【報告】多田夏希 国際哲学オリンピック・リスボン大会に参加して
はじめまして。この度第30回国際哲学オリンピック(IPO)に日本代表として参加させていただきました洗足学園高等学校2年の多田夏希です。
今大会は3年ぶりに対面で開催され、ポルトガルのアルマダ川を挟んだリスボンとアルマダに、4日間に渡って40か国以上の国から高校生が集いました。
日本代表団は新型コロナウイルスによる渡航制限により当初はポルトガルに渡航できるかが分からなかったのですが、出発までにポルトガルの渡航制限が緩和されたことに加えて、何より国際哲学オリンピック日本組織委員会の先生方(梶谷先生・榊原先生・林先生の御三方)と上廣倫理財団の方々のご尽力のおかげでこのような貴重な経験をさせていただくことができました。この場を借りて感謝申し上げます。
私の16年間の人生の中で最も刺激的だった4日間について、日本代表として参加させていただいたことへの当然の努めとしてだけでなく、私の人生を変えた数々の思い出をそれらがぼんやりとした記憶にならないうちに留めておく場所として、この報告を執筆したいと思います。
まず初めに、私がIPOに日本代表として出場させていただけることになった経緯について少し触れたいと思います。私は今でも大して哲学の知識があるわけではないのですが、昔から世界や自分とは何かについて考えるのは好きでした。何かモヤモヤすることがあっても悩むことしか知らなかった以前の私にとって、根本的な問いから広い世界について知を広げていく哲学的な経験は真新しく感じられました。今でも哲学をしていると自分の中の経験と経験が線で結ばれるような嬉しさを感じると同時に迷路に入ったような気持ちになりながら、自分の中の問いを(ときにはエッセイの形で)整理しています。
私は去年の夏に参加した「高校生のための哲学サマーキャンプ」で初めて哲学的な思考を学びました。今大会で世界各国の哲人たちと会話をして自分の哲学の知識の浅さを痛感させられましたが、すべての学問の根幹をなしている哲学をもっと学ぼうという前進への意欲になりました。
IPOでの出会いは例外なく刺激的だったのですが、ウクライナからバスで何時間もかけてリスボンまで来たクリスとの出会いは私に大きな衝撃を与えました。
数年後この報告を読んでくださっている方がいればそのときまでにはこの残虐な戦争は終結していることを切に願うばかりですが、2月から現在まで終戦の糸口が見えないロシアのウクライナ侵攻は私が生まれてから起きた戦争の中で最も「リアル」さがあるものです。こんなにもリアルタイムで侵略戦争が進んでいく様子を見るのは初めてのことです。
こんなに残酷なことが今起きていていいのかというどうしようもない疑問とそれについて何もできない自分の無力さを痛感する苦しみが、当事者であるクリスに出会って、さらにどうしようもなく感じられてしまいました。祖国が破壊されていくことに対する底知れぬ怒りや悲しみを感じているはずなのに、地図を見せながらウクライナの歴史について理路整然と語ってくれる彼女を見て、本当に強い人だなあと感心すると同時に、戦争が彼女やウクライナの人々から奪ったものをどうして私の手でもとに戻せるだろうか、と日本で平和ボケをしていた自分を憎むことしかできませんでした。
それとも、クリスは、自分の文化が破壊されていくのを感じるからこそ、自国の歴史を誰かに話すように突き動かされていたのかもしれません。世界中から集った仲間に、ウクライナの歴史を話すことで自国の文化の存在を確かめていたのかもしれません。この戦争が一刻も早く終わり、再会できたら、もっとウクライナの文化について話をしてもらおうと思います。
また、自分の国の歴史をとても流暢に話すクリスを見て、私が日本の歴史を語れるほど知らないことがとても恥ずかしくなりました。歴史を学ぶ意味もろくに考えず、世界史のほうが楽しそうだという理由だけで世界史を選択したのも悔やまれます(もちろん世界史にも学ぶ意義はありますが)。国際社会の中で日本人というアイデンティティを誇るためには、自分の国を形成してきた歴史を知っておく必要があることを痛感させられたという意味でも、今大会はこれからの私の決断に大いに影響を与えるでしょう。
そして今回の旅でもう一つ私の人生を変えた出会いを挙げるとすれば、それは引率をしてくださった梶谷先生と榊原先生です。去年の8月に開催された「高校生のための哲学サマーキャンプ」から今大会に至るまでのエッセイ指導・添削だけでなく、旅中に話したことや頂いた言葉は私にとって本当に大切なものです。お二人は私が今まで出会ってきたどんな先生とも違って、私の努力を結果ではなく過程をみて応援してくださり、世界中から来た精鋭たちに圧倒されていた私はそのことに本当に救われました。
「主体性」について話していたとき、私はやっと自分が閉じ込められていた檻の存在に気づいた気がします。日本の進学校のいくつかでは「主体性」を教育の主軸としています(私の学校ももれなくそうです)。でも、その主体性とは、辞書通りの「自分の意志や判断に基づき行動すること」なのでしょうか。おそらく違います。学校で求められる主体性とは「先生がやってほしいことを率先してやってくれること」なのだと思います。「制服を変えたい」と言ったら現実的ではないと却下されるのに、「課外活動を通して世界を変えたい」と言ったら応援されるのです。どちらも変化を生み出そうとしている点では同じであり、むしろ世界を変えることのほうがより曖昧で現実的ではないのに、どうして「応援される主体性」と「つぶされる主体性」があるのでしょう。他の誰のためでもなく自分のためだけに行動できるようになるには、私はもう少し考えと経験を積む必要がありそうです。
終盤に差し掛かってしまいましたが、本大会についてもう少し報告したいと思います。1日目の夜に開会式が行われ、2日目の午前中にはエッセイライティングをしました。2日目の午後と3日目には講演を聞いたり、リスボンの街を観光したりして、4日目の閉会式を経て今大会は終了しました。
エッセイライティングでは、4つの課題文が与えられ、その中から1つを選び、母国語でない言語でエッセイを執筆します。
私が選んだ課題文は以下のものです。
Many people today would agree that there is no such thing as collective guilt or, for that matter, collective innocence, and that if there were, no one person could ever be guilty or innocent. This, of course, is not to deny that there is such a thing as political responsibility which, however, exists quite apart from what the individual member of the group has done and therefore can neither be judged in moral terms nor be brought before a criminal court.
日本語に意訳すると、
集団的犯罪、さらに言うなら、集団的無実など存在しないということ、そしてもし存在するとしたら、誰一人も有罪または無罪になることはできないということに今日の多くの人が同意するだろう。これは、もちろん、政治的責任などがあるということを否定するためではない。とはいえ、政治的責任はある集団の一員がしたことからはなかなか離れて存在しており、したがってそれに道徳的に判決を下したり、それを刑事裁判所にもちこんだりできないのである。
などとなるでしょうか。
集団の一人が犯した罪に対して、その人が所属する集団は全体としてどれだけの責任を負うべきなのか、という集団的責任(連帯責任)に関する課題文です。私は「責任」という概念に着目して、「責任を負う」ということは「自分がしたことと同等のものを犠牲にすることを覚悟すること」だと分析し、負う責任がそれを犯した一人では償いきれないときに集団的責任は有効であると考えました。これをもとに、「ある団体はその構成員がしたことの責任を負うべきなのか」「あるコミュニティとその構成員の関係は集団的責任の有効性にどのような影響をもたらすのか」という問いを立てて、最終的には社会と個人の関係を二通りに場合分けしてそれぞれの場合の集団的責任の有効性について論じました。私にはどの課題文も解釈が難しかったため、どのような問いを立ててどのようなことを論じようかたくさん悩みました。少し方向性を変えればもっと良いエッセイが書けたのかもしれませんし、そもそもまだ世界に挑めるほどの実力がなかったのかもしれませんが、私は今の実力を出し切って4時間で1本のエッセイを書き上げられたことを誇りに思っています。この経験は困難に直面するたびに思い出し自分を奮い立たせるような、これからの私の人生の大きな柱となるようなものだと確信しています。
最後に、IPOでの最大の収穫は、哲学的な思考を深めることができただけでなく、一生のソウルメイトと呼べるような友達にたくさん出会えたことです。皆生まれ育った環境はバラバラなのに(むしろバラバラだからかもしれません)お互いを認める姿勢は共有されていて、一瞬にして自然と初対面の相手を「仲間」と呼んでしまえるような受容性がIPOの魅力であり、私が哲学を好きな理由です。皆で新しい例や論点を持ち寄り、議論を深めていく過程の楽しさを今回の大会では存分に味わうことができました。
改めて、この大会を実現させてくださった国際哲学オリンピック日本組織委員会の先生方、上廣倫理財団、そしてIPO 2022 Organizing Committeeの皆様、このような素晴らしい機会を恵んでくださり本当にありがとうございました。