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梶谷真司 邂逅の記録121 共にいること、共に生きること、共に創ること(1)

2022.04.19 梶谷真司

 私にとって今回のイベントは、この5年間続けてきた〈哲学×デザイン〉プロジェクトの中締めの総括(?)のような位置づけである。というのも、このプロジェクトは、登壇者の鞍田崇君、服部滋樹さん、水内智英さんの3人との出会いによって始まり、一区切りつけるなら彼らと話をしたいと思ったからである。そこで東京にいる鞍田君とは直接話をしようと思い、知り合いの人にも声かけして、対面とオンラインのハイブリッドで行った。当日は、私たち以外に18人の人が会場に来てくれた。

 冒頭、私のほうから〈哲学×デザイン〉プロジェクトの趣旨と立ち上げの経緯を話した。

〇プロジェクト立ち上げの経緯

 事の発端は、2012年に冬に、大学時代の後輩の鞍田君が駒場に訪ねてきたことである。彼は当時、京都の総合地球環境学研究所(通称“地球研”)にいて、理系中心のプロジェクトが多い中、人文系を軸としたプロジェクトを立ち上げたいと考えていた。そこで私がその少し前から哲学対話の活動をしていたことを知り、声をかけてくれたとのことだった。
 地球研にはユニークな制度があり、外部の研究者を代表にして、内部の研究者と連携して進めていく。そうやって内部だけで閉じずに外部と協力し、たえず新たな風を吹き込む仕組みをもっている。そして私が外部の代表者となり、鞍田君が内部のパートナーとしてプロジェクトを申請したところ採択され、2013年から3年間続けることになった。
 1年目はIS(Incubation Study)というスタートアップのプロジェクトで、テーマは「地域性と広域性の連関における環境問題~実生活への定位と哲学対話による共同研究」であった。2年目の2014年は FS(Feasibility Study)というステップアップしたプロジェクト「ローカル・スタンダードによる地域社会再生の実践と風土論の再構築」となった。2015年にはFR(Full Research)という正式な5年のプロジェクトに申請したが、不十分だとしてもう一年FSを続けることになり、タイトルは少し変えて「ローカル・スタンダードとは何か――地域社会変革のためのインクルーシヴ・アプローチの理論と実践」とした。4年目にもう一度FRに申請したが、やはり採択されず、地球研でのプロジェクトはこれで終了した。
 全体として目立った成果は出せなかったかもしれないが、そこで3年間議論し、考えたことから得たものは大きかった。そのうちとくに重要なポイントを挙げておこう。

1)環境問題に限らず、社会問題の多くは、原因と結果の間が離れすぎていて、自分がしていることが遠くでどのような影響を及ぼしているか意識できない。それゆえ、近くで起きていることと遠くで起きていることをどのように結びつけ、「自分事」として捉えられるようになるのかを考えなければならない(地域性と行為規制の連関の問題)。そのためのキーワードになったのが、2年目のタイトルに出てきた「ローカル・スタンダード」(新たにメンバーになった服部滋樹さんが、打ち合わせの時に発した言葉)である。これはローカルでありながら、より広い範囲で通用する普遍的な価値をもったものという意味で、これを地域で見出し、広い範囲で共有することが重要であり、それによって近くと遠くを結びつけられるのではないか。

2)都市と地方、先進国と途上国のような「中心」と「周縁」の関係は、中心に発言権と決定権が集中し、中心の利益のために周縁が犠牲にされる。環境問題の背景には、そうした経済的・政治的格差があって、結局は周縁に住む人の生活全体が脅かされる。言わば、環境問題は人権問題なのである。こうした中心と周縁の関係を是正し、両者のバランスを取るためには、周縁の共同体がそれに対抗しうるだけの発言権と決定権を獲得し、イニシアティヴを発揮できるようにしなければならない。

 物事を自分事として捉えることができれば、それに対して自ら積極的に関わり、自ら発言し、決定しようとする。自分の事を人に決めてもらったり、押し付けられたりするのではなく、自分のイニシアティヴでできるようになるだろう。だが言うは易し。どうすればそんなことができるのか。
そのヒントが哲学対話にある。哲学対話では、自らが問い、考え、語り、聞くことで、物事を自分事として捉えられる。哲学対話に参加して、偏差値が40を切る学校から国立大学や難関私立に進学した高校生や、地域活動から始めて区議会議員にまでなったお母さんがいる。また、いろんな人たちがお互いを尊重し、受け止めあう関係ができやすい。だから、学校ではクラス作りに役立ち、いじめがなくなったりする。職場では人間関係がよくなり、コミュニケーションが活発になる。地域コミュニティでは、いろんな世代や職業、立場の人たちが交流しやすいコミュニティができる。
 そしてもう一つのヒントがデザイン、とくにインクルーシヴデザインにあった。私自身、ユニバーサルデザインは知っていたが、インクルーシヴデザインは知らなかった。どちらも障害者のような一般には社会の周縁に置かれている人のためのデザインである。しかしユニバーサルデザインは、従来と同様、アウトプットである製品のデザインである。それが障害者を含む多様な人が使えるということである。他方、インクルーシヴデザインは、利用者に多様な人を想定しているだけでなく、生産のプロセスに障害者を含めた利用者が関わる。つまりそれは、アウトプットよりもそこに至るプロセスに重点を置いたデザインなのである。ユニバーサルデザインがDesign for Allと言われるのに対して、インクルーシヴデザインがDesign with Allと言われる所以である。
 インクルーシヴデザインが物を一緒に作っているのと同じように、哲学対話は思考を一緒に作っていると言っていい。そしてどちらも、普段は周縁に置かれがちな立場の弱い人でも一緒にいられ、積極的に関わることができるという点で、本質的に共通したものをもっている。だから「共にいること、共に生きること、共に創ること」のために、哲学とデザインが協働する大きな可能性を感じた。

〇哲学と芸術の対比から考えること

 プロジェクトを進めていく中で、私は哲学と芸術の違いを考えるようになった。この二つの分野は、80年代くらいまでは、いずれも生活に不必要なもので、物好きが趣味でやるものだった。世の中の役に立たないばかりか、役に立たないからこそいいのだとうそぶいていた。そうして社会的な価値観から自由に芸術家は新奇な表現を、哲学者は斬新な思想を求めた。どちらも目指したのは個性の発露であって、実際にそれでやっていけるのは一握りであったとしても、目指す先、あこがれの対象はそこにあった。
 けれども、社会的に見ればごく一部であったにせよ、こうした芸術や哲学の興隆もまた、実際には社会全体の経済的繁栄に支えられていたように思われる。90年代に入りバブルが崩壊し、不景気が世の中を覆うと、その華々しさは急速に陰り、様相は一変した。芸術も哲学も、“望みどおり”無用のものとなったのである。
 もっとも、どちらもそのまますたれたわけではない。私が思うに、芸術のほうは社会の中の様々なシーンで、いろんな人たち、とくに企業と一緒に物を作るようになっていった。90年代以降、家電製品、家具、日用品、衣料品のような身近なものに安価で洗練されたものが増え、多様化し、生活空間全体が審美的な意味で豊かになったように思う。また地域おこしにアートが関わり、あるいは企画や広報、とりわけインターネットでの発信などに関わるようになった。そこに共通しているのは「デザイン」である。芸術は、一人で個性を発揮するのではなく、デザインという分野で社会のいろんな人たちと協働し、積極的に貢献する道を選んだのだ。
 他方、哲学のほうでも社会にコミットする動きが出てきた。環境倫理、生命倫理、医療倫理など、応用倫理学の分野が90年代以降、急速に拡大したのは、芸術同様、無用の存在になりかねない危機感から社会の役に立とうとした哲学なりの反応だったのだろう。ところが哲学は社会の要請に答えつつ、「応用倫理」という自分自身のための固有の領域を新たに作り、対象からは距離をとって外から批判的に関わった。このように自分の立場を確保してそこから批判するスタンスは、90年代以前とさほど変わらない。様々な人たちと協働して何かを一緒に生み出すことはなかった(大阪大学の臨床哲学は例外である)。
 それはそれで一つの態度であろうが、その結果、医療やビジネスの現場からは、批判ばかりをする哲学は敬遠されるようになった。けれども、批判という仕方ではなく、一緒に関わり、一緒に創っていくことで、より問題が起きないように物事を進めていくという選択肢もあるはずだ。芸術は社会に関わって責任をとり、哲学は責任を回避したように私には映った。芸術のような関わり方もできるのではないか。社会の中で活動する様々な人たちと一緒に、時に泥をかぶる覚悟があってもいい。芸術は何か具体的に形ある物を生み出す。哲学は言葉と概念を生み出すことで、物事を形作る理念と方向性を与えることができる。社会をよりよいものにするには、今までとは違うものの見方、発想が必要になる。既存の物事を支える条件や枠組みを明らかにして、それを変えようとする時、広義の哲学が必要になる。そこに美的な感性が求められる時、広義のデザインが求められる。哲学とデザインは、もっと近づくべきだ。
 ただし、哲学の中には社会にコミットするまったく別の動きもあった。哲学教育をはじめとする、哲学プラクティスである。海外では70年代から広がっていたが、日本では2000年以降、とくに2010年以降に急速に広まった。教育以外にも、哲学カフェ、哲学カウンセリング、哲学コンサルティングなど、多様な展開をしている。そこでは共通して「対話」、すなわち共に考えることが活動の中心となっている。
 私が最初にこの対話型の哲学に出会ったのは、2021年に東大とハワイ大学の共同セミナーでハワイに行ったときのことである。現地の高校と小学校で、「子どものための哲学」(Philosophy for Children:P4C)に参加する幸運に恵まれた。そのときの衝撃、体の芯が興奮し震えるような感覚は、今でも忘れない。帰国後、私は哲学対話のイベントを様々なテーマとスタイルで行った。そこで出会うのは、いわゆる哲学のイベントに来るのとは、まったく違う種類の人たちだった。通常の哲学のイベントには、中高年の男性が多く、若い人でも哲学好きで気難しい人が多い。しかし哲学対話の参加者は、年齢層も高校生から高齢者までと幅広く、性別で言うと女性が多いのも特徴であった。哲学書など読んだことのない人、それまで哲学とは無縁だった人たちが多い。そうした人たちが熱心に話し、考える姿は、どこかに哲学的次元を秘めた思慮深さと、人生に必要でありながら稀有な充足感があった。
 しかもそれは、いわゆる哲学のように、限られた一部の人にのみ許されたものではなかった。一般に話すのも考えるのも苦手だと言われる、ごく普通の人たちが参加できる場だった。そして子どもも大人も、男性も女性も、都会の人も地方の人も違いはない。障害をもっていても健常者でも、学力が高くても低くても関係ない。個人的な差はあっても、社会的にどのようなカテゴリーに属するかに関わらず、誰でも話し、考える力がある。世の中には愚かな人などいないのではないかと思うほど、誰もが自分の言葉と洞察をもっている。
 またちょうどそのころ、新学習指導要領によって学校教育に探究の時間が導入され、「主体的・対話的で深い学び」が重視されることになった。そこで哲学対話に期待と関心が寄せられるのは分かりやすい話であろう。しかし、少なくとも一見意外なのは、哲学対話をすると、参加者が仲良くなるということだった。バックグラウンドも境遇も違う様々な人が、一緒に遊ぶのでもなく、飲んだり食べたりするのでもなく、一つの問いについて一緒に考える。それでなぜか仲良くなる。人間関係がよくなる。哲学対話をしても、考える力や話す力がつねに身につくわけではないが、ほぼ確実に仲良くなる。哲学対話のそういう“効果”が口コミで広がり、学校以外にも過疎の村のコミュニティ作りや企業のチームビルディングの研修に呼ばれるようになった(さらに婚活にも使える!)。
 世の中では少し前から、グローバル化や多文化共生、ダイバーシティ&インクルージョンの名のもとに、「人のことを尊重しましょう」「お互いに理解し合いましょう」「人の話をしっかり聞きましょう」「分かりやすく話しましょう」「じっくり考えましょう」といったことが言われる。最近では「対話が大事だ!」「対話をしましょう!」とあちこちで聞くようになった。しかし、何をすればそうしたことになるのか、どうすればそのようなことができるのかよく分からない。そもそも人を尊重するとは、何をすることなのか。どうすればそれができるのか。相手を理解する、相手の話を聞く、分かりやすく話すとは、どういうことなのか。どうすればそれができるのか。対話とは何なのか、どうすればできるのかは、やはり分からないままだ。
 このようにごく基本的なことで、いろいろと分からないことがあることじたい、あまり意識されていないように思われる。だから誰も教えてくれない。教えなければいけないとも思っていない。にもかかわらず、訳が分からないままやみくもにやるから、「難しい!」「できない!」となり、「日本人はダメだ!」「若者はダメだ!」と失望したり批判したりして、結局あきらめたりする。哲学者なら、相互理解の難しさや不可能性を唱え、だからこそ対話へのたえざる努力の必要性を訴えるのだろうか。
 バカげている。
 哲学対話で一つの問いについてお互いに話し、聞くことで一緒に考える。ただそれだけと言えばそれだけのことなのだが、人を尊重するとか、お互いに理解するとか、分かりやすく話すとか、じっくり考えるとか聞くといったことが、ことさらに意図しなくても、自然にできてしまう。ほとんど“起こる”と言ってもいい。そこには特別な訓練も資質も必要ない。年齢も学力も関係ない。誰もが文字通り体感し、体得する。少なくともそういう希望がもてる。
 いったい何が違うのか――場の作り方である。他者の尊重だ、相互理解だ、傾聴だ、対話だと一般に言われるとき、そうしたことが行われる場をどのように作るのについて、ほとんどの場合無頓着である。そのようなことはたんなるノウハウ、コツであって、重要な問題であると思われていない。
 しかし、哲学とデザインが交差するところから見れば、それはつまり、いろんな人が協働しうるインクルーシヴな場のデザインの問題である。そしてそこには開拓すべき領域、発見すべき現象、取り組むべき課題が途方もなくある。だから私は最近、この方向へ向けて自分の研究や活動を広げており、それを「共創哲学」(inclusive philosophy)と呼んでいる。そこでもっとも重要なのは、次のような問いである――共にいるために、共に生きるために、共に創るために何をどのようにすればいいのか?
 そういう観点から登壇者である鞍田崇君、服部滋樹さん、水内智英さんと私がこの5年間それぞれやってきたこと、考えてきたことを振り返り、付き合わせようというのが、今回の企画の意図である。そこで3人のゲストに順に話してもらい、その後一緒にディスカッションを行った。
(続く)

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