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【出張報告】スキニシー学校訪問(2025年12月8日)

2026.01.13

スキニシー学校は滋賀県栗東市にある、0歳から200歳までの人を対象としたフリースクールである。校名に関された関西弁「好きにしぃ」(好きにしていいの意)の通り、スキニシー学校では登校した日にやること、やらなければならないことは何一つ決まっていない。最低限の安全面のルールを守る限り、それぞれが自由にその日にやりたいことを決め、活動する。本ブログはそんな学びの場スキニシー学校に、研究員の李が出張した際の記録である。

スキニシー学校とのご縁は、2025年6月に開催したワークショップ「子どもから学ぶ哲学」に登壇いただいた山本一成先生に作ってもらったものである。このワークショップで私が話した「自由」についての議論を、スキニシー学校の関係者の方に紹介してもらう機会があり、今度は私の方が学校を見学させていただく運びになったのである。

学校訪問の前日、スキニシー学校の先生である池田さん(まっちゃさん)、西澤さん(さいちゃん)、そして現在高校三年生で、以前スキニシー学校に通っていた林樟太郎さん、そのお父さんの浩一郎さん(こうちゃん)と、顔合わせを兼ねてスキニシー学校のことや私の研究内容について色々と話をさせてもらう機会があった。

樟太郎さんはスキニシー学校の創設者の一人である。幼稚園で主体性教育と自然教育に親しんでいた樟太郎さんが、小学校に入って感じた学校教育への違和感からスキニシー学校創設の物語は始まっている。この学校創設の経緯は、Youtubeラジオで聞くことができる(もう一人の創設者である山下奏大さんも出演している)。
また樟太郎さんがこうした自身の経験から、通っていた中学の校則改革に取り組んだ経験を書いたエッセイは、『わたしたちの世界を変える方法 アクティビズム入門』で読むことができる。いずれも興味のある方は是非見て、聞いていただきたい。

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学校見学の当日は少し肌寒く、曇り模様の空であった。とはいえ9時ごろに学校に到着すると、既に何人かの子供たちが外で遊んでいる。その日は、その後も人が集まり続け、保護者を含めれば30人を超える人が学校に集まることになった(その日はスキニシー学校と関係のある幼稚園の子や保護者も来たため、特別人が多かったそうである)。

スキニシー学校には机と椅子が並べられたいわゆる「教室」がなく、基本的に活動は広い外の敷地で行われる。そこには、遊具で遊んだり走り回る子、崖をよじ登る子、ヤギと散歩する子、焚き火を囲む子、穴を掘って落ち葉を燃やしてじっとながめる子、小屋づくりに取り組む子など、おのおのでやりたいことをする子供たちの姿がある。もちろん部屋の中で本を読んだり、パソコンを触ったりしてもいい。

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スキニシー学校の様子①

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スキニシー学校の様子②

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スキニシー学校の様子③

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スキニシー学校の様子④:スキニシー学校では7匹のヤギが飼われている。

学校の活動を取り仕切り、音頭をとる人はいない。子供たちは遊びたいところに自由に集まり、別の遊びたいことがあれば自由に別れていく。昼ご飯の時も同様で、「ご飯できたよー」と声が上がると、食べたいと思う人がそこにばらばらと集まっていく(いただいたご飯とお味噌汁、漬物、大根の煮つけ、魚の塩焼きは最高に美味しかった)。スキニシー学校はこのように一つの進むべき方向がある場ではないので、一人でいることも自然な振る舞いとなる。だからといってみんなが孤立していたり、バラバラであるわけでもない。即興的に集まりができて、キャッキャと子供たちの盛り上がりが広がることもある。また、年下の子のすることを年上の子が見守り、教えてあげるような関係性もある。ここには他者を気にかけつつも、他者と違っていられる居心地の良さがある。

昼過ぎには学校見学もある程度終わり、続いて哲学対話を実施することになった。私にとって野外の開かれた空間で哲学対話をするのは初めてのことだった。対話にはスキニシー学校の先生方、保護者の方、そして中学生と小学生の子達も交じってくれた。

問い出しでは以下の問いが参加者から出された。

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(写真は出張から帰ってきて、UTCPオフィスで撮ったもの)

選ばれたのは、中学生の子が出してくれた「人との正しい距離とは?」という問いである。この問いを皮切りに、色んな話が飛び出してくる。人との距離を探るのに苦労した経験が話されたり、距離はそもそも物理的な意味と、精神的な意味があることが確認されたり。また話題は、そもそもどうしてこの問いを出したのかにも移り、距離感の近さを指摘された悩みが語られる一方で、距離感が近いことは一概に悪いとは言えず、むしろ親密になろうとする前向きな気持ちの表れではないか、という意見もでた。
こうした対話のやり取りは、少なくとも私にとって、自らの人間関係を振り返り考え直す重要なきっかけとなった。哲学対話の参加者それぞれにとっても、何かを受けとる機会となっていたならば幸いである。

たっぷりと対話をした後、残った時間で「ビールはおいしい?」という問いについてもみんなで考えた。この問いは小学生の子が挙げてくれたもので、お父さんが、なんであんなにたくさん飲めるのかというくらいビールを飲むため、気になったそうである。幸いその場にはビール好きが多く(私もその一人である)、好きなビールの品種や、ビールと合う食事について楽しそうに語り合った。とりわけ印象に残ったのは、よく聞く話ではあるものの、もともとビールの味が嫌いだったが、ある状況やタイミングをきっかけに好きになったという実体験を、多くの人が共有していた点である。こうした気づきが、例えば「美味しさ」の経験に、単に味覚という要素では捉えられない複雑さがあることを教えてくれたりする。ビールがなぜ美味しいのかも、哲学対話にふさわしい問いなのである。

こうしてスキニシー学校の一日の活動は終了した。
日が暮れた後も赤々と燃える焚火が印象的であった。

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最後に主体性と自然が取り結ぶ関係について考えてみたい。実はスキニシー学校を知ってからというもの、そこでの学びの軸である「主体性」と「自然」の二つが、どのように結びつくのかが気になり続けていた。両者はいずれも教育の重要な要素であることは間違いないだろう。しかしこの二つを結びつけるものとは何なのか。答えは多様でありえるだろうが、ここでは「主体性」についての考察を起点に、どのようなことが言えるかを私なりに考えてみる。

主体性とは、「やりたいこと(やるべきこと)を自分で実行する力」だと言えるだろう。何かをやりたい気持ち(意志)を出発点に、それが達成できるよう行動する能力のことである。以下では、その出発点である「何かをやりたい気持ち(意志)」について、もう少し注目して考えてみる。

①まず言えるのは、自分が何をやりたいのかを見つけ出すのは、存外難しいということである。仮に自由に何でもできる場所が与えられたとして、じゃあ好きに過ごしてくださいと言われても、何をしたらいいか、答えは簡単には見つからない(事実、スキニシー学校に初めて来た人は、大人であっても、というより、むしろ大人の方こそ、何をすればよいか分からず立ち往生することが多いそうである)。もしそこでやりたい気持ちが見つからなかったり、もしくはそれが他者から与えられるのであれば、主体性は出てこないことになる。

②さらに、このやりたい気持ちは色褪せもする。実際、「やりたいから行われる行動」の多くは、それが習慣化される中で、「これまでそうしてきたから行われる行動」へと変わっていく。確かにそのような変節を経た後でも、その行動の根底に、何らかの意味でそれをしたいという気持ちがあるとは言えるかもしれない。しかし、その色褪せた気持ちから行われる行為は、「主体的」というよりも「惰性的」と言うべきだろう。主体的であるためには、やりたい気持ちに新鮮さが伴っている必要がある。

やりたい気持ちを見つけ出し、その新鮮さを保つこと――主体性に関わるこの二つのポイントにとって大切なのは、自分の内面よりもむしろ、自分の外部に目を向けることだと思われる。自分が何をしたいのかは、自分の心を虚心坦懐に覗き込むのではなく、むしろ自分の外部にある環境と触れあい、それに触発される中で徐々に明らかになるだろう(むしろ、自分の置かれた環境と全く関係しない欲求は、その人にとって重要な意味を持ちえない)。また、その気持ちの新鮮さを保つ契機は、本心の内省によってではなく、したい気持ちを阻害するような外部との出会いよって得られることだろう。

この点を、スキニシー学校に初めて来た私の娘の様子から考えてみたい。小さな崖を目の前にした娘の第一声は、「ここ、登ってみたい!」であった。普段の生活圏とは違うスキニシーの環境に触発されて、むくむくと登りたいという気持ちが湧いてくる。とはいえ、自然環境は簡単には乗りこなせない。足場にできそう場所に足を置き、崖から生えた蔦や枝を持ちながらじりじりと緊張感をもって壁をよじ登っていく。ここに足をかけようか、いやまず上の枝を掴もうか。一つの動作をするの度に、新しいやりたい気持ちが様々に溢れ出していく。

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じっと崖を観察する娘

もちろん、その足場が崩れない保証はないし、蔦や枝も体重を支えるに十分なのか定かではない。この環境の不可測性が、時に娘の気持ちを跳ね返しもする(実際、枝が折れてしまい、崖を滑り落ちてしまうこともあった)。こうした経験を経た上で、それでも娘は再度壁に上ろうという決意を新たにする。もしかするとこの結末を受けいれ、低いところでできる遊びを探そうという気持ちが新たに芽生えることもあったかもしれない。いずれの場合でも、この跳ね返される経験が、自分がやりたい気持ちを再確認する契機となっている。

気をつけて欲しいのは、娘にとって、こうしたままならない外部との接触は、端に自然に翻弄される受動的なあり方にとどまってはいないという点である。世界の側からの手ごたえは、むしろ子供の側からの積極的な応答を促し、自然に向かおうという子どもの気持ちや行動を刺激する。ここに見られるのは、世界と子供との「交渉(折衝)」である。

さて、もしこの崖が、登り慣れたコンクリートの階段であったすれば、外部との大した交渉は存在しないことになる。この時、階段を見てそこを登りたいという気持ちが湧き出すだろうか。階段を登る最中、様々な気持ちが溢れ出るだろうか。そして何より、やりたい気持ち(意志)はすぐに色褪せてしまうのではないだろうか。であれば、主体性に欠かせないのは、「やりたいことができる」ことだけではなく、「やりたいことができない」ことでもある、という逆説的な理解が成り立たないか。見通しの立ったゴールにスムーズにたどり着くのではなく、むしろやりたいけどなかなかできないという摩擦があってこそ、私たちは自分の新しい気持ちに気が付き、それを新鮮なままにすることができる。

しかしなおも、このままならない外部はなぜ「自然」の環境であらねばならないのか、という疑問は残る。私は、外部が自然でなければならない、とは考えない。ただし自然には、ここまで見てきた論点と関係する独特の特徴があることは指摘できる。一つは、自然の自律性である。人工的にデザインされた空間と違い、自然空間は自然の側の自律した運動の中にある。この特徴が、体育館などのしつらえられた場所には見つかりづらい、不可測性とままならなさをもたらし、私たちを刺激する。

もう一つは、樟太郎さんが前日の打ち合わせで話してくれた、「自然が相手なら、跳ね返されたり思いのままにならなくても、自由である気がする」という言葉から気づかされたことである。例えば「他者」(子供から見れば、親、教師、友人など)が、ままならない外部として立ちはだかることもあるだろう。しかし不適切な形で他者に跳ね返された時には、むしろそれに応え、向き合おうという子供の気持ちは潰れてしまい、そこに「交渉」は生まれない。一方、上手く崖を登れず、ヤギにそっぽを向かれる経験には、私たちが悔しさの感情を覚えつつ、しかし同時に、その跳ね返しに前向きに立ち向かえる爽快感と心地よさがあるのではないか。

日が暮れた後、スキニシーのヤギ達は自分たちの小屋へと帰っていく。うちの娘は、小屋に向かってヤギのリードを引っ張ったり、逆にヤギに引っ張られたりしながら、そこでヤギとのささやかな交渉を行っていた。その楽しげな様子には、自然から抵抗されることの心地よさが表れていたと思う。

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