされているのか。
無意識の奥底で、わたしたちは生命の一部として明滅する刹那の光でしかなく、
その無数の光はひとつの宇宙で繋がっている。
わたしたちは世界を息している、わたしたちは世界の息である。
どんな「わたし」も、奥底ではそうやって「わたし」の縁取りがほどけ、いのちと融けあっています。
その奥のありかたを憶い出すことが、
いまこの時代、必要とされている気がしてならないのです。
西洋近代から始まった「自我」に連なる、世界から屹立し他者とも分たれた「わたし」ではなく、
古来、あらゆる土着文化を支えていた、世界を作り上げる小さなひとかけらとしての「わたし」を。
生きづらさも、環境破壊も、分離や対立も、グローバリズムも、戦争も、かつては当たり前だった「世界の息であるわたし」の手触りを、わたしたちが喪ったことによって生まれたものではないか。
だから、わたしがただ宇宙の脈動へと融けてゆくことによって、そんな現代の問題も溶かしてゆくことができるのではないか。
そんなことを感じるのです。
わたしが為すことは、
為されるべきことがただ起きるようにすること。
そんな「わたし」の中動性を取り戻すことが、これからの世界にはきっと必要なのだと思うのです。
海の波が、神の指が弾くピアノならば、
空の雲が、神の筆が描く一幅の絵ならば、
わたしが生きることもまた、ただ神の震えなのだと。
それが、ほんの髪のさきの、微かな仄めきであろうとも、
宇宙の呼吸としてのわたしへと、自我の境界を融かし、
溶けて、世界となる。
ふしぎなことに、そのように中動的であるとき、
人はえもいわれぬ幸福感に深く満たされます。
誰と比べることもなく、
ただあるがままの自分が、
悦びとしてそこに立ち現れる。
本質を生きるとき、人はもっとも幸福である。
わたしはそう信じています。
だから、演奏でなくてもいいのです。
それはただの象徴だから。
歌えずとも、鳴らせずとも、
世界の呼吸として生きる、生の手触りを、
ほんの少しでも感じてもらえたら。
そんな想いで、ワークショップを行います。
共に紡いでくれるのは、「幻花」や「Vai e Volta」などで、探求の道をおなじくする音楽家、川村祐介さん。
ふたりの即興演奏を体験していただく場面などもあります。」(引用終わり)
「中動態」というキーワードは、そのころ比較的新しく仕入れた単語だったが、言葉はどうでもよかった。音を奏でるときに、「鳴らす」のではなく、「鳴らされている」状態であること。その状態こそが、わたしにとって即興演奏の要であり、音楽活動と宗教学研究が交差する点だった。
生きることは生かされていることであること、わたしが「閉じた自我」ではなく、本来はあらゆる生命とひとつであること、人は意識的にも無意識的にも、生命の全体や他の部分と呼びかけあい、応答しあいながら生きていること。そのように全体性へと還帰して生きることが、本質であり幸福であること。
その核にひとまずたどりついたわたしは、「わたしは生命の一部である」ということを、頭ではなく存在で理解するため、ワークを編むことにした。
「音を出す」のではなく、「音がおのずと鳴る状態になる」ワークショップ。
心強いサポーターとして、この一年、音と生命の本質を探求するプロジェクトをともに深め進めてきた同志、川村祐介さんにおいでいただくことにした。
祐介さんとの出会いは、不思議な偶然が重なった必然だったと思う。
たまたま予定になかったのに、直前に誘われて観ることになった知らないひとたちのライブ。そのライブに出演していたメンバーのひとりが、祐介さんだった。
話していると、共通の知り合いがたくさんいて、わたしがこの10年で出演した舞台をいくつか観ていて、生命に対して共通の認識や体験をもっているらしいことが分かった。そのことに、互いにとても驚いたが、どこかでずっと知っていた人にやっと会えたような、とても自然な感覚でもあった。
いろいろ話しているうちに、いつのまにか「一緒に音楽しましょう」と言っていた。いつものように、なんの理由もなく、ただ直観にしたがって。
出会ったことによって、わたしが長年抱いてきた「音楽」と「生きること」との交差点がよりはっきりした。それが、祐介さんが長年探求してきたことと軌を一にしていることも分かっていった。「音楽以前を探求する」「生の本質を、音や音楽を通じて探求する」、そんな意識の交わりによって、研究プロジェクトとして「幻花」というユニットがスタートし、とても自然な流れで、祐介さんが同様の意識で進めていたプロジェクト「Vai e Volta」にも参加することになった。
今回祐介さんは、ワークショップの内容自体は「史緒さんが、史緒さんのヴィジョンをもって、史緒さんひとりでやるべき」と言ってすべて任せてくれた。
プロジェクトにおけるわれわれの関係性もそうなのだが、祐介さんとわたしは深いヴィジョンのようなものを共有していると同時に、お互いに見えているものが違う。同質のものの共有を前提としつつも、異質なものどうしの相補作用やずれによる共鳴、ケミストリーなどによって、ダイナミズムや非完結性といった生命的で有機的な質が生じている。
その偏差が、今回の限られた時間において「ブレ」とならないように、ひとまずはわたしひとりの視点によるワークに焦点を絞ったほうがよいというのが、祐介さんの判断だった。
しかし同時に、実際の進行においては、祐介さんとの共同性や共鳴や相互補完のようなものが非常に有効に働くだろうとも判断した。わたしには見えない角度や粒度のようなものを補っていただきつつ、参加者の方々に異なるものどうしの出会いも体験していただきたかった。
こうした経緯で、わたしが「ファシリテーター・ナビゲーター」という立ち位置でワーク全体を統括し、祐介さんには「スペシャルゲスト」としてサポートをお願いする、というかたちでの実施とした。
実際のワークの考案については、とても悩んだ。わたし自身は「世界の受信器・変換器になる」ことが、ごく自然にできる。普段の意識状態をシフトして、自他の区別が融解した状態になり、世界に潜在する微細かつ力強い振動や情報を、音や動きとして具現化することは、わたしにはごく自然で当たり前のことだ。しかし、それは普段それをしない人に「そうしてください」と言って、「はいわかりました」というふうにできるものではない。意識・身体の状態の変容は、まさに言語化を逃れる体感でしかないからだ。
それがどんな状態なのか、どうすればその状態になれるのか。腑に落ちる体感を導くためには、何をどう伝えればよいのか。それが「できない」状態がわからないわたしに、実際にその状態を導くことができるのだろうか。普段その体感をもっていない方々が、本当に体験をもつことができるのだろうか。それを言葉で導くことが、本当にできるのだろうか。
すべてが手探りでの準備であった。毎日悩みながら少しずつワークを組み立て、前夜は一睡もできないまま当日を迎えた。
当日の流れ
ワークショップは、予定の段階では3つの段階に分かれていたが、わたしが当日地味にテンパっていたせいで、2つめをとばしてしまった。
そのため予定では以下の通りであるが、実際には1と3での実施となった。
1.「幻花」(川村祐介・筒井史緒によるユニット)による即興演奏
2.祐介さんとトーク
3.ワーク(呼吸→呼吸音→声→全員での演奏)
ひとつひとつ振り返ってゆく。
1.「幻花」即興演奏
まずは演奏前に、先に引用した文章のような含意のことをお話した。


自己紹介とお話のようす
生命の現場としての即興演奏。それをまずは実際に体験していただこう、というのが、ここでの意図であった。たんに演奏を聴いてもらう、ということではなく、交感の現場に生じている「何か」を体感していただくために設定したステップだった。
多くの人は、演奏、というと、「うまくやる」とか「いい音を出す」とか「きれいに調和する」とか「へたではいけない」とかを無意識に連想しがちだ。しかし、それは教育や産業や教養としての音楽であって、元来音楽というのはおそらくそういうものではなかったはずなのだと思う。
世界との、土地との、他者との、異なる領域との、交わりの営み。それがもともとは音楽の姿だったはずだ。だから、音楽はまず、コミュニケーションとしてあるのだと思う。コミュニケーションというと、人間どうしとか生きものどうしをイメージしがちだが、もっと広く、世界そのものや、世界に内包されるすべてとの交信だ。
共振、共鳴、交信。それが音楽の本来のありかたならば、即興演奏というのはなかでも、ひりひりとリアルタイムで紡がれる生々しい対話そのものである。
受け取った音の場にどう自分が参与するか、なにをどんなふうに具現化するか、といったことはたしかに「能動」の営みとしてあるのだが、即興演奏の要は「受動」にある、というのがわたしの立場である。
全体を「場」として聴き、自分の存在や自分の鳴らす音も、そこで起こる「できごと」として捉える。頭だけで理解するのではなく、存在全体でそのような状態になる。
と言葉で説明しても、イメージはつきにくいだろう。音は、楽譜に起こせるような記号的存在ではない。楽譜に書けるものは、現場で起きていることのほんの上澄みで、本当に音楽において聴くべきものは、音と音のあいだを満たし、音を浸しているすべてだ。それは可聴域を超えた振動や、そこにいる人々の身体や意識の揺らぎ、土地のエネルギーなど、ありとあらゆる意識化すらできないすべての情報までも含む。
そうしたとてつもない情報量のすべてを、「体験」によってならば一瞬で感得できる。だから、即興演奏とは何か、そこでは人はどのような状態で、どのような振動の音が鳴り、どのように交信が起きているのか、そういったことを掴んでいただくために、まずは幻花の実演をご覧いただいた。

即興演奏の様子

2.祐介さんとトーク
本当は、このあと演奏を受けて祐介さんと話をするつもりだったのだが、いっぱいいっぱいすぎて飛ばしてしまった。祐介さんごめんなさい。
即興演奏においては、きわめて繊細で深い、言語以前のコミュニケーションがリアルタイムでとられているのだが、それは必ずしも、ふたり(もしくはそれ以上)が同じことを同時に感じているということでもない。互いに異なるものを感じながらも、ひとつの流れの中でひとつの音を紡ぐ、ということについて話してみたかったのだが、これはまたいずれかの機会としたいと思う。
3.ワーク
ワークは以下の4つで流れを組んだ。
①呼吸によって内側と繋がり、うちなる静けさとひとつになる
②その状態で他・全体ともシームレスに繋がる
③その呼吸を音・声にする
④おなじ意識で声だけでなくものも鳴らす
実際に演奏として音を出すのは③と④だが、今回は、①②のワークによって「音がひとりでに鳴る状態を作る」ことがとにかく重要だったので、そのことにかなり注力した構成になっている。
①②のワークによって、まず受動の状態を整えてゆく。なぜその状態を作ることが重要なのか、という、ベースとなる考えをお話ししながら、作業を進めた。
【①呼吸によって内側と繋がり、うちなる静けさとひとつになる】
①では、日常生活でせわしなく意識をそらしてくる思考の奥にある、うちなる静けさへとおりてゆくための呼吸法を実践した。わたし個人の感覚で言うと、思考の声がすっと消えやすくなるな、という気がする呼吸法である。もちろん体験はそれぞれ人によって異なるだろうが、この方法ならば比較的容易に「うちなる静けさ」などという抽象的で感覚的なものを口頭のガイドだけでも体感しやすいだろうと判断し、採用した。
呼吸の仕方を説明し、ガイドしながら誘導してゆく。

思考の声というのは想像以上に大きいが、それは消えてみないとその音の大きさに気付かないようなものでもある。ちょうど換気扇やエアコンの音のような感じだ。ずっと鳴っている間はふつうに気づきもせず過ごしてしまうが、止まった瞬間、予想もしなかった静けさがふいに訪れる。そのとき、はじめてそれまで音が鳴っていたことに気づく。
頭の声がやみ、静けさに繋がると、ふだんとは違う意識や身体の状態、感覚の使い方が訪れる。わたし自身は、チューニングが変化したとか、脳の周波数が変わったというような感覚になるのだが、静けさの状態でいると、感覚としてキャッチされるものがふだんと変わる。即興演奏やシャーマニックなトランスにおいて、変性意識状態といわれる意識状態になることはよく指摘されるところであるが、われわれの受信機としてのチューニングが変化することによって、世界の体験のしかたが変化するのだともいえる。
変性意識状態に入る方法はたくさんあるが、呼吸によって静けさに繋がる方法は、導入として比較的シンプルで体験しやすいものではないかと思っている。
じつは、当日かなり寒かったのだが、会場の暖房が不具合のために使えず、コンクリート造りで床張りの部屋はとても冷えていた。さらにガラス一枚隔てた外で、学生たちがにぎやかにアイドルの曲をかけてダンス練習をしており、けっこう音が聴こえる状態でもあった。そのため、呼吸にゆったり集中するにはかなりディスアドバンテージのある状況であった。
それでも、皆さんに呼吸の奥へと集中していってもらっていたとき、ふっと全体が静寂に包まれた。環境から音がなくなったのではない。音は鳴っているし、気温も変わらないのに、場がとても静かになったのだ。静かで、心地よく、集中できている。わたし自身、うちなる意識が静まるとこれほど如実に外界の空気も変わるのだと、はっとさせられるところがあった。

【②その状態で他・全体ともシームレスに繋がる】
②では、さらにその「うちなる静けさ」をそのままシームレスに広げ、他や世界との境界を融解させ、ひとつに繋がってゆく体感を導いた。
まずは①で行ったように、耳をうちなる沈黙へと向けて自分と繋がり、自分の奥に意識を委ねてゆく。ここまでは比較的求心的な意識の使い方だが、そのあとその深さのまま、意識の求心性をほどき、広げ、周りの音を聴いてゆく。「音なき音」を聴く深い意識の耳を、自己の再内奥から直接、シームレスに世界に向け、広げることで、自分と世界が分かたれていない体感を導いてゆく。
「自分が自分だと思っているもの」は、必ずしも自分ではない。それは本シリーズの第二回「今ここ・右脳を楽しむ」でフォーカスした右脳的認知とも直結するのだが、「私」と「私以外の他なるもの」を分離独立したものとして感じているのは、じつは人間の認知のほんの一部、左脳的な部分でしかない。
左脳的認知のフィルターを通さずに世界を見れば、あらゆるものは相互に浸透し、相互に依存し、互いが互いを作り、分かたれることなく、融けあって流れ、ひとつの有機的な循環をなしている。
呼吸は、内と外、物質と生命が交錯する不思議な現場だ。さっきまでからだの外にあった空気という物質が、わたしの中に入ってくると、とたんにそれはわたしの生命の一部となり、内となる。そしてさっきまで内側に生命としてあったものが、こんどは呼気として外に出てゆく、そのとたんにそれは、ただの物質となり、外部となる。
けれどその「内」「外」は、そのまま反転して他者にとっての「外」であり「内」でもある。さっきまでわたしの内にあった空気が、吐かれて外に出て、あなたに吸われ、あなたの内になる。さっきまであなたの生命だったものが、吐かれてまた物質になって、また吸われては、わたしの生命になる。
それは空気だけではない。食物連鎖も、水の連鎖も、誕生と死も、ありとあらゆるものは、素材としての素粒子が、組み合わせのかたちを変え、循環しているだけのものだ。そうして成り立っているのが、〈物質=生命〉のめぐりの現場としての世界である。
アメリカの脳科学者ジル・ボルティ・テイラー博士が左脳の言語野に脳卒中を起こしたとき、言語野、つまりロジックのもつ自他峻別の機能も失われた。その卒中の最中に博士が体験した、左脳の投影のない本来の世界は、すべてがひとつにフューズし、調和した姿であった。
テイラー博士は右脳が認知する本来の「すべてがひとつである」世界像を、愛着を込めて「ニルヴァーナ(天国・涅槃)」と呼ぶ。
左脳が卒中も起こさずぴちぴちに機能した状態で生きているわたしたちが、毎日をニルヴァーナで過ごすのはなかなかに難易度が高いが、それでも時代を遡れば、かつての人類がもっと自然や世界の一部として調和のうちに生きていたことは、あらゆる土着文化のうちに見てとれる。自己が世界の一部でしかないからこそ、いのちを必要なだけいただき、土地を所有することなく世話し、芸能によって土地や精霊やさまざまな意識たちと交感し、自己の誕生や死を自然のめぐりの一部としてとらえていた、そんな営みのうちに。
そんな、「境界線が曖昧な自己」「世界の一部としてのわたし」としての人類の取り戻しこそ、西洋近代が持ち込んだ肥大した自我を癒し、世界と人との均衡を取り戻す鍵なのだと、わたしは考えている。
それはたんに物質面で循環の一部に戻るというだけではなく、より本来的で原初的な感覚を取り戻すこと、直観的な状態に心身をチューニングすることでもある。
呼吸は、たんなる物質の出入りですらない。「呼吸を合わせる」「息が合う」といった表現にも見てとれるように、ロジックを超えた感覚領域での共同性を象徴するものでもある。それは、わたしたちがまさに世界の脈動の一部をなしていることのあらわれだ。
生き物としての呼吸-息の律動は、無意識レベルで、世界の律動とひとつの大きな波をなしている。海の波が、それぞれ互いに違いながら、不規則のようでいて、実はひとつの大きな波を有機的に構成しているように、わたしたちひとりひとりの息もまた、ひとりひとりのそれでありながら、無意識レベルで全体と連動・呼応・共振している。
息に身を委ねるほどに、意識のチューニングが変化する。左脳的な狭い意識から、右脳的な広い意識へと移行し、「わたし」が世界に融けてゆく。ざわめく「ふつうの意識」が静まり、息が自然と交流し、ひとつの大きな波になってゆく。
わたしたちの身体は、肌と空間の境目で終わるものでもなく、わたしが誕生してから死ぬまでのものでもない。それは空間的にも時間的にも、より広いものからやってきて、ひととき「わたし」のかたちをとり、そしてまたより広いものへととけてゆく、そのプロセスそのものである。
わたしは世界であり、あなたであり、すべてである。
呼吸-息はまた、そのような「境目のないわたし」を、最も象徴的かつ身近に体験できるものでもある。
だから、呼吸によって左脳を静め、呼吸によって自他の境界を融かし、呼吸によって世界の一部になることは、とても理にかなっているように思う。

【③その呼吸を音・声にする】
そんな、人と世界とが境目なく織りなす営みのひとつが、音楽なのだと思う。わたしはそんな意識で、「音の鳴らし手」であることと向き合っている。世界の脈動としての歌、土地と生きるための音、世界と交信し、いのちを巡らせることとしての芸能。
③では、①~②で状態として準備した「世界とシームレスである心身状態」をベースとして、それをいよいよ「音」にしていった。
このワークで、わたしは奇跡を目の当たりにすることになる。
まずは、そのシームレスな〈物質=生命〉としての呼吸を、呼吸音に変えていった。呼吸はほとんど耳では聴こえないが、じつは②の段階で場の全体を無意識に感じる状態になっているので、自分が場の一部として機能している状態は整っている。
その状態を、こんどは耳に聴こえる音にしてゆくことで、いよいよ「中動態による即興演奏」へと接近してゆく。可聴域を超えた情報を深く感受する受動の状態を整えたことにより、耳に聴こえる音を出すことが、たんなる音のゲームではなく、生命の歌となるのだ。
世界が脈動することでわたしが鳴る。この呼吸音のワークは、本ワークショップのテーマであるこの「中動態による即興演奏」の、もっとも繊細で原初的な表現の端緒に触れる体験として設定された。
たとえそれが無声音であろうとも、声を出すと、呼吸だけでは集中しづらいタイプの人も、自分の音によって集中しやすくなる。
変性意識状態を導く方法はいくらもあると言ったが、合う・合わないがあるのもたしかであるし、訓練や習慣によって養われるという部分もある。わたし自身、かつては呼吸だけでは集中できないタイプであったし、現在のように一瞬で集中した状態に入ることができるようになったのは、習慣的な反復によるところも大きい。
普段頭で考える傾向の強い人は、とくに呼吸だけでは最初集中しづらいこともよくある。音を出し、自分の声を聴き、まわりの声を聴いていると、集中していきやすい。
①~③を段階的に進めてゆくと、非常に深い集中が可能になるのだが、鋭い感じの集中というよりも、ゆったりとした、深い集中の感覚だ。とても深いが、きわめて繊細で、鋭敏でもある。こうなってくると、身体の繊細な反応に任せているだけで、頭であれこれ考えずとも、自他が調和した、鋭い直観が働く状態になってゆく。
「変性意識」というと、ちょっと特殊な響きがあるので、ふつうではないと感じる向きもるかもしれない、たしかに「ふつう」ではないのかもしれない。しかしわたしは、変性意識と呼ばれるものは「ふつうではないかもしれないが、より自然である」とも感じている。
繰り返すようだが、「わたし」とは本来、通常感じ意識していると思っている「わたし」とは、まったくその広がりを異にするものなのだ。それは「わたし以外」と互いに融け合い、触れ合い、入り込み合い、ひとつをなす。それが本来の自然な「わたし=わたしたち=すべて」だ。「自然」と「ふつう」は違う。むしろ、現代における「ふつう」は、自然とかけ離れたものであるために、わざわざ「自然」を志向しなくてはわたしたちは本来的な状態ではあれないのだろうと思う。
口頭で、「さきほどの呼吸によって、うちなる静けさに繋がり、他と繋がり、世界と繋がってから、そっと呼吸を耳に聴こえる音に変えてゆきましょう」とだけ伝え、わたしも一緒にワークに加わった。
呼吸の音が場を満たし始めたとき、わたしは少なからず驚かされた。ワークを組んだときには、このセッションでは、それぞれの規則的な呼吸がただ同時多発的に混在する状態からスタートするだろう…と予想していた。しかし、ほとんど最初の瞬間から、参加者の方々が呼吸の音でコミュニケーションを取りだしていたのである。わたしの心づもりでは、互いに音を聴いてコミュニケーションをとるのはこの次の段階として設定していたのに、何の説明もなく、それが自然発生していた。
それはすでに、とても音楽的であった。心地良い呼吸音が、そこここで呼応しあい、あるところでは大きくたゆたい、あるところでは長く静かに滑ってゆく。ゆったりと高まっては、踊るようにさざめく。
お互いにお互いを聴きながら、自分の音を場のできごととして捉え、全員が全体の一部として場に身を任せながら、みずから楽しんでいなければ、起きないことだった。
皆さんが意識的にやっていたのか、無意識的にそうなっていたのかは、わたしにははっきりと判断はつかない。しかし、その場に自分も感覚を開いて存在していたひとりとして感じるのは、おそらく皆が「単純に心地よかったからそうしていた」ということなのではないかということだ。意識をひとつに融け合わせていたら、心身は勝手に共振する、そしてそれはとても自然で、とても心地よい。音楽的な指示のない、たんなる呼吸音のセッションで、勝手にそれが起きたということは、そういうことではないかと思う。
それは、古くて新しい幸福のかたちでもあるのではないかと思う。わたしだけではなく、あなたも、世界も、すべてが自然に心地よく協働すること。すべてが同時にもっともよく機能する、本来の、自然な幸福のかたち。
それにしても、わたし自身「人は意識をひらくことで自然と交信するものだ」と確信していたにもかかわらず、ある程度は説明して導く必要があるだろうとも予想していた。それが、なんのガイドもなくこれだ。人間の交信能力とはこれほど自然なものなのか…と、心打たれた瞬間であった。
しかし、本当の奇跡はこのあとだった。
本当は、呼吸音のワークでいったんセッションを切り、回をあらためて「声」を奏でるワークに移る予定であった。しかし、このあまりにも自然で心地よい交信の状態をぶつっと切りたくなくて、その場でとっさに「そのまま呼吸音(基本的に無声音)を声(主に有声音)に変えていく流れに切り替えよう」と判断した。
心地よい呼吸の波があたたかく――室温は変わってはいなかったが、そう感じられた――満ちる空間のなかで、そっとマイクを手に取り、「そのまま息の音を少しずつ、声に変えてゆきましょう」と声をかけた。これは、今回のワークショップのメイン中のメインである「即興演奏の実践」に、なんの説明もなくいきなり入ってしまう、という変更だった。かなりの賭けではあったが、呼吸のやわらかな海に浸りながら、そのほうが絶対に有機的で必然的なものになる、と確信をもっていた。
指示を出し、マイクを置き、自分もまた少しずつ声を鳴らしはじめたとき、わたしは息を呑んだ。信じがたいほど美しい音楽が霧のようにたちのぼり、みるみるうちに場を満たし始めたからだ。
それはまるで、ひとつのおおきな生きもののようだった。あかるく、昏く、優雅で、深く、ささやかに、うめくように、光るように、波打ち、たゆたう。あちこちでさまざまな音が生じ、あそことここで、共鳴や、呼応や、ハーモニーが生じ、ひとときはあちらとこちらで集まり、また離れてはべつのところで集まり、また広がってはうねり、揺らぎ、そうやって次から次へと、とてつもなく美しい音場が生じつづけてゆく。
そのすべてが、あまりにも美しかった。
一緒に音を紡ぎながら、誇張でもなんでもなく、永遠に聴いていたい、と感じていた。
世に「即興演奏」と名のつく音楽活動はあまたある。それでも、そうした「即興演奏」のすべてにおいて、これほどまでに繊細で有機的で美しい生命の波が生じるかというと、けしてそうではない。演者の意識の質もあるし、それぞれの演者がなにを大事にしているのかという違いもあるし、そのときの息の合い方もある。そもそも演者が何を目指しているかという違いもあるから、こうしたエゴレスな共鳴を目指さない演奏も、数多く存在する。
参加者の方々のなかには、プロとして即興演奏活動をされている方も幾人かいらっしゃったが、皆さんのバックグラウンドはさまざまで、多くの方はふだんから音楽をしているわけでもなく、音楽に苦手意識をもつ方もいた。
そのさまざまな人が出す音が、すべてひとしく美しく、ひとしく尊く、ひとしく不可欠で、微塵の優劣も巧拙もなく、とてつもなく繊細に互いに呼応しあいながら、ひとつのまぎれもない「音楽」が紡がれていた。
「中動態で即興演奏を」というテーマを設定した時、わたしの頭にあった理想。その理想が、最高のかたちで具現化されていた。ワークを設計した時には「理想はこんな感じだけど、音楽や即興に慣れない方もいるだろうから、どこまでいけるものなのだろうか」とも思っていた。いくら頑張って考えたワークとはいえ、数セッションの呼吸のワークだけで、そこまで精度の高い音楽的コミュニケーションがすぐに可能なのかどうか、わたし自身にも未知数だったのだ。プロの演奏家ですら、そういうことばかりではないのだから。
わたしは音を紡ぎながら、ものすごく感動していた。
わたしのひそやかながらも深い感動は、ファシリテーターとしての現実的な進行の必要性から、ひそやかなる次の挑戦へと繋がった。
「どうやって終わるか」。
プロのライブの場合、だいたいなんとなく「このセットは30分くらいですかね」などとざっくり演奏時間を決めて始め、なんとなくそんな頃合いだなという気がするあたりで、音楽が自律的に収束してゆく流れに全員が同調し、演奏が終了する。非常にざっくりではあるものの、なんとなくのタイム感と、「そこらへんで流れで終わるのだな」というイメージ自体は、全員に共有されていることがほとんどだ。
しかし、今回は、「音を出しましょう」と呼吸音の途中で声掛けをしたっきり、そのまま始まってしまった演奏だった。演奏活動などしていない人のほうが圧倒的に多く、そもそも事前に全体像も提示していない。どれくらいの時間で終わりましょうとも言っていないし、どういう合図やサインで終わっていきましょうという指示ももちろんなかった。
べつに、マイクを持ってまたそっと、「…では、少しずつ声を息にして、静かに終わってゆきましょう」と声掛けしてもよかったのだ。
でも、ここまで何の指示もなくこんなことができてしまったのならば、「なんとなくみんなで全体を感じて終わる」ということだって、何の指示もなく、感じ合って、できるかもしれない。わたしは微かな武者震いのような感覚とともに、やってみよう、と決めた。これもまた大きな賭けだった。
音の波が膨らみ、僅かにしぼむと感じられた瞬間に、わたしは立ち上がって、「終わるよ~…」という空気を漂わせながら、自分の声を呼吸の音に変え、ゆっくりと会場を歩いて回りはじめた。放つのは指示の言葉ではなく、あくまで空気のみ。音を出すのに集中している皆さんは、多くが目を閉じているから、わたしの姿は見えない。場に立ちのぼる音のなかには、有声音が多かったものの、呼吸音のような無声音も多かったから、わたしが収束を暗示するような呼吸音を出しただけでは、かならずしも音質の差だけで注意を惹けるわけでもない。それでもわたしは、空気以上のしるしを放たないと決めていた。
それが、体感で「みながひとつ」を感じているという体験になるはずだったから。
ゆっくり、ゆっくりと、皆さんのあいだを歩きながら、「終わるよ…」という意識を漂わせる。ファシリテーターとしては、「終われるかな…」というやや祈るような気持ちも入るが、リアルタイムで意識下のコミュニケーションがはっきり成立する場面を目撃するかもしれない、というどきどきのほうが、ずっと勝っていた。
はたして、時間をかけながら、空気を放ち、ゆっくりと歩いていると、少しずつ、収束の雰囲気が言葉なく場に伝染してゆくのが分かった。有声音が優勢だったのが、グラデーショナルに呼吸音の波へと変わってゆき、音の波が凪いでゆく。
部屋を一周したところで、場全体には「終わる感じ」がかなり満ちていたのだが、音自体がはっきりと終わるまでと思い、ゆっくりともう一周した。二周目が終わった瞬間に、音がふっ…と空間から消え、音楽が止んだ。(ちなみに祐介さんはのちにこの場面を振り返って、一周ですでに音は終わりに向かっていたから、わたしが二周目に入った時に「あ、もう一周するんだ」と思った、と笑いながら言っていた。こうした細かな判断は、演者によってやはり異なるし、それが面白いところでもある。それでも、大きな「いま終わっている」という感覚ははっきりと共有して意識されているところも、また面白い。)
終われた。なんの前知識もなく、なんの指示もなく、空気だけで終われた。
参加者の方々はおそらく、ただ自然にやっていただけなので、それがどれだけ凄いことなのか、そこまで意識されてはいなかったと思う。しかし、これは本当に凄いことなのだ。全員が場の微細な音にすらならない情報を感じ、それが動きとしてアウトプットされたということなのだから。
演奏自体の指示はけっきょく、始まりについても終わりについてもやり方についても皆無のまま始まって終わった、正真正銘の即興演奏だった。わたしが皆さんに明確なガイドを行ったのは、演奏前の中動態を丁寧に作ることだけだった。そのあとはもう勝手に、音が鳴り、音が止んだ(空気は出したが)。
わたしが見たかったもの、証したかったものを、想像を超えたかたちで、皆さんに証明していただいてしまった気がした。そう、人は、融け合い、鳴り、響き合い、ひとつのものであることができる。とても自然に、ただ心地よく、深い喜びをもって。自律的で、受動的で、有機的に。
【④おなじ意識で声だけでなくものも鳴らす】
つづいては、声だけではなく楽器を使うワーク。といっても、既成の楽器ではなく、祐介さんが山のように持ってきてくれた、祐介さんが拾った木や石といった自然物、それらで作った手作りの楽器たちを使う。
長野からわざわざ持ってきてくれた楽器たち。あまりにたくさんすぎて、キャリーケースの車輪がふたつ壊れてしまったほど。
既成の楽器を使わなかった大きな理由のひとつは、「正解がない」という点だ。既成の楽器だと、どうしても、「良い音を出さないといけない」「うまく弾かないといけない」「自分はできない」「知識がない」「技術がない」といった反応が、無意識のうちに出てしまう。多くの音楽教育現場において、正解・不正解や優劣によって演奏を評価する習慣が強いためだ。
もちろん「良い音」というのは存在する。それでもその「良さ」とは、他者からの評価によるものではない。あくまでその音が、どれだけ本来的で自然であるか、どれだけ世界の可能性を深くあらわにしているか、どれだけ世界に潜在する情報を濁りなく顕在化させているか。そのような音そのものへの誠実さや探求によって、音の美しさや説得力というものは生じるのだと思う。内発的に、あるいは中動的に。
そのとき世界がわたしを通して鳴る音が「鳴るべき音」であり、それが「良い音」なのだと思う。
だからこそ、「こう鳴らすべき」という外的規範がそもそも存在しない「楽器」がよかった。これは何? どんなもの? こうしてみたら、こうなるかな? という自発的で自由な対話として、楽器を鳴らすことを体験してほしかったからだ。自然物には、そうした対話の余地が無限にある。祐介さんがいつも拾ったり作ったりしている自然物の「楽器」には、そうした原初的な体験を引き出す力があると考えた。
この最後のセッションは、予定では、皆さんにものを使って音を鳴らしてもらいながら、「幻花」と即興する…… という程度のことしか決めていなかったのだが、③までの流れを見ていた祐介さんが、現場で提案をしてくださった。
まず、休憩がてら、自由に楽器たちを見て触ってもらう。祐介さんにエピソードを聞いたりしつつ、自由に好奇心のままにいろいろ試し、楽しむ。
つぎに、「今日の私はこれ」という子を、直観で選んでもらう。
さいごに、呼吸のワークで内→自他→世界と繋がってから、全員で選んだ楽器を鳴らしながら、即興演奏を楽しむ。
もともとは単純に「幻花」と即興を、というだけの予定しかなかったが、その場で追加された「楽器たちと親しくなる時間」はとても良いものになった。
呼吸のワークは心地よいが、非常に集中もする。リラックスはするが、弛緩というより集中したタイプのリラックスだ。そうやってとぎすまされたところに、集中とはまた違った「解放」が起きたのが、この時間だった。

石や流木、ススキの束などの自然物や、木や竹で手作りされた打楽器や笛たちが、ずらりと並ぶ。
参加者の皆さんの多くは大人の方だったが、皆が目をきらきらさせながら、嬉しそうにいろんなものを手に取っては鳴らし、祐介さんに話しかけていた。この、集中と解放のどちらのリラックスも体験してもらえたことは、わたしとしてはとても良かったが、後述するように、今後の改善点のヒントにもなった。

ひとしきり無邪気に楽しみ、ものを鳴らす原初的な手触りになじんだところで、最後の演奏に入った。音空間に、ここにこの音が欲しいと感じたらその音を置く、という感覚で、こうしなくてはいけない、ああしなくてはいけないという思いはなにもなしで、さきほどのように音の一部になってみましょう、と声を掛ける。終わりもまた、お互いを感じ合って終わってみましょう、と。
まずは呼吸によって、うちなる静けさと繋がり、自と他を融かし、世界とひとつになる。そこから、少しずつ呼吸音を鳴らし、まわりを感じながら、楽器とひとつになり、自由に奏でてゆく。
プロの演奏家も、ふだん音楽を演奏しない人も、ひとつの生きもののオーケストラのようにうごめき、色とりどりの音が空間に描かれていった。膨らんでは静まり、重心があちらへこちらへと動く。濃いところ、透明なところ。目を閉じたまま、呼応しあう身体と魂たち。
「音楽的な音」を出そうとする人は、誰もいなかった。けれど音楽の、根源的な、原初のかたちが、はっきりとそこにあった。生きることは鳴ること、鳴ることはともに生きること。聴かせるための音楽ではなく、生きていることが音楽そのものであるような、そんな、生の営みとしての音楽。




人は生きているだけで、ほんとうは音楽的なのだ。人は生きているだけで、ほんとうは美しいのだ。外側に目指すべきかたちを求めて動くのではなく、「こうでなくてはならないと感じられてならない」という内なる必然を生きる。その感性を育てることで、内側からわきあがる喜びが、おのずと最高に素晴らしい結果を生む。あくまでも、結果として。
そういう、本質的な幸福と、本質的な自由と、本質的な美とを、取り戻す時代が来ているのではないだろうか。
人類が「できることをぜんぶやってみる」時代は終わったのだ。能力があることと、それを使えるだけ使うことは、おそらくまったく別の位相の問題なのである。能力があるだけやる、という態度は、生きものの発達段階としては非常に未熟なのではないだろうかと、わたしは最近よく考える。
テクノロジーの進歩とは、地球上で人類だけが特権的な存在であり、他の存在はすべて人類の役に立つ道具として存在する、という発想によって支えられている。その発想と、己の能力への過信の結果が、自然破壊であり、限度を知らない欲望であり、人や国どうしの分断なわけだ。それは、人類が「生きものとして本来どうあるべきか」という問いを欠いたまま、「他から分かたれ、周りから屹立した自己」を生きることが、限界に達したということではないだろうか。自他が分離し、世界と一体であることが意識されないでいることは、生きものとして非常に不自然な状態で、その不自然さがいま、臨界点に達しているのではないだろうか。
ならば、かつてのアニミスティックで土着的な文化のほうがよほど、成熟した世界だったのではないだろうか。少なくとも、そうした文化に学び、憶い出すべきことは、あまりにも多いのではないかと思う。
だからこそ、「世界を聴き、鳴るべき音だけが鳴るわたしである」「わたしは世界の音の一部である」という中動性の取り戻しが、たんなる音楽創作の話ではなく、生きることそのものにとって喫緊の課題であるのだと、わたしは考えている。
さいごに皆さんから感想を伺っていたとき、おひとりから、「音を出すワークショップはたくさんありますが、そういう場合、ほとんどが音を自由に出す楽しみに集中します。それはそれで素晴らしいことなのですが、今回このような演奏が可能になったのは、史緒さんが前半で本当に丁寧に繊細に意識を作ったからこそだと思います」という言葉をいただいて、涙が出そうになった。
わたしがこのワークショップでやりたかったことをそのまま、感じて受け取ってくださっていたからだ。能動としての音楽ではなく、受動から自然に生じるものとしての、生の営みとしての音楽。
実際には、演奏の精度としては、③の声だけで自然発生してしまった回のほうが高かったようにも思う。それは、参加者の方の責任ではなく、オーガナイズするわたしたちの側の今後に向けた反省点だ。③の呼吸音から声に連なるワークでは、非常に繊細な感覚のまま、可聴域以上の鋭敏な振動まで集中して感じ取っている状態で音を出す流れができていた。そのため、とてつもなく精密な演奏となったのだが、④では「楽しく音を鳴らす」ことに感覚をひらいた状態でスタートしたために、微細な受動よりもやや能動に傾いた状態での演奏となったのではないかと思う。
鳴らすものがダイナミックになるほど、ベースとなる意識の受動性の精密さを丁寧に深めることが重要だと、あらためて気づかされたできごとでもあった。そのような意味で、学びをいただいたできごとであったと思う。
祐介さんからも、例えば音を出す手前で「音を聴く」ワークを挟む、余白を聴くように声を掛けるなど、「音を出すことを支えている、音を聴くことの重要性」を体感し精度を上げるようなワークをするとより良いね、と今後のアイデアをいただいた。
それでも、何の準備もなく、たった数時間で、30人ほどの人が、あれだけ有機的な音楽を即興で紡ぐことができたのは、予想をはるかに越えたことであった。人が、日常のほんの薄皮いちまい隔てただけの先、みずからの肌の奥に秘めた、生きものとしての野性。それがすぐそこにまだ息づいていることを感じられた、大袈裟ではなく、世界のこれからに希望のひかりを垣間見たような一日でもあった。
ワークショップを終えて
ワークショップを終えてみて、「中動態」の要は受動にある、という確信が、日々深まっている。
受動とは、たんに身を任せることではなく、受動こそ、きわめて能動的な営為なのではないだろうか。
中動態は、たんなる受け身の弛緩状態からは生じない。世界を聴く、世界を受け取る、という受動性は、とてつもなく精密に全身全霊の感覚を研ぎすませ続ける、非常にエネルギッシュな状態を指す。それはむしろ、欲求にまかせた「やれるだけやる」という単純な能動性よりも、段違いに濃密で情報量が多い高エネルギーな状態なのだ。外側に既存の基準がある場合、自分でいちいち「どうあるべきか」を感じる必要はない。だが、「こうあるべき」が静的で外的なものではなく、不断に動き続ける動的で内的(閉じているという意味ではなく、内発的という意味で)なものであるとすれば―― 生命とはまさにそのようなものであるのだが――、生命の流れに同期し、「生きものとして本来こうあるべき」姿であるためには、不断にうちなる聴こえない聲に耳をすませ、世界の手触りの奥を感じ続ける、ある意味で非常に能動的な意識状態が必要とされるのではないかと思う。
そうした意識状態であることから生じるえもいわれぬ幸福感、「こうなるとは思っていなかったけれど、なってみたらこうしかありえなかった」と感じる有機的な必然性。そうした奇跡を経験することが、わたしたちを、本来の生へと導いてくれるのではないかと思う。欲求を満たし、自己効力感だけを追い求め、他を利用し支配する快楽のよろこびから人類がシフトするには、中動態が開示する、まったく別のタイプのよろこびを感じてゆくことが、重要なのではないかと思う。生命のネットワーク全体に支えられているという安心感。愛しあい信頼しあい受容しあうことがもたらす、絶対的な充足感。その、共生のよろこびを伝えてゆくことが、この世界における本質的な希望の道なのではないか、そんなことを思う。
参加してくださったみなさん、支えてくれた祐介さん、センター長の梶谷さん、スタッフのみなさん、本当にありがとうございました。






