筒井史緒 【standART byond】報告⑤~Vol.3 「酵母に生かされたパン屋のパンの話」開催報告 後編 [当日の報告 未知に生かされながら未知を生きること]
(前編よりつづく)
当日はもともと以下のような予定だったが、実際は現場の感じを見ながら少し臨機応変に流れを変更した。
このシリーズでは、生きものの感覚を大事に……、ということを、進行にも反映させているからだ。即興、アート、直観、といったものは、決められたことしかやらないスタンスだと窒息し死んでしまうが、本シリーズは、アートを直観や「テーマにする」だけではなく、自身がそのものであろうとする試みだからである。
予定していた流れは以下の通り。
①酵母をつなぐデモンストレーション。実際に酵母という生きものが、ごはんを食べて元気になってゆく「発酵」という生命活動の様子を見てもらうために、ワークショップのあいだ(3時間ほど)育っていてもらう。
②たつおさんの来歴を聴き、パンに至る道を理解することで、未知なるものへのまなざしをもつ。
③パンの話へ。参加者のみなさんに、パンの材料の実物を触ったり味わったりしてもらい、五感で知り、体感していただく。
④パンの奥にひらけている生命の話。
⑤④よりさらに広げて、「好きなことをして生きる」「調和して生きる」などにまつわる、より本質的な生を営むための、生きかたの話。
⑥カルパのパンの実食。
⑦最初につないだ酵母の発酵ぐあいを、見たり嗅いだりして体験。
①は、「生命」と「食」の感覚をつなぐために、ふだんあたりまえのように食べているパンが生きものであり、わたしたちが生命を口にして生きている体感をもってもらえたら、と企画した。
パンを焼く過程のなかで、たつおさんがいちばん大切にしているというのが、この酵母繋ぎである。前日の残りの酵母に、水と塩と小麦粉という餌を与え、おじいちゃんになっていた種がぴちぴちと元気な若者になってゆくプロセス。
言ってしまえば、ただ生きものが育つだけというこのプロセスで、たつおさんは発酵の様子を気にかけ、酵母が健康な状態になってくれるよう世話をする役回りだ。しかし、あれこれと過保護に世話を焼くのではなく、いい状態で育つように気にかけながら、見守り、必要なだけの対応をする。
手を出しすぎるわけではないが、なにもしないというのでもない。たつおさんは「ほかの菌よりも酵母菌にほんのすこし贔屓をする」、という言いかたをした。生命と共生しながら人間が豊かに暮らすときに必要な、自然から外れ乱すことのないぎりぎりの、人間の作為や意図のようなもののバランス。その大きなヒントを感じる言葉であった気がする。
②は、パン屋になろうとして生きてきたわけではないたつおさんの歴史をひもとくことで、その中心を貫くものの見かたや感じかたが浮き彫りになってゆくプロセスとして設定したが、実際にはまず③のパンの話を先にした。
それは、酵母繋ぎの過程で、材料の実物が机の上に出てきたからだった。
③のパンの話のメインは、材料を実際に見たり触ったりしてもらうことにあった。わたしたちの現代の都市生活では、すでに食事のためにできあがったものを手に入れ、それを口にすることがほとんどだ。それによって、自分が「いのち」を食べているという意識が薄らぐ。
材料を触って何になるの、という向きもあるかもしれないが、本シリーズで大切にしている態度のひとつに、「意味がある」の意味自体を問い直すことがある。現代の知のスタンダードにおいて「意味がある」というのは「お金になる」「産業の役に立つ」「数字に繋がる」といったことであることが多い。だが、わたし自身はその無意識の底に根強く横たわる定義に、つよい疑問をもっている。人の生の実質にとっての「意味」とは、生きている実感と喜びに直結する何かのはずだ。そしてそういうものは、それぞれの人が全身と全霊を震わせて感じるもので、その震えの体感そのものが「意味」なのではないか。
何と名指せるわけではないけれど、たしかに感じるもの。そうか、パンって、植物とか海でできてるんだ、という気づき。土とか、水とか、風とか。生きているもの、巡っているもの、わたしたちと同じもの。
そんなものとしての食物。
食物を、体験として、体感として、細胞の震えや湿りけや温度として知る。そういう「意味がある」体験のために、ふだん知っているようで知らない、パンの元になっている材料を実際に触り、見て、嗅いで、ということをしてもらおうという意図だった。
テーブルに酵母繋ぎの材料が出て紹介をしている流れで、先にこのままパンの原料も見ていただこう、となった。
パンの材料は、水・塩・小麦・酵母、以上四つだけだ(たつおさんのパンの場合)。カルパで使っているすべての麦、それらを挽いた粉、塩、そして酵母を皿に並べ、参加者の人に触れてもらった。小麦粉に触れ、石臼の話を聞き、育てた人の話を聞き、粉や塩をなめてみる。麦粒を噛んでみる方もいて、手触りやにおいや舌の感覚をノックしながら、ゆっくりとパンや食べ物の解像度が上がってゆく。
この流れの変更は、良い結果につながった。早い段階で、参加者の方々に前に来ていただいて体験の場をもったことで、皆さんからの質問も自然と出る流れになった。やはり、かしこまった場をいかに早く崩して、自分も場の大事な一員で、どんなことでも場に投げてよい、という空気を作ることも、ワークショップの運営には大事だなと改めて思う瞬間でもあった。
②は、たつおさんの来歴を聴くところだったが、たつおさんの経歴は非常に面白い。スケーターだったたつおさんは、まず「なるべく遊んで暮らしたい、なるべくたくさんスケボーがしたい」という動機で、足を使わずに座ってできる仕事をと、グラフィックデザイナーとして就職。その過程で広告業界に疑問をもち退職、有機農業の会社で広報をするなかで、農家さんたちが口をそろえて「自分が野菜を作ってるんじゃない」と微生物のことばかり言うのに興味をもって、自分でシードルを作ってみて、その澱でふとパンを焼いてみたら美味しかったので、長野県上田市にあるパンの名店「ルヴァン」でパン修業を始めた…… というのがざっくりとした流れだ。
スケボーで培われたDIY精神や、「あるものしか使えない」ではなく「ないものは自分で作ろう」というマインド、広告業界で生まれた、本当に世の中に必要なものは何かという根本的な疑問、有機農業を知るなかで知った、微生物という人間のコントロールを超えたものが「美味しい」を作り出すこと。
そうした生への態度、わたしたち人間が生命という未知のものに生かされていることにはっきりと目をひらいて、その未知とともに最高に遊ぶための生きかたの表現のひとつとして、たつおさんは今パンをやっている。
カルパのパンはだから、「美味しいパンを作りたくてパン屋になった人のパン」とはぜんぜん違う(そういう人のパンが良くないと言っているのではなくて、ただ違うというだけだ)。宇宙の一部、自然の一部である生きものとして、「健康的」「気持ちいい」という五感プラスアルファのセンサーをとぎすませながら、瞬間瞬間、世界とコミュニケーションする。たつおさんにとっては今、その表現がパンであるということだ(ちなみにたつおさんの言う「健康的」はもちろん、いわゆる「ヘルシーな食事」のような人間にとって栄養素やカロリーがどうとかいうこととは違って、パン自体が生きものとして健康的かどうか、ということである)。
だから、採算や美味しさではない別の理由で材料を選ぶことも多い。たとえば「この塩の製法が途絶えないよう応援したいから、価格も高いし味にもさほど影響を及ぼさないけど、ここの塩を使う」といったように。
このあたりから自由な流れで、④と⑤が混在した話になっていった。
温度計や湿度計の数字よりも、感覚のほうが正確だ。そんな話をしていたとき、たつおさんがふとなにげない仕草で、発酵中の酵母の容器を机から取って抱きかかえる場面があった。ちょうど冷房の風が少しあたるところにあった酵母が、少し寒そうな感じがしたらしい。「こういう感覚を無視すると不健康なパンになるんです」と言う。
おそらくあの部屋の中で、たつおさん以外の誰も、ああ今酵母が寒そうだからちょっと抱いてあっためてあげたほうがよさそうだな…… なんてこれっぽっちも感じていなかったに違いなかった。でもたつおさんはそれを当たり前のように肌感覚で感じ取り、当たり前のように自然に、その感覚に応答した。はからずも、たつおさんが酵母とこうして会話して大切にしているのだということが目撃できたことは、参加者の皆さんにとっても大きな意味をもっていたのではと思う。
とはいっても、たつおさんは今はこうして日々感覚を繊細に使いながら、酵母という生きものと阿吽の呼吸でともに暮らしているが、ルヴァンで修業を始めたころはなにも感じられなかったし分からなかったのだと言う。感覚というのは、研ぎすませ育てることができるのである。わたし自身も歌や踊りをはじめ、いくつかの技能を身に着けてきたが、初心者の頃にはまるでなかった感覚がどんどん育っていったものだった。おそらく、なにかを習得したことのある人なら誰でも知っていることだと思うが、そうした感覚は、今分からないから自分は鈍感だ、向いていない、ということでもなく、意識すれば育てることができる。
だから、ドアを開けることが大事なのだ。そこにドアがあることを知らなければ、その感覚は永久に発現しない。しかし、ドアがあることを知り、自分でそのノブに手をかけることで、世界はみるまに変容してゆく。
そうした直観的な感覚を使うときに、現代は「これで合っているのだろうか」と、正解かどうかを気にすることが多い。しかし、たつおさんは大事な子どものように酵母の容器を抱えながら、「自分の感覚を信頼することが大事なんですよ」と言った。失敗することもあるけど、でも信頼してみてやってみることが、何より大事なのだと。僕たちは分からないものに生かされているから、ずっと分からないものは分からないままなのだと。だからこそ、いつもただやってみる。いいときもあるしだめなときもある、でもいつもちゃんと感覚を使い続けることが大事なのだと。
ほかにもたくさんの話をして、たくさんの気づきと細胞の震えとともに、生命や食べるという営みへの解像度がこまやかに増す時間となった。
生きものや食べることに関する感度が上がったところで、いよいよ⑥、カルパのパンの実食タイム。美味しそうなパンがずっと目の前にあった参加者のみなさんは気が気ではなかったかもしれないが、やっとここで食べられることになった。
たっぷりのカンパーニュや、ナッツやドライフルーツの入ったパンを、その場でたつおさんが切り分ける。たつおさん手作りのジャムやペースト、オイルや塩などを自由につけながら、感想や質問も、感性や好奇心のままに自由にとりかわす。初めて食べる方も、大ファンの方も、大人も子供も、美味しい美味しいとパンをほおばる、幸せな時間となった。
撮影を任されていた梶谷さんが、自分も美味しくて夢中になって食べてしまい、肝心の皆さんが食べている様子の記録がないのも、あの時間がどれだけ幸せだったかというしるしのような気がして、ただ微笑ましい気持ちになる。
思いのほか実食しながらの楽しい話が融通無碍にふくらんでしまったために、なんとわたしが⑦の発酵の進んだ酵母を皆さんに体験してもらうというくだりを忘れて終了してしまった。せめて写真を載せておきたい。
参加された方は、最初のあの底のほうに少しだけぺったりといた酵母の成長ぶりを、こちらの写真で見ていただけたらと思う。本当は、香りも質感もまったく変化していたので、実物を体験していただきたかったのが本心だけれど。
以上が当日の報告である。参加された方も、主催したわたしたちも、ほんとうに楽しく学びの深い時間だった。楽しみながら、自分の身体を感じながら、未知のものへの感性や信頼を育みながら、思考や知識を織り合わせながら。そんな、「わからないものと生きる」ことについてのより深い知をはぐくむ、そんな機会になっていたら、このうえない喜びである。
「わからないもの」と向き合うとき、なんの証拠があって……、と思うのは、ある地点までは大切だし有効だが、ある地点からはむしろ害になる。その、理性が沈黙し、感性が語り出すべき地点を見極めることもまた知性だ。というかもしかしたら、そこの地点を見極め、感性を最高度に解放した状態で、美しい織物のようにふたたび理性を織り合わせる。そうやって、理性と感性の両方を最高度に生かせることが、もっとも知的なことなのかもしれないとも思う。
実は本ワークショップはこっそりと、そうした最高度の知性までも射程に入れているのだが、まだまだ、まだまだ遠い。どうやってそこに至るかもまだ、見えてもいない。けれど、いつかはそこまで届いてみたいとは思う。
それができたら、人間における「ほんものの知性」の獲得は、ひとつの出発点に立つことができる気がしている。
あらためまして、センター長の梶谷さん、ゲストのたつおさん、スタッフの桑山さん、来てくださったすべての皆様、ほんとうにありがとうございました。
報告:筒井史緒