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梶谷真司 邂逅の記録122 共にいること、共に生きること、共に創ること(2)

2022.04.19 梶谷真司

(続き)

まずデザイナーの服部滋樹さんに話をしてもらった。

 彼はgrafという一風変わった会社の代表である(https://www.graf-d3.com/)。家具やキッチン用品、文具、インテリア、グラフィックのデザイン、ショップ、カフェやレストラン、ギャラリーなどの総合デザイン、さらにはイベントの運営やブランディングディレクションも行い、近年では地域再生にも取り組んでいる。通底するコンセプトは、「ものづくり」を通して暮らしを豊かにするということ。もともとは美大で彫刻を学んでおり、その後インテリアショップやデザイン会社を経て、そこで知り合った仲間たちとgrafを立ち上げた。京都造形芸術大学で教鞭も取っている。
 今回のイベントで彼は自らのフィールドをCommunication Designと呼んでいるが、それが彼の活動の根底にあるマインドをよく表している。服部さんは、そもそもデザインとはどういうことなのか、そのフィロソフィーを15年ほど前から語ってきた。その背景にある問題意識は、とくに建築の分野で、それまで“箱”を作って中身を後で考えるような発想に対する違和感であった。それでは長く使われれる物にはならない。100年後でも残る建築を目指すなら、その土地の歴史、環境の中で人がどうやって生きていくのかを考えなければならない。そのためには、ハードの設計ではなく、ソフトの設計をして、そこからハードを生み出す必要があると考えたという。
 また当時はバブル期で、グローバルスタンダードという言葉が世の中を席捲していて、他方でそろそろローカルだろうという動きも出てきていた。Think global, act localではなく、Think local, act globalということで、Local Standardという言葉を思いついたらしい。バブル崩壊の以前と以後については、私と同様の感覚をもっていたという。デザインは元来、不便な世の中を便利にするということで、同じものを大量に生産してきたわけだが、バブルになって個性的なもの、世界にないものを作るようになった。それは社会の中にデザインを位置づけるというより、社会とは接点のないものを目指すようなもので、一緒に創る、協業という発想はなく、服部さんはそういう潮流にいら立ちをもっていた。
 ではデザインは何をすべきか。21世紀を前にして、上から下へ指示を出すような作り方ではなく、下から上げて水平方向に広げていくような作り方を目指すべきだと考えた。21世紀になって、実際にそうなってきたと語った。では実際にどのような方法でデザインするのか。基本的には、リサーチ→スタディ→アウトプットというステップを踏むわけだが、なかでもリサーチは調査→検証→編集→再構築と進んでいく。そのさい物を作るのに、地形、風土、伝承など、その土地に根差した理由を見出す。そこにある技術や物がなぜそこに生まれたのか。これから作るものがそこに住む人々の生活にとって、どのような意味をもち、どのように使われるのか。それを文献、インタビュー、フィールドレコーディング、フィールドワーク、インターネットなど、様々な仕方で調べ、考えていく。そうやって現在の状況から未来を想定し、問題を検証し、人々が10年、30年、100年後を想定して、どのように生きているかを考える。仮説と検証を繰り返し、アウトプットをする。
このようにデザインした実際の事例として、服部さんは瀬戸内芸術祭のときに小豆島で行った「カタチラボ」について話してくれた。それは、grafのメンバーとその他の仲間たちと一緒に、島外から見てこの島にしかないものを探り、新しいカタチを見つけるというプロジェクトであった。
https://www.graf-d3.com/project/theislandlab_bygraf_in_shodoshima/
 例えば、小豆島では特産のオリーブの葉で作ったお茶があったが、あまりおいしくなかった。そこで島でとれる様々な柑橘類と合わせることで、おいしいお茶を開発した。また、取材の時に聞いた方言を文字にすると、話の独特のニュアンスが失われることが分かり、方言のリズムを音階に変えて、それを木琴で表現してみた。すると、子どもたちがそれを弾きながら、おじいちゃん、おばあちゃんのしゃべる方言の練習をしていた。この方法は、世界中の言語の記録にも応用できるだろう。さらに小豆島の色を集めてみようということで、小豆島は石の産地なので、島内各地の石を採集し粉末にし、土も採取し、それをカラーチャートにしてみた。島の人たちも初めて小豆島にどのような色があるのか知り、その後小豆島の建物の色にも使われるようになったという。
 このような様々な活動の中で、服部さんはメンバーや地元の人たちと何度も対話を重ねた。そうすることで互いの間に協業感が生まれ、連帯感も生まれる。これが服部さんの考えるこれからのデザインの姿である。

次に水内智英さんが自分の活動について話してくれた。

 水内さんは美大でデザイン学を学んだ後、ロンドンでメタデザインを学んでいる。その後、英日のクリエイティブエージェンシー勤務を経て、名古屋芸術大学に着任。ソーシャルデザインに関する研究活動や実践的プロジェクトを行うほか、地域おこしを通したデザイン教育を行っている。
彼は、地球研のプロジェクトの研究会について、みんな固いことを言わず、気楽に話しつつ、でも本質的なことを議論しているのを見て、とても気持ちがよかったと回想してくれた。デザインをやっている人は、話すのが上手でない人が多く、そういう場がなかったので、新鮮だったという。また鞍田君と一緒に昭和村に行っていろんな人の話を聞くことで、デザインすることと生きることがどう関わるのか、共に創るとはどういうことかを体感的に学んだ気がするとのことだった。
 水内さんは、今回自分のフィールドをRelational Designとしているが、彼にとって、デザインとは、「関係の美学/技術」(Art of Relation)である。一般のデザインは、社会を外から観察して形を与えるような視点をもっていて、そこに自分が含まれておらず、外に立っているようなスタンスである。それに対して、彼は、自分自身が物事の一部になって参加し、共にいる、共に創るという意味でのデザインを目指している。そこで彼は、Tony Fryというデザイン思想家の次のような言葉を引用した――「デザイナーはデザインされた世界の中でデザインし、その世界はデザイナーによってデザインされた行為やモノのデザインによって到来する。もっと簡単に言えば、我々は世界をデザインし、世界は我々をデザインする、ということだ。」(『デフューチャリング』から)
つまり、デザイナーは神のような視点で物を作るのではなく、自分たちで作ってきたものによって自分たちが作り直され、さらにそれを作り直しているのであって、その循環が必要なのである。水内さんはまさにそのようなデザインを目指している。
 活動事例としては、彼が勤めている名古屋芸術大学で、服部さんとコラボで2012年から15年の間に行った「土と人のデザインプロジェクト」について話してくれた。そのときの問題意識は、芸術も結局縦割りで自分たちの領域だけに閉じこもっているが、外の世界ではいろんな人が関わってて、縦割りにはなっていない。大学も周囲とつながっておらず、学生も大学と駅と行き来するだけになっている。そこで地域と関わりながら進めるプロジェクトを学生とやってみようということで、服部さんに協力を求めたという。その最初が「ゼロから晩餐会をつくる」、すなわち地域にある物だけを使って晩餐会を開催するという課題であった。
 そのためには何をしなければいけないか? そもそも晩餐会とは何か?――まず地域にあるもの・ないものを調べる、椅子も机も、会場も、皿も招待状も、料理の素材も、音楽も、すべての素材を地域に求める。調べていくと、おいしい豆腐屋があることが分かる。農家でどんな野菜を作っているのか分かる。そこで畑を貸してもらって、育て方を教えてもらって、一緒に育てる。料理も教えてもらう。椅子も机も作るのに、材料を探していたら、銭湯に木材があることが分かる。それは近くの家の解体をした廃材で、地域の生活の痕跡が残っている。・・・そんなふうにして半年かけて準備をし、お世話になった人たちを招待するのが晩餐会となった。寄付してもらったビニールハウスを会場にして、一緒に育てた野菜を使った料理を食べてもらう。プロジェクトの記録映像を見てもらう。市民交響楽団の人にも来てもらって、演奏をしてもらう。
 そうやって地元の人たちと一緒に創った晩餐会について、『美術手帖』の副編集長、紫牟田信子さんからは「すごいみすぼらしいですよね。でもすごく豊かですね」と評されたという。それぞれの素材がどこから来たのか語れる、準備する過程で学生と地域の人、地域の人どうしの関係が生まれている。そういう豊かさがあるということだ。「土と人のデザインプロジェクト」は、その後「ここのひとと」「ゲストハウスをつくる」「地域と共に無人販売書をつくる」と、4年にわたって続き、それを通して地域との関係はさらに育っていった。
 他にも水内さんは、デザイナーの仲間たちと一緒に、高知県佐川町で行った「市井のプロダクトシリーズ」という活動について話してくれた――まちの中で職人さんたちによってモノが作られ、それがその土地の人に使われ、なじむことで、人々の生活は支えられ、豊かになっていた。そうしてものづくりの“こうば”もまちの風景の一部となってきた。時代の流れのなかでそのような文化が失われていく中、まちの職人たちと一緒にあらためてものづくりをすることで、まちでモノが作られていることの価値を問い直そう――これがこのプロジェクトの趣旨である。
 最初は誰と何をするのか決めずに、町のいろんな工場を訪ねて話をしているうちに、小原製瓦という瓦を作る職人さんとコラボすることになった。それで最終的には瓦のジュエリー(指輪、ネックレス)を作ったのだが、最初はどうするのか分かっていなかった。通常であれば、デザイナーが瓦でジュエリーを作りたいという企画を立てて、瓦の職人を探して依頼するわけだが、そのようなことはせず、まずは一緒にやりましょうという提案だけをする。お互い何をするのかよく分からないままスタートし、水内さんたちは見学して瓦の作り方を知るところから始める。いろいろ試行錯誤し、大きさ、形、厚みを変えたりして、何週間も一緒に作業をしたり飲み食いしているうちに、ジュエリーを作ったらどうかという話になる。
 そうやってデザイナーと職人が対等の関係で、アイデアを出して作っていったという。ただしそれは、両者が一致団結して一つのものを作り上げたという感じではなく、デザイナーの言う「いいよね」と職人が言う「いいよね」はズレているのだが、ものが間に入ることで、意見や立場の相違を表面化させずにゆるやかにまとめ、共にいられる環境を生み出しているのではないか、と言っていた。水内さんにとっては、このプロセス全体がデザインと言う行為なのである。

最後に鞍田崇君が話した。

 彼は私とプロジェクトを立ち上げる少し前から、環境問題に対して人文学的にアプローチする研究をしたかったという。それで自分のもともとの専門である哲学、当時興味を持ち始めていたデザイン、地球研で関わっていた地域社会を掛け合わせた形でやり始めていた。そのさいとくに気になっていたのは、環境問題では、都市のような中心で起きていることが周縁で問題を引き起こしていて、いわばstakeをもたないstakeholder、直接利害関係がない利害関係者がいることだった。言い換えれば、問題の当事者だと思っていないが、実際には当事者であるということをどのように捉え、それにどう向き合うかを考えたかった。そのためには、人文的な視点が重要であるが、同時に、人文学のあり方を考え直し、文献研究とは違うやり方を探したいと思っていた。
 言葉を中心とする哲学と物を中心とするデザインは、どちらも人間に関わるものであり、それを組み合わせることで何か見えてくるのではないか。実際デザインの世界には、原研哉のようにInformationに対するExformation、知っていることを未知化する、分からせるのでは分からなくさせる、答えを書くのではなく、問いを発するということを考えている人がいる。これは哲学で言われる無知の知に通じる。別の言い方をすれば、Noiseへの感性を磨く、通常無用なもののように扱われる雑音をうやむやにせず、拾って意味を見出していくことである。そうすることで上のような問題をstakeholderのような固い言葉ではなく、捉えられるのではないかと考えていた。それを哲学的に掘り下げるのに、Local standardとともにIntimacyという情動性を大事にしてきた。鞍田君にとって、昭和村での活動は、そのような文脈に位置づけられる。
 昭和村は、福島県の中でも奥深い山間部、奥会津にある。最初に行ったのは、地球研で焼き畑のプロジェクトに関わっていた時のこと。それ以前から民芸に興味をもっていたのもあって、そこでからむし(苧麻)に出会った。そして県外からからむしを織る技術を学ぶためにきた「織姫」と呼ばれる女性たちと知り合い、なかでも渡辺悦子さんと舟木由貴子さんというユニットの活動を取材したり映像化したりした。2021年には『からむしを績む』という本に出版した。
 また昭和村では、学生たちと一緒にフィールドワークをしたことも大きな意味があった。そこでは、言葉にする以前に体験の厚みを共有しつつ、まっさらな学生たちの新鮮な感性に刺激を受けた。赤坂憲雄は「外なる異文化ではなく、内なる異文化が大事」と言っていたが、昭和村で感じた空気とか雰囲気とか気配としか言いようのないものが、そういう異文化に出会わせてくれる。それを最近は一言でLifeと呼び、生活、人生、生命力などを包み込むものとして捉えている。だから今回のイベントの肩書では、自分のフィールドをPhilosophy of Lifeとしたという。
 最後に鞍田君は、私たちのプロジェクトの時代的な位置について話した――環境問題は、およそ20年周期で新たな段階に移っている。第1期Ecology1.0が1970年から1980年代で、1972年に「国連人間環境会議」(ストックホルム会議)があった。第2期Ecology2.0が1990年から2000年代で、1992年に「環境と開発に関する国際連合会議」(地球環境サミット)が開催された。そして第3期Ecology3.0が2010年から2020 年代で、2012年に「国際連合持続可能な開発会議」(RIO+20)が開かれた。つまり私たち4人は、第3期の初めに出会い、だいたいその中間の折り返しに来て再び集まったと言える。だから今までやってきたこと、今日話していることが2030年代以降どうするかにつながるといい――そう今後の期待を口にした。

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