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【報告】ワークショップ「子どもを感じる、子育てから感じる――美学者が見る子どもと育児」

2026.01.19

年の瀬も押し迫る2025年12月14日、駒場キャンパスにてワークショップ「子どもを感じる、子育てから感じる――美学者が見る子どもと育児」が開催された。3月6月と開催してきた「哲学×子ども」イベントの第三弾となる。以下では、イベント当日の話に先立って、登壇いただいた先生方の紹介を兼ねた前日譚を少し紹介しておきたい。

今回のイベントでは、哲学の中でも美学と呼ばれる領域を専門とする二人の研究者に来ていただいた。一人は青田麻美先生(上智大学)。青田先生と私は大学院時代からの付き合いで、ともに学会運営のメンバーをしていた仲である。ふとしたきっかけで久しぶりに連絡を取り合う機会があり、そこで青田先生にも、私の子と同じ年のお子さんがいることを知る。そんな境遇にあり、また後に説明するように、日常生活をつぶさに眺めることに長けた青田先生であれば、きっと美学の観点から子育てについて面白いことを語ってくれるに違いない。そう考えた私は、いつも通り「子育てに絡めた話をイベントで語って欲しい!」という無茶ぶりをしに、青田さんの研究室に押しかけたのであった。

それを即座に快く引き受けてくださった仏のような青田さんから、さらにその場で、ちょうど子供のかわいさについて目下研究中の先生がいることを教えてもらう。それが本イベントのもう一人の登壇者、森功次先生である。森先生もまた、突然の電話での講演依頼を二つ返事で了承してくれる、菩薩のような人であった。こうしてイベントは、とんとん拍子で二人の先生による講演とその後のワークショップという形に固まった。

青田先生も森先生もともに、美学という学問の中でも比較的出自の新しい、「日常美学」と呼ばれる領域を、研究の一つのメインにされている。従来の美学研究では、絵画や音楽などの芸術作品を鑑賞する時の美的経験が範とされ、そのあり方が分析されてきた。しかし、日常美学はその枠を壊し、日常生活のうちに見出される多様な美的(感性的)経験を語り出そうとするところに面白さがある。そこでは「美しい」という言葉ではなく、「すっきり」、「ぴったり」、「親しみ」、「清潔」、「かわいい」などの語彙を通じて、私たちが日々感じとっているものが見事に描き出されていく(もし日常美学という学問領域に興味を持ったならば、是非とも青田先生の『ふつうの暮らしを美学する:家から考える「日常美学」入門』を手に取っていただきたい)。
そんな日常美学を研究するお二人だから、芸術作品とはとても言い難い、バタバタとした子どもとの生活の中に潜む私たちの感性を語ってもらうのにぴったりなのである。

それでは話題をイベント当日に移し、先生方からどんな話がされたのかを見てみよう。またイベント後に行った、参加者全員で取り組むワークショップの様子も合わせてお伝えしたい。

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当日は冷たい雨の降る悪天候の中、30名以上の聴衆が集まった。美学を専門にする研究者から、保育関係者、ミュージシャン、大学院生、そして小学生から幼児まで。多様な層の人が、様々な関心のもとでイベントに参加してくれた。

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青田先生「子どもとの暮らしを美学する」
初めに話をされたのは青田先生である。まず美学、そして日常美学という学問についての基本的な説明があった。美学が独立した学問として誕生したのは18世紀半ばのことである。そしてその頃は、「芸術」から美を感じとる現象を取り扱うことが主な仕事であった。しかし1960年代になって、自然環境に対する美を論じる環境美学が登場し、さらに2000年代には日常生活を対象とする日常美学が生まれ、美学はさらに拡張していく。

日常美学が注目するのは、「美しさ」に限られない様々な感性的経験である。その中でも今回の講演で中心的に扱われたのは、日々の「ルーティーン」に「親しみ」を感じる経験であった。私たちは地元や、家の中で営むいつものルーティーンとなった生活に安心感を覚え、それを穏やかな快として享受する。例えば、旅行に行くという非日常的な経験は多くの刺激を与えくれるが、しかし自宅に帰ってきた時に、私たちはどこかほっとした感覚を覚えることだろう。
ただし青田先生が続けて付け加えるのは、日常美学の中には、こうした穏やかな親しみをまさに日常美学の主題として扱うべきだと考える立場(制限主義)もある一方、ありふれた日常生活に感じられるものは美的にレベルの低いものに過ぎないと考える立場があったり(拡張主義)、日常のルーティーンをより美的に洗練されたレベルの高いものにすべきだと主張する立場(改善主義)もあることである。

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一方で青田先生は、レベルの高低の議論の手前で注意を払うべきことがあると述べる。それは、そもそもルーティーンが初めからあるものではなく、「構築される」ものであるという事実である。確かに、私たちが日々営んでいるのはごくありふれたルーティーンかもしれない。しかし私たちは何はともあれそれを作り出し、それを維持するために働きかけを続ける必要がある。ルーティーンを一定に保つためにこそ、創意工夫という名の臨機応変な変化を継続せねばならないのである(青田先生は、このような都度の状況に対する応答を「リズム」と呼ぶ)。この点を踏まえて青田先生は、特に慌ただしい子育ての中でルーティーンを維持することが、すでにその時点で並大抵ではない美的な魅力を備えていることを指摘された。

最後に青田先生から、毎日渡っている川を見て、子どもが初めて「きれい」という言葉を使ったこと、それ以来その川を渡るたびにそれが思い出されるという話があった。ここから、予想外の出来事に彩られた子どもと生活は、親しみを維持するよう私たちを促すだけでなく、私たちが日常に感じている親しみの質自体を変容させる契機ともなることが論じられた。

さて、研究者にとって発表を行うことは生活の中の一つのルーティーンだと言えるが、しかし、そこに自分の子供が居合わせるという経験は普通しない。ただ今回に限っては、青田先生のお子さんが、誰よりも一番近いところで母の発表を聞いていた。

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青田先生は、子どもを見守り、時に退屈しないよう話しかけながら、しかし何とか講演を継続しペースを掴みなおそうとする。そんな青田先生の発表のうちには、ルーティーンを維持するための創意工夫がまさに体現されていたと思う。


森先生「子どものかわいさについて考える」
森先生の講演の主題は「子どものかわいさ」である。まず森先生は、自身の研究の動機が、子どものかわいさを語る方法が美学のうちにないことへの不満にあったと述べられた。

確かに子どものかわいさについて、研究が無かったわけではない。例えばジョン・モレルはそれを進化論的観点から分析している。モレルはかわいさを、脆く、か弱い赤子の生存可能性を高めるために獲得されてきた感情であるとする。そして、それゆえかわいいと感じる経験は、赤子の身体的特徴を見ることで誰にとっても自動的に生じる反応である点で、美的に深みの無い感情であると断じる。
また有名な議論として、動物行動学者のコンラート=ローレンツが、子どものかわいさを「ベビーシェマ」(大きく張り出した額、その下についた大きな目、短く太った手足、柔らかく弾力ある肌、頼りない不器用な身体動作、などの身体的特徴)から説明する議論も紹介された。ただしローレンツの議論も、モレルの主張の枠内に収まったものになっている。

一方森先生は、子どもをかわいいと感じる経験を考えるために、もっと複雑な要素に目を向けなければならないと主張する。森先生が挙げるのは、子どもの側の3つの特徴(外見、能力の低さ、成長)と、養育者の側の5つの感情(庇護欲、愛着、おかしさ、崇高感、責任感)である。「かわいい」と一言で表現されている感性のあり方は、実はこうした複数の要素が絡まりあう中で初めて理解されるものなのである。
残念ながらここでは、それぞれの特徴や感情について具体的に言及する余裕はないが、例えばこのWeb記事(リンク)から、森先生の研究内容の一端に触れることができる。また、近々この主題に関する著作を出版する予定もあるそうなので、是非その刊行を心待ちにしていただきたい。

森先生の議論の面白いところは、以上のようにかわいさの経験を理解することで、子どものかわいさを巡る不思議(パズル)が解決されると指摘するところにある。「自分の子だけがなぜか特別かわいく見える不思議」、「成人になっても親から見れば子供はいつまでもかわいく見える不思議」、「昔の写真を見返してかわいさの感じ方が変化する不思議」などなど。これらの不思議(パズル)は、かわいさを単なる外見的特徴を超えて分析することによって初めて解決可能となる。私には、こうした議論に分析哲学の持つ魅力が存分に表れていると感じられた。

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森先生の話から強く気づかされるのは、かわいいと感じる美的経験に対し、それを感じる養育者の側の感情や態度が大きな影響を与えていることである。例えば子供に対して責任感を持つことで見えてくるもの(かわいさ)があったり、目を見張る子どもの成長を見届け、その生命の崇高さを知ることで初めて気づくかわいさの側面がある。逆に子どもの側の特徴である能力の低さも、親がそれをただ否定的に見てしまう時には、そこから生まれるはずのかわいさが見い出されづらくなるだろう。

であれば、子のかわいさには、それを感じるための「コツ」と呼べるようなものがあるとは言えないか。もちろん、森先生の話をノウハウ論として回収したいわけではない(森先生自身、ご自分の話をノウハウとして適用できるか現在懐疑的だと述べている)。私が言いたいのは、私たちは、子どものかわいさをただ自然な反応として単純に受け取るだけでなく、「よりよく」子どものかわいさを感じる可能性に開かれている、ということである。なぜ、何が、子どもをかわいく感じさせるのかを知ることは、子どものかわいさをよりよく感じるための手がかりを得ることでもあるだろう。


質疑応答

以上の刺激的なお二人の発表は、特にアカデミックな観点からの質問を多く喚起することになった。「子ども」の定義とは何か、美的性質のレベルの高低の話は西洋美学偏重的な話なのではないか、醜さを肯定的に語る術を美学は持つのか、などである。

ここでは質疑のやり取りを一つだけ紹介しておく。質問は、「講演にあった美的経験は、人間ではない動物にも当てはまるものなのか?」というものである。それに対し森先生は、例えば、あることが「できる」ではなく「できるようになる」というような成長の理解には歴史的な時間感覚が必要となり、ゆえに成長を愛でるというようなかわいさの経験を動物が得ること難しいのではないかと応答された。一方、庇護欲や愛着(からくるかわいさ)の感情を動物が持つことについては、簡単には否定できないという態度をとられた。
青田先生は、例えば「親しみ」の経験を持つことにおいては、自分自身がルーティーンを送り、そこに穏やかな快を感じていることを認識するというメタ認知的構造が重要な役割を果たす点について言及し、ゆえに動物がそれを感じとることには難しさがあるのではないかと指摘された。ただしお二方とも、動物についての専門家ではないため、にわかに結論を出せないと断られていたことを申し添えておく。

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イベントの後半に行ったワークショップでは、

①「子どものかわいさを感じる姿や場面」
②「日常で親しみを感じる場所やルーティーン(作業)」

という二つのテーマついて、思いつくことを、思いつく限り参加者で書きだすということをした。子ども達にはもう少し取り組みやすいものとして、①のテーマであれば「かわいいと思うもの」、②のテーマであれば「家の中で一番好きな場所」を書いてもらった。

ワークショップをこのような内容にしたのは次のような思いからである――青田先生や森先生の話から分かるのは、特別ではない子どもとのいつもの生活の中にも、複雑な構造を持った多様な感性の働きがあるということである。しかし忙しい日々を過ごす私たちにとって、そんなことを気に留める暇などないというのが実情だろう。しかしこのイベントの中でくらい、一度立ち止まって自分の生活を振り返り、本来そこにあった私たちの感性の働きを再発見してみるのはどうか。きっとこの作業は、これからも続くいつもの毎日の風景に、新しい光を投げかけるきっかけとなるに違いない――。

具体的な作業として、参加者には思いついたことを付箋に書きだしてもらい、それをテーマごとにわけたテーブルにペタペタと貼ってもらうことにした。作業が進むにつれ、大きなテーブルは次第に付箋で埋め尽くされていく。また、付箋でテーブルがいっぱいになった後は、みんなでテーブルを囲んで、気になるコメントについて話し合う時間を設けた。

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子ども達もとても積極的に参加してくれた(嬉しすぎて泣いちゃう)。

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テーブルに貼られた付箋

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コメントを囲みながら、森先生の話を聞く

「親しみ」のテーマで私の記憶によく残っているのが、ある女の子の書いてくれた、「部屋の隅」が安心するので好き、というコメントである。他の人からも、「それ分かる!」という声が挙がった。そしてこれが起点となり、保育施設でもあえて部屋を区切って隅を作る空間づくりの手法があることへと話は弾んでいった。
また、親しみを感じる場所として「電車の中」を上げる人が多いことは意外で面白かったし、森先生が、夕ご飯時に朝ドラを家族で視聴する(しかも時に苦痛を感じながらも!)という家族のルーティーンについてお話されて、場が盛り上がったこともよく覚えている。

「かわいさ」についても、単に外見に注目するのではないコメントが多く集まった。「受容と反抗があるとき」。「自分に似ていると認識したとき」。「強がったとき」。「口をぽかんと開けて頑張る姿」。「新しいおもちゃに目を輝かせているとき」。森先生の講演の通り、子どもをかわいいと感じる経験に実に様々な形があることが、これらのコメントにはまさに現れている。それぞれのコメントに対する森先生からの理論的な観点での説明は、参加者に更なる理解と興味を掻き立てたことと思う。

以上、イベントは予定していた2時間を大幅に超えて、終わりを迎えた。講演者のみならず、参加した全ての人に手と頭を動かしてもらいながら、全員で作り上げるイベントとなった。この場に居合わせた全ての人に対し、ここに改めて感謝申し上げたい。
そして何より、このイベントを通じて、参加者の皆さんが日常のうちにある親しみやかわいさの感情を思い起こし、それに改めて思いを巡らせる機会となったならば幸いである。少なくとも私は、子どもの寝ている姿を毎朝眺めるたびに、このかわいさはどこから来てるのかなぁとぼんやり考えるようになった。

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最後に、このイベントで一つ試みたことについて(反省も込めて)記しておく。私は「哲学×子ども」のシリーズイベントを、できる限り子どもを排除しない形で行いたいと常々思っている。普通、「哲学の講演会」と聞けば、子どもにはそぐわない場所と考えてしまったり、子どもをそこに連れていくのがはばからたりするだろう。しかしこのイベントは、子どもについて哲学するものである。であれば、思考は子どもとともに深められねばならないのではないか。いやもっと言えば、そこに子供がいるからこそ、彼らとの営みについて考える意味が出てくるはずではないか。これが本シリーズに対して持つ私の信念である。

とはいえそのために、イベントの内容を子どもが理解できる範囲に収めるというわけでもない。そういう機会も確かに重要ではある。しかしこのイベントは、アカデミックな質を落とさずに専門家の講演を聞き、交流を行えるものでもあってほしい。
ただそうなると、子ども達が話を聞き続けることは当然難しくなる。そのため今回は、子ども達が自由に遊び、楽しく過ごせる場所を、聴衆の座る場所のすぐ後ろに用意することにした。

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遊び場で子どもたちは、それぞれ好きに過ごしている。

心がけたのは、学会などでよくある託児システムのようにはならないよう、講演が行われる場所と、子どもが遊ぶ場所をシームレスに繋げるようにしたことである。託児所はあくまで、子どもを講演の場に「立ち入らせない」ためのものに過ぎない。しかし、一つの空間に講演と遊びが収まれば、例えば聴衆には子供たちがバタバタと遊ぶ音や、笑い声、話し声が届き、講演の場と遊び場の自由な行き来も行われるようになる。また、遊び場で子どもに付き添う親も、講演者の話を自然に耳に入れることができるだろう。
講演と遊びの二つの場は、それぞれが自由に異なる活動を行っている点で「ズレ」を持つ一方、必要なかかわりを保ち続けるための「重なり」もまた持っている。本シリーズで目指すのは、ただ分離するのでもなく(託児所)、ぴたりと重なるのでもなく(子供向けにしたイベント)、ズレと重なりを同時に内包するような共生のあり方である。

・・・と、偉そうに書いてはみたが、遊び場からは講演者の音声を聞き取りづらい音響環境であったようだし、椅子が密集した配置だったため、子供を連れての移動がしづらい動線になってしまっていたようである。これらの点は大いに反省して、試行錯誤を続けていきたい。

私は、全ての哲学イベントがこのような場であるべきだとは思わない。その内容に応じて、向き不向きや、適切な場のあり方は異なるはずだろう。しかしこうした共生の場所を作る試みは、きっとどこかで必要とされているはずだ、とも思う。本シリーズは、まさに子供との共生を試すための絶好の場であるから、これからもできる限りの工夫を積み重ねていこう。
(報告者:李太喜)

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