筒井史緒 【standART byond】報告④~Vol.3 「酵母に生かされたパン屋のパンの話」開催報告 前編 [カルパのパンという「生きもの」]
2024年10月12日日曜日。ずいぶん遅ればせながらやっと秋らしいさわやかな風が吹く、青く晴れた美しい日に、「幸福知のためのアート・ワークショップ・シリーズ standART beyond」の第三回「酵母に生かされたパン屋のパンの話」が開催された。
ゲストには、長野県茅野市でパン屋「カルパ」を営むとのつかたつおさん。避暑地として名高い蓼科にほど近い住宅地エリア、表通りから少し入り、畑と民家のなかにぽつんとあるのが「カルパ」だ。八ヶ岳エリアでは知られた名店で、自然酵母で毎日焼かれるパンをもとめ、日々近隣だけでなく全国からお客さんが訪れる。
たつおさんにワークショップを依頼しようと思い立ったのは、以前カルパのパンを買い求め、ほおばった瞬間の記憶が、ずっと鮮烈だったからだった。10年以上京都で暮らしたわたしは、「美味しいパン」を食べたことならいくらでもあった。京都は交差点ごとに一軒ずつパンの名店があるといってもべつに大袈裟ではないほど、個性豊かなパン屋にはことかかない。うなるほど美味しいパンだって珍しくはない。毎日、どこのパン屋でどのパンを食べようかと、楽しみになるような街だった。
しかし、カルパのパンは、それらの「美味しいパン」のどれともまったく別のものだった。それはもはや「パンを食べる」という体験ですらなかった。うまれて間もない赤ちゃんの肌に触れているような感覚、ほとんど官能的なほどの食感。掌のなかで、それは息をし、柔らかな香りをはなち、繊細な湿り気をおびていた。「パンて生き物なんだ……」。そのときはじめてわたしは静かな衝撃とともに、そのことを体感的に理解した。
たつおさんに話を聞くようになって、わたしはあのときの感覚が正しかったことを知った。彼は日々、その日の酵母や空気や温度やなにかと、丁寧に、ことばにならないコミュニケーションをしながらパンを焼いていた。
「僕、美味しいパンを作るためにパン屋になったんじゃないんですよ。健康的なものを作って、結果それが美味しかったらいいと思ってる」「気持ちいいかどうか、が判断基準です」「僕はパンを作ってるけど作ってないんです」……
たつおさんのパン作りは、日々、酵母と塩と小麦と水と、宇宙との会話で成り立っている。人間の理性には分からない何かを信頼し、それとともに、その未知に任せることで、結果として人間にとって素敵なものを受け取っている。それを確信したわたしは、今回のワークショップのかたちがなにも定まらないうちから、きっと素晴らしい回になるに違いないと感じていた。
本ワークショップ・シリーズは、「幸福知」「直観知」を大きなテーマとしている。幸福といっても、お金がたくさんあるとか出世しているとか美人の奥さんをゲットしたとか、そういう条件的な幸福ではない。すべての人間がそれぞれ内に秘めている「本来の自己のありかた」により一致している=幸福、というイメージだ。そこに外的な条件はなく、むしろそうした外面的なものをどれだけ削ぎ落し、内なる単純さ(それは宇宙そのものの構造とイコールであるという点で、とても複雑なものでもあるのだが)に近接してあれるかという、極限まで条件を外した状態である。そのとき、人間は、ただシンプルな「生きもの」としての本来の自身のありかたに、安らぎ、遊び、満たされることができる。
わたしは「幸福」に、そのようなイメージをもっている。
そうした無条件の「幸福」の鍵になるのが「直観」だ。生きものとしての単純なありかたに近接するためには、自己の再内奥に内蔵された、生きものとしての感覚を使う必要があるからである。
人間は不思議な存在だ。地球上で、人間以外のすべての生物は、本能が導くままにやりたいように生きていれば、おのずと自然の摂理にかなうようにできているのに、人間だけがそうではない。ただただ欲に任せていると、自然を裏切り、地球を損なうことができてしまうという、生物としてはとんでもなく謎の機能が搭載されている。
そうした謎の機能がついているのはどうしようもない事実として、さてその機能をどうするか、ということが、人間を生きるときのひとつの大きな問いになってくる。
それにたいする答えは、もちろん人それぞれ千差万別であろう。
しかし、自分の生まれてきた意味を本当にまっとうする、とか、がまんせずに心地よく生きることで自分も他人も地球もみんな本来の自然で幸福な状態であれる、とかいった「本質的なウェルビーイング」を念頭に置くなら、この機能に対する答えのひとつとして、「そうした機能があるにもかかわらず、それを経験や学びの深さに変換しながら、奥に秘められた生きものとしての望みを自分の意志で選択し、生きる」ということが考えられるだろう。
オートマティックに本能に任せるのではなく、多重奏のように矛盾しながら響く自分のうちなる声の、どれに耳を傾け、どれを選択し、どれを信頼し、どれを癒し、どれをたいせつに抱きしめ、どれを育むか。
その選択の自由が与えられたのが、地球ではおそらく唯一、人間だけなのだろう。だとすればその自由には、責任がともなう。わたしが選んだものは、わたしにも、他者にも、地球にも、影響を及ぼすからだ。
そして、その自由をつかうための能力をはぐくむこともまた、自由をもつ存在としての責任でもあり、醍醐味でもあるのだろう。その能力とは、肉感的な知性とでもいうべき、生きものとして自己と部分と全体とが同時に循環する道を、直観的に感じ取ることができる力のことだ。
生きものとして生きるとき、人は心地よくあるだけで、ほかの生きものと、地球と、宇宙と、よりよく共生することができるのだと、わたしは思っている。それもおのずと、自然と。だから、欲や表層的な思考の奥にある、生きものとしての野性の感覚を取り戻し、それを大切に生きることが、心地よく、かつ好い存在として生きる鍵になる。
そのためには、自我や科学を超えておのずと生命の全体を生かし循環させている、未知なる何かを、無心に受け取り、それと会話し、それに応答する、そうした細胞レベルの深い対話の力が必要なのだ。
そういうものを開く場所になればいい、と思って、このシリーズを営んでいる。
快感にもさまざまな質がある。人を蹴落とすのが快感という人もあれば、人と愛しあい、笑いあい、受容しあうことが快感という人もある。そこに、いい悪いというより、浅い深いは存在すると思う。人より優れてありたいという人は、あるがままの自分でいることを受容されなかった傷をもつ。その傷が癒えれば、自分を愛するために他人と比較する動機が消える。そのとき、精神の奥でずっと眠っていた、自分も他人もすべてあるがままを愛し受容する感性が、ゆっくりと瞼をあける。
だとするならば、戦争と破壊の快感よりも、愛と受容の快感のほうが、より深く本質的だということができないだろうか。
この論点については、第二回「今ここ・右脳と仲良くなる」の報告に詳しいので、ここでこれ以上の議論は控えておく。
話を戻そう。
こうした「生きものとしての人間」の自然なありかたを感じ、思い出す回にしたい、という想いで、たつおさんをお呼びしたのが今回だった。「宇宙との対話」を、パンを焼きながら日々行っているたつおさん。パンという切り口を通して、その奥に広がる生命の広がりを体感していただこうと、「生命としてのわたしたち」をワークショップのテーマとした。
(後編につづく)
報告:筒井史緒