【報告】「Remember US ~ 月の彼方の誰かについてアーティストと考える~」イベント報告
アートは作品を通して問いを築き、哲学対話は対話を通して新たな問いを築く。
感覚を通して問う学問と対話や言葉を通して問いを立てる学問。この二つの領域を混ぜてみたらどんなことが起きるか? 今回はその第1回のイベントとなりました。
ゲストは「元ひきこもりの現代美術家」渡辺篤さん。2009年に東京藝術大学大学院を修了後、足掛け3年にわたるひきこもりを経験。在学中から社会の中でタブーや穢れとして扱われかねない問題や存在を扱ってきた。近年はひきこもりをはじめとする孤立当事者たちとの協働を通じて「アイムヒアプロジェクト」として顕在化させている。その代表作とも言えるのが「同じ月をみた日」。
ひきこもりやコロナ禍に孤立/孤独を抱く人たちが、各自の居場所で撮影した月の写真を募集し、自分の孤独やここにいない誰かに眼差しを向けるプロジェクト。月の写真を使用したインスタレーションは、数多くの芸術祭や展覧会で展示されてきました。
中には、クローズアップで写された月の写真を約70枚を「月齢順」に並び替え映像化させた作品などがあります。
渡辺 篤ウェブサイト https://www.atsushi-watanabe.jp/
プロジェクト「同じ月をみた日」 http://www.moon-alone.online/onaji-tsuki/
8月下旬残暑が残る中、このイベントをどう作っていくか渡辺さんとの作戦会議を始めました。「月をもってきたらどうだろう」「皆既月食の日にやったらおもしろいですね」などとアイデアを交わしながら、実際に渡辺さんのインスタレーションに囲まれながら対話をしようと決めました。作品を囲んで哲学対話を交わす新たな形態の哲学対話。初の挑みで緊張もしつつ皆楽しみを隠せませんでした。
<会場の様子>
そして11月8日午後6時に20名ほどが月のインスタレーションを囲み、イベントはゆっくりと始まりました。
まず最初に渡辺さんの活動の始まりや作品作りに対する思いや見解をお話いただきました。
経験や関わりがない方は、ひきこもりなどがテーマの作品だと聞くと自分とは遠い世界の問題だと思う方も少なくないはずです。しかし、プロジェクト「同じ月を見た日」の始まりは2020年4月7日に発出された緊急事態宣言の日。この記事を読んでいる皆さんと近いところにある。偶然にもその日は月が地球に最も近づくスーパームーンの日だったのだ。
渡辺さんがいつも口にし作品作りで大切にしている「ここにいない人を思う」こと。
それを実感した時にどう他者同士が繋がれるかを渡辺さんは探っている。SNSやサイトを通じて「月の写真を送ってください」と、実際に対面することが困難な人たちと間接的に協働を行う。
この日も同様に、プロジェクトのメンバーたちもオンラインで参加し、チャットを通じて対話できるように図りました。また、皆既月食にちなんで、参加者のみなさんにもそれぞれの場所から月の写真を撮ってもらい、それらはプロジェクトのページに、後日作品に掲載される仕組み。
今回は二つの作品がイベントを飾りました。会場中央には大きな円形スクリーンに月が投影された映像インスタレーション。一見静止画にも見えるが、よく見るとゆっくりと変化している。国内外の参加メンバーたちがそれぞれの場所から撮った月の写真をつなぎ合わせてできている動画だ。その横には観音開きのライトボックスから光るいくつもの小さい月。どれも、ここにいない誰かが見ている月だ。
数多くの現場で展示をしてきた渡辺さん。側から見たらその現場はより華やかになり、「売れっ子」の仲間入りをしているとも言える渡辺さん。
しかし過去に社会的離脱を経験した渡辺さんだからこそ、この現状をとても冷静で俯瞰した目で見ていました。そこにいない・社会と関わりづらい人たちを忘れない。
<国際芸術祭「あいち2022」(愛知芸術文化センター)での「同じ月を見た日」|撮影: 紀 烈輝>
<「瀬戸内国際芸術祭2022」(香川県高松市、屋島山上)での「同じ月を見た日」|撮影: 宮脇慎太郎 >
今年は、国際芸術祭「あいち2022」と「瀬戸内国際芸術際2022」で、同時期に「同じ月を見た日」を展示した渡辺さん。その際、<愛知芸術文化センター>と<香川県の屋外>という、在り方が異なる2つの場所での別の芸術祭において、オーディエンスの作品に対する受け取り方とリアクションが全く違ったと言う。愛知での芸術祭は、日頃からアートに触れる機会の多い人々が訪れる愛知県
美術館が入るセンターに作品を設置した。一方、瀬戸内での芸術祭は、地元のカップルやヤンキーが夜景を観に訪れる観光地に作品が設置された。両方とも作品解説が設置してある。しかし、愛知では作品のコンテクストが丁寧に理解される傾向があり、瀬戸内では単なる綺麗なオブジェとして消費され、”インスタ映え”に利用されてしまう傾向があった。作品解説をしすぎても頭でっかちだけの理解になるし、解説を最小限にしても「もの」としか見られない。なかなか社会的な作品の伝え方のバランスは難しい。
「月が綺麗ですね」という言葉があるほど月ってどこかみんな見つめてしまう魅力がある。月をみれば何かを誰かを思うはず、そんなこともないのか?どうやったら同じ月を見ているそこにいない人がつながることができるのか?
少し休憩を挟み、参加者にこれまでの話からの問いを集めてみる。
さまざまな問いが出た。
・社会的離脱の行き着く先はやはり負の方向なのか?
・同じ月を見るプロジェクトが、孤独をより実感してしまう危険性はないか?
・どうして美しいものを見ると写真を撮るのか。別に綺麗に撮れるわけでもないし、ほとんどは見返さないのに。
・自発的孤独/孤立は本当に自発的なのでしょうか?もしそうであれば、そもそも社会と繋ぐ必要が無いのでは?
このような問いをいくつかピックアップし、発言をする人は球体のランプを持って話す。
その一つ一つに答える渡辺さんもランプを受け取り、自分自身の活動を自問自答しながら答えている姿勢がとても印象的だった。そしてまたコメントや問いがある人にランプを渡し対話を1時間ほど続けていった。
人が繋がるということは自然となるものではなくかなり意識をしてやらなければできない。端末先で繋がっているとはいえ、そこで相手の存在を思えるか、想像できるかにあるのではないかと思う。それは離れるからこそ初めてできることなのかもしれない。
イベントの最後には会場のみんなで外に出てみんなで既月食中の月をそこにいない人たちと共に一緒にみた。みんなそれぞれ何を思ったのか。そんな問いを残しながらイベントは幕を閉じました。(文:ライラ)
渡辺篤さんによるコメント
…私は今年、国内で開催された、異なる主催者による2つの国際芸術祭に参加することになり、どちらにもコロナ禍の孤立/孤独当事者と協働を行ったプロジェクト型の同じ作品を展示することになった。同時期に同じ作品を別の場所で見てもらうという珍しい機会があり、様々な問いや気づきも得ることができた。
私が参加したのは、“コンセプチュアルな要素が多いとされる現代アートの現在を紹介する都市型の芸術祭”と、“地方の観光にアートを活用することを主題とする芸術祭”。前者ではさまざまなアートの在り方を丁寧に読解する空気に恵まれたが、後者では作品がInstagramでバズったりもし、作品の背景や意味よりも視覚性のみが消費されてしまった感覚がある。ここに居ない人たちが撮影した月の写真でできた作品群が、ここに来られる人たちによって消費されることで、残念ながら彼らの存在は二重に居なかったことにされたように感じて、とても心が痛んだ。
背後には、アート作品を観光資源とした場合に、文脈や意味を軽視し、物質性や視覚性ばかりを優先させてしまう空気や運営姿勢を、ある種の芸術祭や展覧会は持っているからとも言える。「幻想的です」「ロマンティックでした」などの賛辞が多くのInstagramの投稿には添えられていたが、しかしそうした疑いを持たないポジティブな姿勢こそが、反転して見えづらい人々の存在に気がつく機会を手放してもいる。「ハレ」の意識は、反転して誰かを「ハライ落とし」ていることになっている気がする。
今回の哲学対話ではこのような問題提起をさせていただきました。当日、参加してくれた方々(姿の見える場所からも、姿が見えない場所からも)、みなさま積極的な発言を頂きありがとうございました。
<11/8 皆既月食中に渡辺さんが専用のカメラで撮った写真>
主催:
東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)上廣共生哲学講座