【報告】ワークショップ「子供を育てるって なんだろう ――男性と育児のかかわりを哲学する」
2025年3月9日、ワークショップ「子供を育てるって なんだろう ――男性と育児のかかわりを哲学する」が駒場キャンパスにて開催された。少し時間が経ってしまったが、「子供×哲学」シリーズ第一弾となるイベントについて報告する。
以下、『子どもの文化』2025年6月号に掲載された記事を、許可を得て転載する。
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2025年3月9日、東京大学駒場第一キャンパスでは「子供を育てるってなんだろう――男性と育児のかかわりを哲学する」と題したワークショップイベントが開催されました。イベントの前半では大妻女子大学の久保健太先生に講演をいただき、その後参加者全員で哲学対話を実施しました。会場には結果的に50人を超す参加者が集まり、幼児や未就学児から小学校低学年程度まで、10人ほどの子どもたちも共に参加してくれました。

イベント開催直前の様子
以下では、このワークショップイベントの発案者であり、当日の司会者でもあった私(李)から、このイベントが開催されたいきさつにも触れつつ、当日の様子について簡単な報告ができればと思います。
開催までのいきさつ
少し個人的な話から始めさせてください。私には4歳の娘がいます。朝の登園準備や送り迎え、毎日のごはんづくりは私の担当で、世間から見れば育児に関わっている方だと思います。実際男性の友人のうち、同じような生活を送っている人はいません(女性の友人ならいます)。私は確かに育児やそれに関わる家事が好きな方だと思います。とはいえ妻とこのような役割分担ができているのは、研究者という、比較的時間に融通が効く仕事をしているからという理由が大きいです。もしそのような働き方をしていなければ、私は果たして自分の子供とどのように向き合っていただろうか。このなんと無い疑問が、今回のイベントの企画の原点にあります。
しかし私は、あくまで一人の子の親として、この疑問を抱いていたに過ぎません。私は自由意志論を専門とする西洋哲学の研究者ですから、育児に関する専門的な知識を持っているわけではありません。しかし、そんな私に僥倖が舞い込みました。2024年10月から働き始めた新しい職場「共生のための国際哲学研究センター(UTCP)」では、哲学と絡められるイベントであれば何でも開催してよいとのことです(直近でも、アート、障碍者支援、少年院など、内容はバラエティーに富んでいます)。
ならばと、さっそく育児について哲学をされている方を呼んだイベントの開催を目論みました。幸いにも久保先生の著作『生命と学びの哲学――育児と保育・教育をつなぐ』(北大路書房 2024)に出会い、久保先生と対面でお会いする機会を得ることができました。その際私は、無茶ぶりもいいところの、次のようなお願いをしました――現代の親と育児を取り巻く環境は、一つの社会問題として、例えば労働時間の短縮や、男性の育休の推進などの観点から取り上げられてきたが(もちろん、それが今なお喫緊の課題であるのは言うまでもないことです)、そこに「そもそも育児とは何か」という哲学の観点から切り込むようなイベントができないか――。久保先生は二つ返事で私の提案を引き受けてくださり、冒頭の企画へと相成ったのです。
生命の論理と産業の論理
話題をイベント当日に移します。久保先生による発表のテーマは、「生命の論理と産業の論理」でした。
講演中の久保先生
以下、私の言葉でそれを簡単に紹介してみます。「生命の論理」とは、なんだか分かりきらないけれど湧きだしてしまう感覚を頼りに、体が動く(動き出す)ような次元で捉えられるものです。例えば、子供はただ道をまっすぐ進むということさえなかなかしてくれません。世界と触れ合う感覚に即して、彼らは「ゆらゆら」と進みます。しかし、そこでは実は当人の主体性が発揮されている。これが、生命の論理という言葉で久保先生が言い表そうとすることです。一方、産業の論理ではその「ゆらゆら」は許されません。
教育学者である大田堯(1918年-2018年)の言葉を使えば、産業の論理とは「最大の能率、最小の個性」が求められるような世界の理です(「せっかちについて考える」『自撰集成 第2巻』藤原書店 2014)。これは、既製品の規範やルールに従うことを求められるような社会の理屈だと言い変えても良いと思います。
発達心理学者のエリク・H・エリクソン(1902年-1994年)を参照して久保先生が強調するように、子どもの成長にとって実はどちらの論理も重要です。生命の論理に従いたいが、一方で産業の論理にも従わねばならないという「モヤモヤ」した葛藤を通して、子どもたちは社会的な存在へと成長するからです。しかし、もし子どもを育てることにおいて、産業の論理だけが優先されたとすれば、時間をかけながらゆらゆらし、時に誤りをおかしながらも前に進んでいこうとする、生命の根源的かつ主体的な在り方が見失われることになってしまいます。生命の論理と産業の論理が共存できる方法はないか。講義の最後にはそのヒントを求めて、スウェーデンの街づくりにまで話が広がっていきました。
スウェーデンの街並みについて
興味深いのは、講演が行われるその現場に、まさに生命の論理が渦巻いていたことです。講演会の最中、参加してくれた子どもたちは「講演中は静かにすべし」などという大人の側の、つまり産業の論理をものともせず、講演者や司会者に飛びつき、投影されている講演資料の横に落書きをし(資料の投影先が、ホワイトボードでした)、時に泣き出すこともありました。それを見て、「そうそう、これが生命の論理なんです」と述べた久保先生の言葉は印象的です。


ホワイトボードに書かれた子ども達のお絵かき
なるほどこのような環境は、産業の論理から見れば不適切とされるかもしれません。しかし久保先生によれば、子どもたちはそこからずれていく存在です。大切なことは、彼らは好き勝手をやっているわけではないという点です。たくさんの大人の中で、講演会という規範をまとった雰囲気を感じつつ、モヤモヤを通して生命の論理を爆発させる。育児の根幹が、こんな彼らに付き合い、彼らと共に生きることにあるならば、反省すべきは一方的に産業の論理を押し付けてしまう大人の方だと考えたくなります。
以上の話は、現代の親と育児の関係についても非常に示唆的でした。育児というものが、労働時間の短縮など、時間の効率化という文脈で語られるとき、ともすると育児時間についても効率化の面が強調されるかもしれません。しかし、「そもそも育児とは何か」という観点から考えれば、それは育児や保育の重要な側面をそぎ落とすことにつながります。むしろ必要なのは、じっくりと子どもの反応を待ち、間をとること。私はこの講演以降、忙しい朝でもゆらゆらしている娘を見て、じれったくも、「彼女は今生命の論理を生きているんだ」と考え、一呼吸置くことを意識し続けています。
規範とゆらゆらを巡る哲学対話
ワークショップの後半では、イベントに参加した全員で「哲学対話」を行いました。哲学者の梶谷真司の言葉を借りれば、哲学対話とは「みんなで一緒に考える」ことです(「「共創する」哲学:梶谷真司教授インタビュー」『東大新聞オンライン』2023年12月8日)。つまり、哲学の専門家がそれぞれ個々人で黙々と考え込むのではなく、その場に居合わせた人たちが、属性関係なしに共に語り、考えを深めることが哲学対話の本質です。
まず始めにどのテーマで話し合うか案を出し合い、「規範と子供のゆらゆらとどう折り合いをつければよいか」がテーマに決まりました。その後、4グループに分かれ、哲学対話が行われました。
テーマ決めをしている様子
私がファシリテーターとなったグループでは、このテーマを出発点に、時に哲学的で抽象的な、時に家庭の中の具体的な、実に様々な話題が飛び出すことになりました。「規範にも様々なレベルがあるのではないか」「規範は子ども自身も作るのではないか」、「学校の規範と、家庭内の規範のギャップをどう考えればよいか」、「具体的に子どもが約束を守らない時にどういう対応をしているか」、「親があえて失敗したり、規範を破ることを見せることも大事なのではないか」などなど。哲学対話では一つの答えを出すことが必ずしも重要ではありません。その都度の話題に触発されて、思いついたことを率直に述べ合うなかで、参加者それぞれにとって考えが深まるきっかけが得られれば十分です(そして深まらなくたって、それはそれで構いません)。

この時出たテーマ。子供たちのお絵描きも見えます。
さて、輪になって行っていた哲学対話にも、やはり生命の論理が持ち込まれることになりました。輪の真ん中に子どもが入ってきて、キャッチボールが始まります。でもその間、哲学対話が中断されることはありませんでした。むしろその子どもの存在は、私たちの対話をうながしさえしてくれたような気がします。そこでは生命の論理と産業の論理が、確かに共存していました。
哲学対話を終えて、ワークショップは閉会となりました。予定されていた2時間を大幅に超えて、3時間超のイベントになりました。久保先生に、そして長い時間お付き合いいただいた参加者の皆様に、この場を借りて改めて感謝を申し上げます。
会いたいけど、行きたくない
私は自由意志を哲学的に研究するものとして、率直に言えば、久保先生がゆらゆらを主体性として説明する話にはまだ飲み込めないところがあります。いわば、勝手に湧きだしてしまう感覚に従うことには、「本人にとってままならない(コントロールできない)」側面が認められるはずです。しかしどうしてそれが、その人の主体性と結びつくと言えるのか、分かり切らないのです。ただしこのような疑問はむしろ、合理的な行為主体を前提として思考を組み立てる哲学の側に、反省を迫るものなのかもしれません(そして久保先生はそれを引き受けようとしているのでしょう)。この、いわば子どもから哲学への挑戦状に対して答えを出すべく、私はこれからも考え続けようと思います。
最後にまた、個人的なエピソードを書くことを許してください(出来すぎた話だと思われるかもしれませんが、本当の話です)。ワークショップイベントが終わった後、久保先生のご家族とお別れした際、うちの娘が、「みんなと離れたくない!」と泣き始めました(久保先生のお子さんたちと本当に楽しく遊んでいましたから)。今から駐車場に走ればまだ会えるかも、と私が伝えると、今度は「行きたくない!」と言います。え、でも会いたいんでしょ?と言うと、「会いたいけど、行きたくない!」と。まさにシンポジウムで久保先生が話されたゆらゆらを、娘が率直に口に出したのです。普段ならきっとこの矛盾した言葉の真意を、「もう一回会いに行ったら、また別れることになって悲しいから行きたくないのかな?」というように、整合的に解釈しようとしていたと思います。でもその時は、あのイベントの後だからこそ、「ああ、そうか。会いたいけど、会いたくないんだよね。そういうもんだよね。」と、受け止めてあげることができました。
矛盾する二つのことが、しかし彼女にとってはともに真理であること。それをあるがままに受け入れる目線を持ち続けること。私にとって何より重要なことに気が付かせてくれるイベントとなりました。






