【イベント報告】<哲学xデザイン>「うごく、さわる、きく〜あなたとわたしのダンス」
今回7月9日の開催イベントのゲストは振付家・ダンサーの砂連尾 理(じゃれお おさむ)さん。
かつてはデュオでプロのダンサーとして活動していた砂連尾さん。
2008年ごろから老人ホームなどダンスがない現場に立ち入り、ダンスをともにしていく。そこでダンスを「覚えられない」人、いわゆる認知症の方と出会い、砂連尾さんのダンスはかわってゆく。鍛えられた体のダンスではなくさまざまな認知や身体性のなかでの表現や身振り、他者との共有と共存のしあえる新たなダンスの形があるのではないか。
今回は「うごく、さわる、きく〜あなたとわたしのダンス」と題して体をさまざまな方法や時間軸に合わせ動かしながら言語化し参加者同士で共有してゆくワークショップを行った。
最初はストレッチから。頭や背中、足など毎日お風呂上がりにストレッチするわたしにとってなじみのあるもの。 最後は背骨を丸めて伸ばして深呼吸しながら参加者みんなで体を整えていく。
さっきまでやっていたストレッチを二人一組になってやってみる。自分ではできないのになぜか二人でやると背中の後ろで組んだ腕の肘同士がくっつく。そうすると自分が思うより相手に引っ張られたりうながされる方がはるかに体も伸びる。痛さというより心地よさがあった。自分がどれだけ自分自身の体に縮籠っているかを実感した。
砂連尾さんが言うには、できるできないの境目をなくして 自分の体を型にはめないことが大事だということをこのようなワークで実感してもらっているという。
そしてここからは参加者全員で体を動かしていくワークをいくつかやっていく
<ゆっくりあるく>
会場の片側から反対側の鏡ばりの壁に向かって13mほどの距離を10分かけて歩くというもの。全員一列に並び一斉にスタート。会場はいっぺんに静けさを増す。足をあげてまたゆかにつけるまで2分以上かける人、体の一部分に集中して歩く人。方法も体制もひとそれぞれ。やってみてからの感想はそれぞれで人生経験や日常をおもいだしたりと参加者のそれぞれ独自の身体感覚が研ぎ澄まされるのが伺えた。
「ゆっくり歩くと無心になる」「右と左のバランスの違いを感じた、昔バイオリンをならってたから?」
「(自分は目が見えなく)普段は海の近くに住んでいて道や地面はいつもでこぼこ。ツルツルの床で歩くことで違うバランスが感じられ、足元に不安がない安心感がある」
「ずっと前行ってるって思ってたけどバランス取りに後ろに行ってたり 終わった後の戻りの速度わかんなかった」
「自分の体は常に緊張感あるのかなと 歩いた後に残る残像がある」
「リハビリとやってるタスクと似てる靴下履くのに10分 とか 無意識ができなくなると体をどう使ってたかを気付ける」・・・
<6分かけて握手する>
このワークのテーマは“「出会い直す」。”
二人一組になり6分間互いに手を差し伸べ合いながら握手をせず触らないというもの(言葉では説明しにくいので写真を見ればわかると思う)
それぞれのコンビがいろんな体のフォーメーションをつむぎながら触らない6分が続く。あまり動かずただひたすら手に集中するコンビもいれば触らぬよう体を捻ったりしゃがんだりしてダンスのようなものを生み出すコンビも。
6分経ってみんな初めて握手する。お〜出会えた〜!と会場に歓喜が一斉に湧く
そして「あの時あぁ言う風になりましたよね」と各コンビが瞬間瞬間を辿るように自発的に対話が始まった。
「どっちが引っ張ってるかわからない どっちが引いてるか押してるかわからない」
「お互いの中でルールがだんだんできてくる 物語のような」
元々男女ユニットで活動していた砂連尾さんは男女であるがゆえにどうしても(ダンスが)物語に見えてしまっていたという。それはある意味ひとつの先入観であり、それを解除したかったと彼は語る。物語ではない仕方で世の中をメイクセンスさせ、自分で新しい世界を見つけに行くことをダンスという形態で砂連尾さんは実践している。
いってみれば武道をやっていることに近いものがある。どうくるんだろうという身体的な間合いを見ながら合わせる感覚的な身体のセッションともいえる。
<ゆっくりふりむく>
参加者は「振り返る組」と「みる組」の2つのグループに分けられる。振り返る組は一列に並び鏡越しの壁に体を向け、部屋の反対側で待機している「みる組」の方向へと6分間かけて振り向く。時計はない。ルールは出会い直すワークと一緒で隣の人を触ってはいけないことだけ守れば動きは自由。
ここで打楽器演奏者で即興ダンスなどが得意な新倉壮朗(にいくらたけお)さんが床を手で叩き楽器のように奏でながら唄い出し始めた。会場が美しくやさしい奏の膜で包まれた。
振り返る組は:
「1人だけズレてるんじゃないか 頭の中でカウントで大体6分で振り向けるのか壮朗さんの演奏が始まり引っ張られカウントがどうでも良くなった 全体の空気に乗っかるようにと変化していった」
「ある程度体に集中しているからみられていることはあまり感じなかった」
「2人だと6分わからなかった みんな(複数人とのワーク)だと同調するのか6分ぴたりとうごける」
またみる組も 「一人一人の体の動きに目がいく。それぞれ相手の集中する部分に自分も集中していく」と。
非言語の対話がこのワークで一番生まれている気がした。
<言葉にならない発声で無意味な会話をする>
ここで一旦体のワークはおしまい。小ワークとしてタイトルを一斉にいろんな言い方で言う「声帯のダンス」を参加者と一緒にやった。不思議とこれも一つの唄になってエネルギー溢れる音が会場に響き渡った。
最後のワークは意味のない会話を2人でするというもの。
発語はしてはいけなく全く意味のない音と「ことば」をはっさなければいけない。一人は聞く側、もう一人は答える側となり会話を進めていく。
参加者は身振り手振りで相手の言ってることを読み取り、相手をミラーリングしながらそれぞれの方法で意味のない会話をすすめていく。
ワーク後のふりかえりではかなり感想が両極端に分かれた。
「伝わらないモヤモヤがあったり」
「苦しかった 言語伝わらない人とやってたから普段は相槌でなんとかキャッチボールなってる」
「自由って難しい 似てくると焦る 1人の方が自由かも 会話をするとなんか不自由さが発生する」
「言語にない音を出すと 気持ちいい」
「とりあえず笑顔でいることしたら楽しくなった」
「おばちゃんの噛み合わない会話みたい。聞いてもらえるだけで人は話せる。おしゃべりは意味のあることに共感する必要がない 言いたいこと言いながら聞き合うパフォーマンスなんだなと。人って何を言うかより一緒にいて聞き合うことが大事なのかも」
「通じないこともフィクション そこに身体を持つとより楽しさや発見を見つけられるようになれるのかもしれない」
なんだか参加者の皆さんの答えがとても哲学的になってきていた。
今回のワークショップではワークをしていくことで参加者が体だけでなく思考や心も型にはまらず解放していく様子が伺えた。参加者にもさまざまな身体性や認知特性をもつ方がいました。哲学するということはよく頭で考え問いを言葉にしていくというものだと思う。しかし今回のワークショップで砂連尾さんが試みたのは言葉からではなく、体や身体を能動的にうごかし感覚的な実感から考え、問いの出発点とする哲学できる体を作ることだったと感じた。また立場や人生経験がちがっていても、同じ空間で体などをほぐして意識を解放していくことで、人は自然と表現できるのだと思った。
文 / 写真 ライラカセム