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【報告】2024年度キックオフシンポジウム「共生の揺らぎ Polyphony of Lives」(第2部)

2024.09.09 梶谷真司, 宮田晃碩, 山田理絵, 中里晋三, 桑山裕喜子, 國分功一郎 Permalink

2024年度キックオフシンポジウム「共生の揺らぎPolyphony of Lives」第三部は、第一部登壇者の古戸勉氏(シブヤフォント・ラボ)と第二部登壇者の吉永明弘氏(法政大学人間環境学部)にディスカッションをしていただく形で始まった。
 古戸氏はまず第二部の吉永氏による「都市の緑」をめぐる環境倫理学についての講演を受け、共通点が見つかった点を強調された。「自然」を守るというとき、「自然」と「人間」が対置して考えられやすいが、同じく「障がい者」についても、それは常に「健常者」に対置されたものとして捉えられやすい。マジョリティや権力層から「普通」でないと判断された人々が社会から切り捨てられる構造は、第二次世界大戦のナチズムが生まれるずっと前からあった(例. 魔女狩りなど)のは言うまでも無い。古戸氏が代表するシブヤフォントは、軽度障がい者とデザイナーが一緒に仕事をすることで、型破りの絵やフォントをオープン・フォントとして提供する。障がい者がただそこにいることで可能になるものがあるという(当たり前の)ことが、やっと具体的に世に伝えられるようになってきたのでは、と考えたそうだ。例えば都市生活においては木があることで木陰ができ、そこに佇むと心地よさが感じられる。同じ論理は福祉の世界にも当てはまるだろう。自然の織りなす生態学的多様性が示す価値と同じように、いわゆる「普通」でないとされる人々の存在のおかげで周りが豊かになるということがある。障がい者のスケッチや絵をもとにスタイリッシュなフォントやロゴ、イラストの型を提供する「シブヤフォント・ラボ」は、まさしくその具体例である。ラボの現場はいつも、スケッチとフォントを描く当事者たちがいてくれることで活気が増し、外部の人々もなんとなく「面白そう」と言って集まってきてくれるそうだ。しかしこのように、当事者と支援者がいたからできるようになったものを「お金で価値化」しようとすること自体が間違っている、とも古戸氏は語る。社会の構造において、例えば実際に障がい者と接し、彼らの力を日々感じ取り、現場にある課題や難題を一番よく知る人々は、社会を統率する場にいない。逆に言うならば、現場を知らず、感じとっていない人々が「なぜか組織の上に行く」と古戸氏は批判する。

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 とはいえ現在は変化もあることを古戸氏は付け加える。吉永氏の環境倫理学の導入においても触れられた「倫理の変化」は注目に値する。以前は例えばレストランや喫茶店内でも喫煙はまかり通っていたが、日本でも近年ようやく、喫煙所でのみ喫煙が許されるシステムが定着するようになった。似た事例は女性に対する態度の問題についても変化が見られる。日本でもMe too 運動が普及し、「セクハラ」等がやっとハラスメントとして認められるようになった、と古戸氏は語る。他者と共有する(物理的)空気が無防備に喫煙者によって奪い取られたり、汚染されたりすることに抑止力が加えられるようになったこと、若年者や女性があまりにも長いこと耐え(すぎ)てきた「モノ」や快楽の道具として扱われるといった事態に対する社会の目がようやっと(地域にもよりつつ)少しずつであるが変わりつつある。同様に、障がい者自身や、障がい者の経験する世界に対する眼差しが近い未来に変わってきてもおかしくないはずだ。と同時に古戸氏は、東京を中心に、「生きづらさ」を訴える人の数が近年さらに増えている点に注目する。社会の軋轢が強ければ強いほど、「精神障がい」に苦しむ人の数も増えていくという。古戸氏は東京都を中心に近年、電車やバスに乗ると、ヘルプマークや目に見えない障害があることを知らせるバッジをつけている人が多くいることに気づいたと語る。
 これを受けて吉永氏は、自然を守るための環境倫理の議論は、様々なコンテクストに応用できる点を強調する。学生には倫理とは「どんどんと変わるもの」であると伝えているそうだ。また、古戸氏の発表において、障がいのある方に対し「拒否感がある人の方がまだいい」という一言に共感を覚えたと語られた。環境問題に関しても、ただ表面的にポジティブなことを言う人には疑いが残るからだそうだ。これは「SDGs」と<ただ言えばいい>といったグリーンウォッシュのような論理を持つ人と、そうでない人との違いといったところであろう。例えば学生によっては環境問題に元々全然関心はなかったのだけれど、みんなが大事と言っていることで「なぜ」という疑問が生じ、それが元で環境問題について調べたり勉強したりするようになる人もいるという。これは「他者理解」の一つとして、環境問題に興味を持ち始める学生もいる、ということになる。それは一つのアプローチとして他者としての自然への態度が変わるきっかけにもなるだろう。と同時に、これは報告者の意見であるが、一方で、「なぜ」と思う以前に、自分の生きる環境の変化を、身をもって感じ取っている人もいることを忘れてはならないと考えた。自分と、自分の周囲の環境や自然との関係性を常に身体的・実存的に敏感に感じられる人たちもいる。そのような人たちは、どんなにその不快や辛さを訴えてみても、周囲の大多数の人にはすぐに理解してもらえない場合がほとんどである。こういった人々の視点も、社会の環境づくりには色濃く反映されなくてはならないはずだ。
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 古戸氏は、例えば障がい者について、理論的理解にとどまっているからこそ「表面上正しい」ことが言える人は多いと付け加える。が、それは本当にその人がそう思っているからそう言うのではなく、「表面上正しい」ことを言う方が「得だ」と考える論理に則っているからそう言動しているのでは、と指摘し、それでは現状は変化しないと語る。専門家層と実践家たちがもっと寄り添って仕事をする必要がある点を強調された。興味深かったのは、以下の点である。現場で何かについて話し合っていると、そこにいる人の「キャラクター」によって現場の流れが決まってしまうことがある、という。何か裏付けがあるというわけでも無いのに「あの人がそう言うなら、大丈夫だね」といった暗黙の了解が実質的な判断に先行することがあるということだ。あるいは、話す人のポジションによって聞き手の態度が変わる、といった現象もあるという。これはアカデミックな世界においても多くの人が経験する現象であろう。社会福祉活動家が何かを説明しても、聞く耳を持ってもらえない場合も、大学教授がものを言うと、聞き入ってもらえる、といった事態も数多くあるという。古戸氏は最後に、倫理学の教授と話をしたのは生まれて初めて、と語りながら、先生方にこそ現場に来てほしいという願いを語られた。
 最後に吉永氏は、経験に裏付けられた、力強い声として、すぐに納得してしまう、自身の「現場の声に弱い」一面について話された。研究において実務を自分は何もやっていないと常に意識し、非実務者が実務について何がわかるのかと聞かれると、詰まってしまう思いがあるという。本講演会には、それを意識した上で、実務家でなくとも今の時点で言えることのみを発表するつもりで登壇されたという。環境を守るための住民運動の現場に足を運ぶ時、現場の人々と話をする機会を得る吉永氏は、弁護士でもない自分にここで何ができるのか、と思うことが多いそうだ。そんな中、少なくとも「概念」の意味を明確にしていくアプローチは可能なはずだ、という考えから、今の研究を進められているそうだ。例えば、住民運動家たちの多くが、自分たちが地域エゴ(自分の庭だけはやめてくれ)の論理で動いていると捉えられることを非常に恐れている事態を目の当たりにするという。吉永氏は研究を通し、例えばアメリカの環境倫理学者の論文より、それが「住民の正しい権利主張」として州や国に認められている例を挙げ、住民運動家を勇気づけることに繋げるようにしているそうだ。その意味で吉永氏は、自身が理論や概念を(実務家に紹介するという形で)「媒介」する立場にはあるのかもしれない、とまとめられた。
 最後に古戸氏は、自分自身が「当事者」(例: 住民運動家や障がい者自身あるいはその家族)ではない立場にあるとき、当事者と非当事者の間のつながりづくりが何よりも大切である点を強調された。ある事態の当事者と非当事者の境目は尊く深いものである。と同時に、そこで注視される事態によっては、異なる「当事者」が浮上する。どのような具合であれ、何に関しても全く「当事者」でない人はいないという意味でも、自分とは異なる立場にいる人の経験する世界を少しでも自分の身に近づけて感じ取ってみたり、想像してみたりすることは、「共生」の条件や基本をなすように報告者には思えた。
 総合ディスカッションの後は会場からの質問を受けての応答があった。一つ目は障がい者のインクルーシブ教育の実践の如何や可否について、もう一つは明治神宮外苑再開発案の樹木伐採に対する反対運動に関し、一度下りてしまった事業認可をめぐり、行政側と企業の間の賠償問題に発展しないか、といった問いが挙がった。インクルーシブ教育について古戸氏は、日本の教育機関は分離教育を取りやめない意向を示していることや、(公立の学校の)短期間で担当の学校を変えられてしまう教員たちも、課題や大きさに苦悩している点を指摘された。その意味で現時点では「どうしようもない」とした上で、だからこそシブヤフォントのような事業活動を大きくしていく必要があると答えられた。二つ目の問いに対して吉永氏は、すでに出てきている代替案を考慮し、新たな選択や方法があるのではないだろうか、と答えられた。再開発が別の案で、もう少し良い案になる可能性はあるとし、そのような形で事業が良い形に収まる可能性もある点を指摘された。また、財政に関しては、そのような時に行政が賠償権を払えるような資金を貯めておく必要があると、アメリカのスーパーフォンド法を参考に答えられた。
 明治神宮外苑再開発案の樹木伐採に関しては、2024年8月末に改めてその伐採樹木の本数を百本以上減らす案が公表された。しかしこの案が通った場合も、伐採樹木の本数は六百本を超える予定である。市民は果たしてここですでに妥協して良いものなのだろうか。樹木の伐採によりさらに増えるであろう二酸化炭素とは今後どう付き合っていけば良いのか、といった懸念は尽きない。

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(写真は吉永氏の発表時のもの)

 本年度のキックオフイベントの最後にはUTCPメンバーの斎藤幸平氏が一言を寄せられた。専門家でもありつつ、市民として、街づくりをどうしていくかに興味を持つ斎藤氏は、市民としても運動を続けられている。神宮外苑再開発案への対応は、2024年7月の都知事選にも関係してくるトピックであった。斎藤氏はコメントの最後に、市民で集まって樹木保護について考えるきっかけになるとして、2024年6月29日開催の西武外苑ミーティングのイベントを紹介された。その時の斎藤氏のプレトークは、Youtubeで観ることができる。
 本イベント主催者UTCPは、公益財団法人 上廣倫理財団と、主に環境問題について研究する大学院生のための奨学金・助成活動をする公益財団法人西原育英文化事業団による支援により活動を続けている。両財団の変わらぬご理解とご支援に心より感謝する次第である。今回、環境問題と福祉の課題の両方を対峙させてディスカッションすることが可能になったのは、古戸勉氏と吉永明弘氏による登壇をはじめ、ご協力くださったシブヤフォント・ラボ、参加されたすべての皆様、そして上記の二つの財団による支援のおかげである。主催運営チームの一人として、この場を借りて感謝申し上げたい。

報告: 桑山裕喜子


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 2024年度キックオフシンポジウム「共生の揺らぎPolyphony of Lives」の第2部では、法政大学人間環境学部教授の吉永明弘氏にご講演いただいた。「倫理学は環境問題にどのように応答しうるか――都市の緑をめぐって」というタイトルで、吉永氏が専門とされる環境倫理学とはそもそもどういう分野なのかという紹介から始まり、目下議論を呼んでいる明治神宮外苑の再開発計画についてもその立場から論評する内容である。講演の全体が「現実の問題に対して哲学・倫理学は何ができるのか」という問いに貫かれており、そのことは哲学を専門とする報告者(宮田)にとって非常に共感する点であった。そのうえおそらく研究を仕事にしていない人にとっても、この問いのおかげで、いったい環境倫理学とは何なのか、哲学や倫理学は何の役に立つのかという疑問に答えるようなお話になっていただろうと思う。ごく大づかみにはなるが、ご講演の内容を紹介したい。

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