【報告】2024年度キックオフシンポジウム「共生の揺らぎ Polyphony of Lives」(第2部)
2024年度キックオフシンポジウム「共生の揺らぎPolyphony of Lives」の第2部では、法政大学人間環境学部教授の吉永明弘氏にご講演いただいた。「倫理学は環境問題にどのように応答しうるか――都市の緑をめぐって」というタイトルで、吉永氏が専門とされる環境倫理学とはそもそもどういう分野なのかという紹介から始まり、目下議論を呼んでいる明治神宮外苑の再開発計画についてもその立場から論評する内容である。講演の全体が「現実の問題に対して哲学・倫理学は何ができるのか」という問いに貫かれており、そのことは哲学を専門とする報告者(宮田)にとって非常に共感する点であった。そのうえおそらく研究を仕事にしていない人にとっても、この問いのおかげで、いったい環境倫理学とは何なのか、哲学や倫理学は何の役に立つのかという疑問に答えるようなお話になっていただろうと思う。ごく大づかみにはなるが、ご講演の内容を紹介したい。
吉永氏は環境倫理学について、最近刊行された『はじめて学ぶ環境倫理』(筑摩書房、2021年)のほか、いくつかのテキストを出版されている。環境倫理学は哲学の分野としてみれば、倫理学のなかでも応用倫理学の一部門として位置付けられる。その特徴のひとつは、個人の心がけについて論ずるのではなく社会がどうあるべきかを論ずる点にある。一方環境問題への学問的な取り組みとしてみれば環境社会学、環境経済学など様々なアプローチがあるうちのひとつとしても位置付けられるため、他のアプローチと比べてどのような貢献ができるのかということが問題になるわけである。
アメリカの環境倫理学は1970年代から80年代にかけて、人間か自然かという二分法のもとで「人間中心主義」から「人間非中心主義」へ、そして自然に「道具的価値」のみならず「内在的価値」を認めるという価値観の転換を提唱した。それは従来の西洋近代で培われてきた思想を問い直すという点で重要だが、しかしこうした議論は必ずしも、環境保全の現場の問題意識を反映したものであるとは言えない。その点を問題視し、より実践に結び付いた議論を展開してきたのが「環境プラグマティズム」と呼ばれる一連の動きである。吉永氏が専門とされる「都市の環境倫理」はここに根差している。
「都市の環境倫理」という言葉には、一見して違和感があるかもしれない。なぜ環境のことを考えるのに人工的な都市を取り上げるのかと。しかし私たちの多くが住んでいるのは都市であり、環境問題を考えるにあたって都市のあり方は重要な論点である。また実のところ、生活に必要な機能を集中させた都市は「エコ」な場所でもある。そしてそもそも、都市は完全に人工的な場所などではなく、樹木が植えられ虫や鳥が行き交う、自然を含んだ場所である。吉永氏の著書『都市の環境倫理』(勁草書房、2014年)は、21世紀に入って登場したこの分野の論考である。
吉永氏は、日本の都市の環境がいくつもの脅威にさらされていると指摘する。それは数十年前に計画されたまま見直されずに実施される道路建設、樹木の伐採や「強剪定」と呼ばれる過度の剪定、また公園の管理を民間の事業者に委託するPark-PFIという制度などである。そうした脅威に対して倫理学者は何が言えるのか。それも個人の心がけとしてではなく、社会のあり方に対してどのような貢献ができるのか。それは「価値観の転換」を提案することであると吉永氏はいう。アメリカの環境倫理学においても、人間非中心主義の提唱や自然の内在的価値の発見という仕方で、価値観の転換が唱えられてきた。その「自然の価値論」は都市の緑にもあてはめられる。自然の価値には「経済的価値」も含まれるし、また対極的に「固有の価値」(人間の都合にかかわりなく樹木自体が尊い)も含まれるが、ほかにも、素敵な並木道があることは喜びであり地域の誇りであるという「社会的アメニティの価値」や、体験が人間の考えを変容させるという「変容的価値」なども含まれる。そのようにして9つの価値が挙げられた。
こうして「都市の緑にはこのような価値がある」と言挙げすることも環境倫理学のひとつの役割であるが、それだけでなく、より積極的に「価値観の転換」をもたらすことが環境倫理学にはできるし、すべきであると吉永氏は論ずる。
価値観の転換として提示された一つ目の要点は、「説明責任の移動」である。世間には特に説明を必要とされないいわば普通の行為・事業もあれば、あえて行おうとすると説明を求められ、うまく説明できなければ実現が阻まれるような行為もある。環境倫理の文脈でいえば、「人間中心主義」的な社会(つまり自然に「道具的価値」しか見ない社会)において、説明を求められるのは「保全」側である。自然を「開発」することには説明が求められない。しかし社会がむしろ自然に「内在的価値」を認める「人間非中心主義」的なものになれば、立場は逆転する。自然の保全は当然のことであり、「開発」側が説明の責任を負うことになる。それは具体的には、環境アセスメントといった形で――未だ限定的にしか機能していないかもしれないが――制度化されることになる。
もう一つの「価値観の転換」は「中止の判断を称賛する」ということである。私たちの行いや言葉はよくも悪くも社会から評価される。その際私たちの行為は、さまざまなサンクション(この語は悪い行いに対する制裁も、良い行いに対する承認も意味する)を受ける。例えば刑罰・認可といった法的サンクションや、課徴金・助成金といった経済的サンクションがある。それに加えて重要なのは、非難・称賛という倫理的サンクションである。この倫理的サンクションに関して、いったいいかなる行為が称賛に値するのかを、環境倫理学は提示できるというわけである。それは別に、なにか正しい施策を倫理学者が決定して従わせるということではない。そうではなくて、現在の社会においては「どんな場合であれ事業の中止は失敗である」という価値観が支配的であるのを、「熟慮の末の事業の中止は英断である」というふうに、より自由で熟議に開かれたものへと社会の価値観を変えようということである。
こうした議論を踏まえ、具体的な問題として神宮外苑再開発のことが話された。これは「神宮外苑地区まちづくり」として、三井不動産株式会社、宗教法人明治神宮、独立行政法人日本スポーツ振興センター、伊藤忠商事株式会社が事業主体となって2024年から2036年にかけて行われる予定の事業計画である(事業のホームページ:https://www.jingugaienmachidukuri.jp/ )。これに対して2021年12月に日本イコモス国内委員会の発表した意見書がきっかけとなり、事業計画への反対署名や著名人による反対の表明などが相次いだ。吉永氏が問題点として挙げるのは、樹木伐採による緑の減少、イチョウ並木が枯れる可能性、高層ビル建設による環境悪化である。吉永氏による記事があるためそちらも参照されたい。
・「神宮外苑再開発が「アンフェア」である理由。倫理学の観点から考える」
https://www.huffingtonpost.jp/entry/jingu-gaien-redevelopment-against-fairness_jp_6413a87ee4b0cfde25c3f664
・「神宮外苑の再開発「イチョウが枯れない」と立証する責任は事業者にある」
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_643b8df1e4b06695059aacd5
・「都市の緑地開発問題を「倫理学」で斬る――公正、分配的正義、賢慮の観点から」
https://synodos.jp/opinion/society/28731/
具体的な論点はいくつかあるが、今回は特に公共空間の「価値」の問題を中心に議論が展開された。
正義という観点で考えるとき、重要なのは財がいかに分配されるかということである。しかし一口に「財」といってもそこには様々な種類のものがあり、それによって分配基準が異なる。吉永氏はマイケル・ウォルツァーの分配的正義論を参照し、この点を強調した。それによれば財の種類とそれに応じた分配基準は次のようになる:〈医療〉は[必要性]に応じて、〈初等教育〉は[平等]に、〈高等教育〉は[能力別]に、〈神の恩寵〉は[信仰]に応じて、そして〈商品〉は[貨幣]に応じて分配されねばならない。資本主義的な価値観が支配的になると(そして私たちはそのような社会に生きていると思われるが)、あらゆる財は貨幣に応じて分配される(要するにお金があれば何でも得られる)のが当然であるかのような錯覚を抱きかねない。しかしそれは誤りである。この区別を貨幣が乗り越えてしまうと、薬の買い占めや裏口入学、免罪符などの不当な事態を生んでしまう。言い換えれば、社会には商品化できない、してはいけない財があるのだということである。そして「風致地区」や「公園」も商品化できない社会的財である。それは世代をまたいで平等に利用できるのでなければならない。このことを吉永氏は、神宮外苑のような空間は「コモン」であり企業によって商品化されてはならないのだとする斎藤幸平氏の指摘や、宇沢弘文の「社会的共通資本」といった概念を引き合いに出しながら説明された。
もうひとつ、街路樹の管理の実例を挙げながら、都市の緑に誰がどのように関わるべきなのかという点が論じられた。まず重要なのは市民である。都市の緑を含む公共空間の価値は貨幣に換算されるようなものではなく、個々の人びとが愛着を抱くといった「関係的価値」である。何もしなければ見過ごされてしまうその価値を表出するためには市民参加のプロセスが欠かせない。加えて重要なのは専門家の存在である。樹木の管理に関して言えば、造園や樹木医の専門知が欠かせない。その知は土木とも異なり、生きた存在としての樹を扱うため、長期的な変化も視野に入れて景観を管理するものである。Park-PFIといった形で資本の論理に任せてしまうと、往々にしてそうした専門性がなおざりにされてしまう。公共的な価値を持つものにこそ、専門家の知は必要なのである。
まがりなりにも哲学を専門とする人間として、「現実の問題に対して哲学・倫理学の立場からは何ができるのか」という問題意識は心から共感するものであった。一体自分に何ができるだろうと気にかかる場所は私にもいくつかある。そしてそれと同時に私の中には、「哲学・倫理学の立場からは」といったことを気にする前に自分がなにかしたいと思う現場に飛び込むしかないだろう、という思いも湧いてくる。現実の問題は哲学者が考えるべき練習問題のようには提示されないし、そういう距離を保って用意した考えというものは現実に直面して結局変形を余儀なくされるだろう。それなら初めから現場に飛び込みそこから哲学を立ち上げるべきではないのか、そういう思いである。そこではっとする。吉永氏の提示する「都市の環境倫理」とは、まさに自らが身を置いている現場から、当事者として思考を立ち上げるものではないだろうか。なにか理論を先にあるものとして学ぶと、私たちはつい「問題」がどこか自分と離れたところにあって、そこに前線を拡大すべきなのだと思い込んでしまう。しかし問題は、自分が生きているこの場所にあるのかもしれない。当事者だからといって初めから自分たちのニーズや問題を明瞭にできているとは限らない。哲学を「学ぶ」ということは、自分自身が学ぶのである限り、そうした足下の問題を照らすものでなければならないだろう。そしてそれは自分一人に、あるいは専門家集団に閉じたものではなく、共に暮らす人たちと共有しうるものであるはずだ。社会的財の問題はまさに、専門的な議論以前にただそこに暮らすというだけで共有される「価値」の問題である。そしてその価値は放っておくと、外から来た力によって脅かされる。大切なものを守るための哲学――そんな言葉が浮かぶ。そのような哲学自体がまた、放っておいて育つようなものではなく、日々の営みのなかに根付かせ、手入れをせねば朽ちてしまうものだろう。今回のイベントはそういう「手入れ」の機会になったかもしれない。そんなことを私は考えた。
(報告:宮田晃碩)