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【報告】国際ワークショップ「Our Dealings with the Invisible: on the Air as a Form of Commons」

2024.10.31 石井剛, 宮田晃碩, 桑山裕喜子

 2024年7月21日(日)13時から17時半まで、東アジア藝文書院(EAA)セミナールームにて、「見えないものとの付き合いとは――コモンとしての空気について」(Our Dealings with the Invisible: on the Air as a Form of Commons)と題された国際ワークショップが開かれた。共催のEAAからは石井剛先生、主催のUTCPからは宮田晃碩さん、報告者の桑山裕喜子が参加し、大学院生の参加者と登壇者を含む対面9名とオンライン10名が参加し、活発な議論が行われた。
 

 今日、日本語で「空気」や「雰囲気」という言葉を使うと「よくわからないもの」という印象が先走るようである。「場の雰囲気」であれ「空気」であれ、それが何を指すのか問われると、すぐに答えるのは確かに難しい。英語で雰囲気を意味する「atmosphere」という語は地球を覆う気体つまり「大気」という意味と、人や物からたちこめる知覚可能なものの両方を指す傾向にあったそうだが、その後「ムード」といった意味も持つようになり、西欧にて20世紀にかけて注目を集めるようになる。その一部は、精神病理学者フーベルトゥス・テレンバッハの『味と雰囲気』(1968/1980)やヘルマン・シュミッツによる「雰囲気」としての感情の現象学、そしてそれを受けて自身の論を発展させたゲルノート・ベーメによる雰囲気の美学・感性学に見出される。
 日本語で「空気」は江戸末期にオランダ語のLugt (今日のlucht)の翻訳語として成立した(杉本 2015)。英語同様に元々は「大気」としての意味を多大に持っていたそうだが、明治期にかけて欧米文学の和訳を通し、次第に「ムード」としての意味でも「空気」が使われるようになる。その後大正、昭和にかけて日本の文学作品においても夏目漱石をはじめ、「空気」を雰囲気や時代精神といった意味で使う文学者が現れるようになる(コーパス検索アプリケーション「中納言」検索より)。その後「日本人論者」として批判されてきた山本七平による『空気の研究』(1977)の刊行にも相まってか、雰囲気としての「空気」という日常用語が定着していき、今日の「雰囲気」と似た意味で使われる「空気」の表現は定着していく。
 本ワークショップは、学際的な観点から、他者と共有されている「雰囲気」や日本語で言う「空気」という、いわば無意識のうちに成立している間主観性の具体的例示を通し、それを論じる際のアプローチにどのようなものがあるかを議論する目的のもと開催された。ワークショップ企画運営を担当した報告者自身の前提となる考えとしては、私たちはいつも常に知らないうちに、ある種の雰囲気の中に身を落とし、その影響下にあると同時に、その雰囲気の生成や変容・発展に知らぬ間に参与してもいるのでは、という視点である。

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 一人目の登壇者であるニーム大学防災学研究室のマチュー・ゴレーヌ氏は、日本語の「空気を読む」という表現が福島第一原発事故に携わる知識人においてある種のキーワードとなった点に注目し、実際に原発事故や災害に携わる人々の読む「空気」とはどのようなものであるか、記述することを試みていることについて発表された。ゴレーヌ氏は、「空気を読む」という口語表現が示す、ある種のものの理解力に対する信仰とも言える何かが、日本語内に根強く浸透している点を強調する。若い世代がしばしば「空気を読めない」と非難されるのを恐れているのもその例と言えるだろう。そのような中で、災害現場の「空気」を<直感的>に把握することのを特に強調したのは、元福島原子力発電所事故調査委員会(ICANPS)委員長で東京大学名誉教授の畑村洋太郎氏であったという。畑村教授は、数百年前の災害現場を含む災害現場を訪れ、「人々の心の空気」を捉えることの重要性を強調したという。また畑村氏は、福島県飯舘村の住民に植え付けられた放射能への恐怖という、筆舌に尽くしがたいものを表現するために、講演や発表の際にはデッサンを用いているという。興味深いのは、ゴレーヌ氏はここで、この「空気(を読む)」にアメリカ・プラグマティスムの一人でもある論理学者チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)の「アブダクション」の論理を見出す点である。ゴレーヌ氏は、パースが「アブダクション」を調査の一つの方法として見なしていたように、「空気を読む」(語り手の置かれた状況の雰囲気や、語り手そのものから感じられる雰囲気を観察し、記述する)というある種の解釈学を「雰囲気の人類学」のフィールドワークに活かす可能性を見出している。

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 続いて東北大学大学院文学部研究科准教授のローレンツォ・マリヌッチ氏はまず、空気とは私たちの生きる場所であるにも関わらず、人間の反省の対象になりづらくあり続けてきたことへの批判から始められた。匂いや香りに包まれながら生きる人間による、それを媒介する「空気」の忘却はリュース・イリガライも言うように批判に値する。地域や人々が同じ空気を吸っているということは、環境保全や人々の健康について論じる観点から見ても一つの事実である。また、空気は身体、テクノロジー、もの、あらゆる生物との関係性を動かし、理解し、表現することの無意識な場でもあり、「共存」の基盤である点を強調された。イリガライによる「空気」理解に基づきながら、マリヌッチ氏は「空気」を恒常的に自己創造する一つの関係性と捉え、その一つを「におい」の現象に見出す。室町から一つの文化活動として継承されてきた香道という芸道においては、一つの香りのみならず複数の香りを集まった人と共に「聞き」、その広がりを味わうことができる。マリヌッチ氏は、香道家の共有する空気をコミュカティブなコモンズとして理解できると捉えた上で、香道にも見られる、「におい」の鑑賞が俳諧を通しても追体験されうる点を指摘する。その例としては、十句を超える松尾芭蕉や野沢凡兆、向井去来の俳句が紹介された。紹介された句の一つ一つが、それぞれに異なった「におい」(梅の香り、夏の終わりの下町のにおいから石の「におい」まで)を、鼻いっぱいに感じさせる。江戸時代の俳句に立ち込める情景にはその場の空気の体験である「におい」がベースとしてあったことに気付かされる発表であった。

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 休憩を挟み、続いて神戸大学大学院人文学研究科講師の安倍里美氏による講演では、呼吸法に見られるポジティブなものとしての「息を吸うこと」とは対照的な、「息を止めること」で可能になるある種の「我慢」や「サバイバル」の可能性もが見出されうる点が指摘された。イリガライを代表とした呼吸の哲学者たちは、適切な呼吸が間主観的倫理において必要不可欠であると主張する。しかし生活世界の具体的な例として、私たちは往々にして「息を止める」ことで何らかの危機を免れるかのように思われる場面にも出くわす。安倍氏は、漫画作家ヤマシタトモコの『ひばりの朝』(祥伝社、2013年)に登場する、他者による暴力的眼差しにさらされ続け、危機的な心理状態を生きる少女ひばりを例として紹介された。漫画作品の中で「ひばり」は危機的状況をいつも「息を止めてやり過ごす」ことでかろうじて生き延びてきたと語る点に注目し、深呼吸をその根本とする呼吸の哲学に対し、このような少女の視点は何を突きつけるか、という倫理的問いに裏付けられた発表であった。暴力を与える側と被害を被る側とで同じ「空気」が深呼吸されるという事態をある種必死に防いでいるとも言えるこの「息を止める」という選択においては、そもそも個々人が落ち着いて他者と共にありながら、それぞれに必要な空気をそれぞれに深呼吸し合う、といった対等な関係性は前提とされていない。これは、同じ空間を共有しながら、個々人に必要な分の「空気」が回らないような力関係が実際には起きている、ということをも示唆する。呼吸とは人が単に一人で営み続けているわけではない点もが浮き彫りになる発表となった。

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 ワークショップ最後の発表は神戸大学大学院人文学研究科の久山雄甫氏による。久山氏は、夏目漱石の『こころ』に出てくる「空気」という表現の英語訳と独語訳の比較から始められた。そしてそこで言われる「空気」がおそらく、ヘルマン・シュミッツの新現象学の体系内においては、その知覚が感じられる時にのみ存在すると考えられる「準物体」(Halb-Ding)として見なされうる点をおさえる。「空気」は気圧か圧力でもあるかのように、雰囲気的力として私たちを圧倒できると同時に、生きものにとってはなくてはならない、生存の拠り所でもある。空気の持つ客体化の難しさは、空気研究の困難さそのものをさすと同時に、それは空気が私たちにとってあまりにも「自明」な存在であることをもさす。久山氏は、空気がまた、その自明性ゆえにこそ、私たちを想像だにしていなかった事態の発展へと追いやることもできる点を指摘する。夏目漱石の『こころ』における「空気」という言葉の使用例から久山氏は、主人公が様々な状況においてさまざまな仕方で、この単なる物でも非物質でもない空気に、考えや気分、振る舞い方がある意味<規定される>点を押さえる。その上で、日本人論者として批判もされた山本七平の『空気の研究』の文化比較的手法では、ここで問題となっている「空気」分析が限られたものとなってしまう点をも指摘する。また、これら力のように捉えられる雰囲気的なものの分析については、人体の内外や主体・客体といった二項対立を避ける東洋にある「気」概念が示唆可能なものにも注目すべき点もがふれられた。と同時に、あらゆる人の考えや行動に何らかの方向づけを与えることを可能としてしまうこの力のようなものは、日本語の「空気」に限られず、様々な文化のもとで見られる現象として取り上げられるべきである点が強調された。

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 講演やディスカッションを通し、私たちが知らぬ間に呼吸していると同時に、その中から出ていくこともできないものとしての「空気」について、文化内と文化横断の両方を前提とする視点から議論する貴重な機会になった。「空気」に対しどのような理解や思いなし、態度が見受けられるかについて、具体的な例が様々な分野から挙がるワークショップになったと思う。身体・精神の両方を一体に包み、支配すらしうる雰囲気という、よくわからないものとしての「空気」について、研究においてのみならず実践の場においてもどのような観点が可能かが示唆されるような機会となった。非人称的な情感や情動とも言える雰囲気と空気についての学祭的な研究の今後が非常に気になるところである。本ワークショップは、神戸大学の神戸雰囲気学研究所の協力のもと可能となった。登壇者の先生方をはじめ、当日対面・オンラインの両方でいらしてくださった全ての皆さまに、改めて感謝申し上げたい。

報告者: 桑山裕喜子


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