Blog / ブログ

 

梶谷真司 邂逅の記録125 水俣で生きること、水俣へ行くこと

2022.08.19 梶谷真司

 2022年6月25日から27日、出張イベントで水俣を訪れた。もともと2月に予定していたのが、コロナウィルスの感染拡大のため、延期となっていた。ゲストにお呼びしたのは、永野三智さんと伊藤悠子さん。永野さんは、水俣病に苦しむ人たちの相談に乗り、関連資料を編纂・保存し、啓発活動を行う相思社の職員である。伊藤さんは、大阪の西成で看護師として働きながら、子どもを虐待する母親のサポートをしてきた。二人をお迎えして「痛む人々のこえを聴く」と題し、苦しむ人をどのように受け止めればいいのかについて共に考えるイベントであった。

 企画した中里晋三君と私だけでなく、助教の山田理絵さんと研究員の宮田晃碩君、事務職員の秋場智子さんも同行した。他にも、東アジア藝文書院(EAA)の張政遠先生と学生の建部良平君も参加した。旅程とイベントの詳細については、研究員による報告に譲るとして、以下では私が滞在中とその後に思ったことを綴ることにする。

 私たちの水俣訪問は、熊本空港を発つ時ににわかに降り出した大粒の豪雨で始まった。市内に入る前に、湯の鶴温泉という石牟礼道子にもゆかりのある温泉地で一休みを目論んでいた私たちにとっては、文字通り洗礼のようだった。どうなることかと思ったが、おかげでこの地の濃密な緑が潤い、生命の強靭さを感じることができた。

%E6%B9%AF%E3%81%AE%E9%B6%B4%E6%B8%A9%E6%B3%89.jpg

 さて、地元の人も入浴に来る温泉に行く。風呂場に入り、浴槽に近づくと、おじいさんから
「どこから来たと?」と質問された。
「東京です」と答えると、
「水俣病かね?」とさらに聞かれた。
「はい、そうです」と答える。
 東京から来る人間は、水俣病以外でこんなところには来ないだろう。地元の人が抱くステレオタイプのイメージがそのまま自分たちにも当てはまる。こちらの軽薄さを見透かされた気がした。水俣=水俣病の町だから来た。それ以外の理由はなかった。だが、そんなことで来るのを地元の人が喜ぶはずはない。何と失礼なことをしているのか。別にこの老人は、怒っているわけでもバカにしているわけでもないだろう。むしろ穏やかに微笑んでいる。それだけにいっそう申し訳なさと気まずさを感じた。
 この複雑な感情は、水俣に滞在している間に、さらにこじれていく。
 市内に入って意外だったのは、地方都市にありがちな寂れた感じがあまりないということだ。思いのほか栄えていると言ってもいい。「意外」とか「思いのほか」という言葉がふいに出てきたのは、地方都市の中でも、水俣のようなネガティブなイメージの強い町は、なおさら人が離れ、すたれていくと、どこかで思っていたからだろう。それに、水俣から出ていき、水俣出身であることを隠して生きている人も多いと本でも読んだ。しかし水俣には住み続けている人も多く、町もそれなりに豊かな印象を受けた。
 おそらくその一因は、公害を引き起こした張本人であるチッソの存在感だろう。この企業は、以前と変わることなく町の中心部に“君臨”している。現在チッソじたいは国の管理下にあり、水俣病関連の補償と公的借入金の返済を専業としているらしいが、化学工業部門はJNC(Japan New Chisso)が引きつぎ、水俣工場の操業を続けている。
 町の中には、チッソを批判するようなプラカードや看板は見かけなかった。それどころか、チッソの門には「テロ警戒中」と書かれた看板が掲げられている。ここで言う「テロ」とは、被害者による抗議活動のことだろうか。だとしたら、いったいどこから目線で物を言っているのか。自分たちのことは棚に上げて、責任を感じるどころか、むしろ正義の味方だとでも言わんばかりだ。

%E3%83%81%E3%83%83%E3%82%BD%E9%96%80.jpg

 さらに象徴的なのが、エコパークである。いわゆる「爆心地」となった工場の排水口から水俣湾に至る東京ドーム13個分の広大な公園である。バラ園、竹林園、道の駅があり、「まなびの丘」には、 水俣病資料館、水俣病情報センター、熊本県情報センターといった、「環境先進都市水俣」を具現する施設がある。
 漁業ができなくなった海をチッソが買い取り、水俣病の原因物質であるメチル水銀を含むヘドロや汚染された魚をドラム缶に詰めて、鋼板で覆って埋め立てて造った。1977年から1990年まで13年間かけて。耐用年数は50年と言われている。地震や老朽化によって有害物質が海中や地表に漏れ出す可能性があるが、熊本県も環境省もとくに対策が必要だとは考えていないらしい。つまり、エコパークは、その下に水俣病を引き起こした毒物とそれによって死んだ魚を時限爆弾のように抱えた施設なのである。
 不知火海を臨む海岸沿いの広場には、水俣病の慰霊碑がある。犠牲者の一部の名前が刻まれ、石碑には「不知火の海に在あるすべての御霊よ 二度とこの悲劇は繰り返しません 安らかにお眠りください」とある。広島の原爆慰霊碑にある「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」を彷彿とさせる、責任の所在を曖昧にした言葉。その後ろにはお決まりのように、中高生が作った千羽鶴が吊り下げられ、よりよい世界を作る誓いの言葉が書かれている。

%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91.jpg

 責任がチッソと国と県にあることは明白なのに、「みんなで反省しよう」ということにして、しまいには子どもにまでそれを押し付ける。いったい誰が、どこから目線で、こんなことをしているのか。
 さらにエコパークは、もっと積極的にポジティブなイメージを印象づける。慰霊碑から歩いていくと、大きなハート形のオブジェが見える。「恋人の聖地」の碑である。プレートには、ウェディングドレスデザイナーの桂由美の名前。NPO法人地域活性化支援センターが少子化対策と地域活性化を目的とした事業で、若者の恋愛と結婚を促すため、プロポーズにふさわしいロマンティックな観光スポットにしようという趣旨らしい。たしかに美しい景色の広がる海辺のロケーションには、恋人たちが歩き語らう姿がよく似合うだろう。

%E6%81%8B%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%81%96%E5%9C%B0.jpg

 悪い冗談でも見ているのだろうか。こうして過去の悲劇をドラム缶に詰めて文字通り覆い隠し、エコロジー、少子化対策、恋愛まで動員して負のイメージを払拭する。そのすべてがチッソと行政の整備した公園で行われ、町の観光名所、地域おこしの拠点となる。これもまたチッソと行政のおかげということなのだろうか。
 きれいに整備されたエコパークを歩き、どこまでも美しく、穏やかに凪ぐ不知火の海を眺めながら、その裏に透けて見える不条理を思う時、目眩を覚えずにはいられない。やり場のない怒りが湧いてくる。
 だが、これ以外にどうすればよいと言うのか。水俣病の時代を経験した人たちは、病の犠牲になったかどうかに関わらず、けっして癒されることのない傷を負っている。差別や偏見、沈黙や分断、抑圧や忍耐によって被害の一端を担ったという罪悪感が、すべての人を当事者にしているからである。
 けれども彼らがずっと十字架を背負い続ける必要はないだろう。まして今を生きる若者たちには、何の罪もない。ただ、水俣に生まれただけである。誰もが束の間であれ、水俣病から目をそらし、忘れて生きる権利がある。エコパークがそれに少しでも役立つなら、むしろ歓迎すべきことなのかもしれない。
 そもそも誰がどのように隠し、ごまかしても、水俣の人たちの目の前から、水俣病が消えることはない。町の中にいると、コンビニで、喫茶店で、路上で、歩行や発語に困難を抱える人を普通に見かける。水俣病は、いまだ日常の風景の一部なのだ。
 また、水俣湾に隣接する袋湾では、被害の調査すら行われていないらしく、何の措置もとられていない。そこに住む人たちは、生業だった漁業を捨て、港のすぐ後ろに迫る山の斜面に柑橘類を植え、農業を始めた。そこで病を抱えながら生活し、自分たちのためだけに魚をとっている。
港で会ったおじいさんは自分の人生を振り返りながら、障害を負っても特別支援ではない、普通の学校に通えてよかったと述懐した。そして「自分でとって食べる魚に比べれば、市場の魚なんて食えたもんじゃない」と自慢げに語っていた。

%E8%A2%8B%E6%B9%BE%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%99.jpg

 水俣で生きるというのは、たぶんこういうことなのだろう。当たり前のことだが、彼らは全部分かっていて、それを受け止めて生きている。それが悟りにも似た諦念なのか、すべてを受け入れる覚悟なのか、それともそこで暮らしてきたことで習い性となった心持ちなのか、私には分からない。
 私のような部外者が不条理さに憤るなど、何と薄っぺらく、滑稽なことだろう。
滑稽と言えば、もう一つある。
 湯の鶴温泉で地元のおじいさんから「何しに来たか」と質問されたことについて、永野さんに聞いた。
 「石牟礼道子に興味があって来たって言えば、もう少し印象は良かったですか」
 永野さんはきっぱりと、「いえ、もっと悪いかもしれないですね」と答えた。そうか。地元の多くの人たちにとっては、石牟礼など、どんなに優れた文学的才能があったとしても、地元の恥をさらして称賛された不謹慎な女にすぎないのかもしれない。彼女を褒めそやして水俣を分かったかのように語るのは、外部のインテリのおめでたい不遜さにすぎないのだろう。
 だったら、私たちはどのような理由でここに来たらいいのだろうか。水俣病が水俣の歴史の欠くことのできない一部だとしても、水俣はたしかに水俣病の町ではない。人々が生きる町である。
だが、水俣で生きるとはどういうことなのか。何があっても一つの場所にとどまり、暮らし続けるとは、どういうことなのか。そこを訪れるとは、何をしに行くことなのか。
 水俣に行って以来、いろんな疑問がぐちゃぐちゃに絡まって、胸の奥に引っかかっている。似たような問題が、いたるところにあるような気がする。それが何なのか、何度か水俣に来れば、答えの手がかりが見つかるのかもしれない。

%E3%82%A4%E3%83%98%E3%82%99%E3%83%B3%E3%83%88%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 梶谷真司 邂逅の記録125 水俣で生きること、水俣へ行くこと
↑ページの先頭へ