梶谷真司 邂逅の記録128 パンづくりを通して人間と自然の関係を転換する――タルマーリーの渡邉格・麻里子さんをお迎えして
2023年4月1日、鳥取県智頭町でパンとビールを作っているタルマーリーの渡邉格(いたる)さん・麻里子さん夫妻をお迎えして、対面&オンラインでイベントを行った。渡邉さんのことは、『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』という不思議なタイトルの本で知り、以来、何としてでもお話ししたいと思っていた。当初は智頭町へ行って現地から配信しようと思っていたのだが、スケジュールが合わず、今回は駒場に来ていただくことになった。
それにしても、どうして哲学センターのイベントにパン職人を呼ぶことになったのか。その背景となっている私の問題意識は、コミュニティをどのように作るのか、そこに経済はどのように関係するのか、という問いであった。
私は、総合地球環境学研究所でプロジェクトをもっていた時(2013年~15年)、環境問題をコミュニティのあり方から考えようとしていた。そもそも環境の破壊は、ごく一部の限られた地域にとどまっていて、とくに人間に被害が出ていなければ、「問題」とは言われない。国家や町、地域といったある程度の範囲に影響が出て初めて「問題」となる。しかもそこには、コミュニティの力の差、物事の決定において誰がイニシアティヴをもつのかということが関わってくる。
例えば、原発のような迷惑施設は東京のような政治力も経済力も強い大都市ではなく、何れも弱い立場にある地方の小さな町に作られる。しかもその決定においてイニシアティヴをとるのは、政府やその意向に従う自治体の政治家である。住民は基本的に意思決定には参加できない。しかし、もしそこに住む人たちのコミュニティがもっとイニシアティヴを発揮できていれば、そのような迷惑施設を受け入れなかったか、受け入れるにしても違った形になっていたはずである。したがって原発事故のような大規模な被害もなかったか、起きたとしても違った結果になったにちがいない。水俣病のような公害も、リゾート施設や道路建設による破壊も、同じような構図をもっていて、地元のコミュニティがどのように関わるかによって変わってくる。
哲学ではしばしば環境問題は、自然対人間(の技術)という図式から捉えられる。しかしより具体的にはむしろ、誰が意思決定をするのかというイニシアティヴの所在から捉えるべきで、したがって権力、格差、差別の問題と絡んでいると言える。だから環境問題は、世界レベルで見ても、立場の強い国や地域が自分たちの利益のために立場の弱い国や地域を犠牲にする形で起きている。
もう一点、地球研のプロジェクトで、経済のことも考えていた。環境問題は、狭い範囲でごく少数の人だけが被害に遭っていても、やはり「問題」とは見なされない。影響がそれなりに広い範囲に及ぶことが重要であり、そのおもな原因は経済活動にある。とりわけ資本主義経済では、生産や消費の規模が大きくなると、被害も大規模で歯止めがかかりにくい。だから環境問題は、経済、とりわけ資本主義とどう向き合うかと言うことと無関係には論じられない。この点を考えるために、今回のイベントには、マルクスの思想を環境問題の観点から再構築している斎藤幸平さんに加わっていただいた。
では実際にこの二つの問題を具体的に考えられる事例としてふさわしいのは何か。原発事故や水俣病は、多くの人にとって身近ではないため、他人事になってしまう。他方、食や農を切り口にすると、生活に深く関わることなので、自分事として考えられる。そこでパンづくりを通して自然と関わり、私たちの生活について見直してきたタルマーリーのお二人を招いてトークイベントを行うことにした。
斎藤さんは以前に一度、渡邉さんご夫妻と対談をしたことがある。斎藤さん自身、大きくなりすぎた経済、資本主義の問題と環境に関心をもち、大量生産・大量消費から抜け出す道を考えている。マルクスも含め、西洋の思想は、環境問題を合理的に解決しようとする。すなわち、税金を課したり法律を作ったりして制度を作ることで自然を制御・管理しようという発想をもっている。菌から世界を考えるタルマーリーは、そうした西洋的な枠組みとは異なるオルタナティブを提示している点が興味深いという。
さて、以上の導入の後、まずタルマーリーのお二人にご自身の活動について話していただいた。二人は現在、鳥取県智頭町という人口6400人、森林が94%で、平地もあまりない、高齢化率44%、昨年生まれた子どもの数がわずか20人の過疎の町である。廃園になった保育園の一つを借りて、発酵食品であるパンとビールと、ピザを作って提供するカフェを経営している。二人とも東京出身で、発酵食品を作る職人として生きてきた。最初は、千葉県のいすみ市という海辺の町でパン屋を開業。当時からオリジナリティを追求し、おいしいかどうかよりも、菌を使って面白いものを作ろうというのをモットーに、空気中から菌を採取する昔ながらの製法にこだわってきた。すると、菌が環境のバロメーターであることが分かってくる。空気が悪いとそれを正常化するための菌が増えて、酵母菌がとれず、パンが作れなくなる。そこで震災を機に、より環境の良いところを求めて岡山県真庭市に移転し、その後さらに鳥取の智頭町へやってきた。智頭に来てからはビールも作り、カフェも営業しており、農産物やジビエも地元のものを使っている。
そもそもなぜ二人はパン作りを始めたのか。もともと二人とも田舎で食料を作るような生活を望んでいたが、何をするのか悩んでいた。するとある日、格さんの夢におじいさんが現れ、「お前はパンを作れ」というお告げがあり、パン屋になることになったという、ウソのような本当の話らしい。そして、菌も含めてその地域で生み出される素材を利用してパンを作りたいと考えたのだが、それは生易しいことではなかった。
試行錯誤するなかで分かったのは、まず菌の発酵だけでも、きれいな自然環境、自然栽培(農薬も肥料も使わない)の農産物、さらに健全な心身という三つの条件が不可欠だということである。周りで農薬を散布されたり、運動会でたくさん車が集まったり、スタッフの心身の状態が悪いと、それだけで余計な菌が混ざって腐敗し、麹菌がうまくとれなくなる。
菌を発酵させる米は、無農薬のみならず“無肥料”でなければならず、それを農家の人に協力してもらわないといけない。このように自然環境のいいところで作ればいいだけでなく、周りの人たちと一緒にやっていかないといけない。パン作りだけでなく、衣食住全般にわたって、化学物質(合成洗剤、化粧品、漂白剤、除菌スプレー、殺虫剤、新建材、医薬品)をできるだけ使わないシンプルで自然な暮らしをする必要がある。
菌は、自然の状態に近い環境で育てると発酵する力も強くて死なないが、逆に周囲の環境から切り離して純粋培養に近づけるほど弱くて育たない。このように菌を育てていると、周囲の環境と関わっていることを実感し、「菌の声を聴く」ようになる。そして菌を管理したり操作したりするのではなく、菌がうまく発酵する条件を整えることを心掛けるようになったという。それがひいては近隣で林業や農業を営んでいる人から薪や食材を購入したり、地域の農家で作った小麦を自分のところで挽いたりして、地域の経済を循環させることにもつながる。また工房じたいも、週休2日、勤務時間も短くして、有給休暇も冬に1ヶ月、社員寮と賄いつきにするなど、労働環境を整えるようにしている。こうして、パンを作るためにはいい菌をとって育てなければならず、そのためには周囲の生活環境も守っていかなければならず、それが町おこしにもつながる。
以上が、タルマーリーのこれまでであるが、続いて近況報告があった。なんと、智頭町に来てから旧保育園でずっとやってきた店を閉め、町の中心部に近いところに店を移し、さらにパン工房も移す計画とのこと。近隣でホテル建設の工事のため環境が悪化し、麹菌がとれず、地下水もまずくなったからだという。本にはここに至る感動的なストーリーが書かれていただけに残念である。しかも格さんは、すでにパンづくりは弟子に任せて、自分はビールづくりに専念していたが、今度はそのビールまで弟子に任せて、自分は職人をやめると言い出す。あまりにもショッキングな報告に唖然としたのは、私だけではなかったと思う。しかしある意味、自然と共にパンを作るタルマーリーならではの展開なのかもしれない。
ここからは私たちや参加者の間でディスカッションを行った。
まず斎藤さんがタルマーリーの視点からコロナ禍をどのように捉えるかという問いかけがあった。菌については、管理・操作せずに育てるのはいいが、ウィルスのような人間にとって有害なものに対して、ワクチンや消毒などによってコントロールせざるをえない。そのような社会のあり方についてどう思うか――この問いかけに対して、渡邉さんはパンづくりと同じ姿勢を強調した。すなわち、菌と同様、隔離されたり切り取られたりした状態での対応を現実の生活まで広げるのではなく、科学的な知見・技術はできるだけ取り入れつつも、大きな時間軸・空間軸で経験を通して試行錯誤し、そこから導き出した経験則を大事にしているという。例えば、子育てについても、子どもも病気にかかったほうが体も丈夫になるから、何が何でも病気にならないようにしないといけないわけではない。人間はいろんなウィルスや菌と共存して生きているのであって、特定のウィルスだけを攻撃するのはおかしいし、すべてを敵として否定することはできない。ウィルスを殺菌するために、いい菌も全部殺してしまうのは間違っていると思ったので、渡邉さんたちは消毒も何もせずに過ごしていたそうだ。それに、人が密集する都会では都会のやり方があるかもしれないが、人の少ない智頭には智頭のやり方があって当然で、環境全体を考えるという点でもパンづくりと変わらないという。
続けて斎藤さんは尋ねた。『菌の声を聴け』(渡邉さん夫妻の2冊目の本)と言われても、都会で暮らしている人にとって、そんな考え方、生き方はなかなか実践できないと思うが、どういう含意があるのか――渡邉さんによれば、ちゃんと菌が関わって循環している食べ物を食べれば、腸内細菌の環境もよくなり、自己肯定感も高まるらしい。逆に体に悪いものを食べると、それを排出するために余計にエネルギーを使い、そうすると思考のために使うエネルギーが減って、何でも白黒つけるような単純な思考になっているのではないか、とのこと。そうならないためにも、菌によって炭素循環がうまくいくような食生活をしたほうがいい。人間がすべて管理するのではなく、菌や自然にゆだね、味わう食のあり方を心掛ける。自分の頭で考えたことが常に正しいとは限らず、経験的には菌の言うことが正しい場合が多い。子育ても子どもの体の言うことを聴いたほうがいい。それと同じように、あまり頭で考えるのではなく、自分の体の声を聴く、理屈でいいかどうかではなく、体にいいかどうかで判断し、病気もケガも今の生活を見直せというサインだと受け取る――こうしたことは都会の人でもできるのではないか、とお話しになった。
ただ、よく言われるように、自然や体に優しいものを食べたり使ったりする生活は、経済的に豊かでない人には難しく、金持ちの道楽に見られがちである。そのような人たちでも、渡邉さんたちが言うことをどうすれば実感できるのかという疑問がさらに出された。それに対して渡邉さんは、そもそも食べ物は安くないといけないという前提がおかしいと言う。サラリーマンは給与が上がるのに、農家の収入が増えないのは当たり前ではなく、農家の人たちも技術と品質を上げているわけだから、収入が上がるような経済の仕組みを作ればいい。若い人がいいものを食べるお金がないなら国や企業が出せばいい。つまりこれは、仕方がないことではなく、政策や政治の問題なのである。
とはいえ、斎藤さんによれば、それ以前に、生活に必要な様々なものが劣化していて、感性も劣化しているように見える。だからタルマーリーのパンを食べたいとすら思わず、コンビニで売っているものでいいと思っている。家庭でも時短料理がもてはやされ、外食ではファーストフードが好まれる。これも資本主義の行きすぎだろう。そこで、自然のおいしいものを食べたら病気が治ったとか元気になったというのは、感性がどうとかいう哲学の言葉よりも説得力があっていい。
そう斎藤さんが言ったことに対して、渡邉さんは、「おいしい」というのを多くの人が自分の感覚だと思っているが、実はそうではなく、テレビや広告に誘導されていると言った。それに原材料の供給元が限定されているので、細かい違いを除けば、みんな同じ味になっている。つまり資本主義というのは、差異化をして競争しているようで、実はそれとは逆に一元的な方へ行っていると言う。重要なのは、多様な価値を生み出すことで、そのためには、各々の人が、食べ物でなくても、どんな小さなことでもいいから、一から価値を作る必要がある、と渡邉さんは語った。それは都市でもできるはずで、そうして初めて資本主義を正当に批判できる、と。
内容的には、おおむね以上のようなことだが、会場では、渡邉格さんのユニークな人柄、破天荒な発言、それに突っ込みを入れる麻里子さんとの掛け合いで、笑いの絶えないイベントであった(それが上の報告ではまったく伝えられていないのが悔しい)。会場には15名ほど関係者がいて、オンラインには90人ほどが参加していた。参加者からの質問の多く、結局休憩もなく3時間半ほどがあっという間に過ぎた。その後は、渋谷ヒカリエにあるd47食堂という、タルマーリーのパンとビールがいただけるレストランに行って懇親会を行った。ここでもまた笑いっぱなしの時間であった。
斎藤さんが言うように、地球規模の危機に対処したり、社会全体を変えるには、人間が強い主体性を発揮し、政治や経済の仕組みを変えていかなければならないだろう。タルマーリーの挑戦はささやかな試みで、社会全体を変えることはできないだろうが、それでもオルタナティブとなりうる生き方や考え方を提示することができる。長い目で見れば、そのほうが重要なのではないかと、私自身も思う。今回は駒場での対談イベントであったが、次はタルマーリーのある智頭町へ行って、周囲の自然環境や地域の農林業も見つつ、あらためて対談をしたい。