梶谷真司 邂逅の記録120 哲学対話とコミュニティづくり~一緒に考えることでできるつながりとは?
哲学対話をすると「考える力」が育つのは、当たり前かもしれないが、実際にはそれほど簡単ではない。時間もかかるし、目立った結果が出ないこともある。しかし「仲良くなる」というのは、ほとんど確実に出る成果である。したがって企業のチームビルディングや地域のコミュニティ作りのために活用されるようになってきている。それにしても、一つの問いについて一緒に考えるという行為が、なぜそのような力をもつのか。そこで生まれるコミュニティとは、どういうものなのか。
11月21日(日)、自分が住んでいる地域で、対話を通してコミュニティ作りを行っている長野県立大学の馬場智一さんと神戸大学の稲原美苗さんをお呼びし、哲学対話のもつ、このもう一つの側面について考えるイベントを行なった。二人とも以前UTCPスタッフで、その時に哲学対話に出会い、後にそれぞれで独自に発展させている。私自身、何年も前から二人の活動には興味をもって個別には話を聞いたり、実際に現地に訪ねて行ったりしていたので、一度3人で話をする機会をもちたいと思っていた。それが今回実現した。
馬場さんは、すでに東京在住中に多摩市で奥さんと一緒に哲学対話のイベントをやっていた(しかも私の自宅の近所)。故郷の長野に戻ってからは、さらに活動の範囲を広げ、自分が勤めている大学はもちろん、県内の小中高、児童センター、教員研修、シニア向けの講座、子育てサークル、地域コミュニティの哲学カフェなど、様々なところで実践している。場所も市民プラザや図書館、さらには野外などでも行っている。
彼が哲学対話を行う趣旨、動機にはいろいろなものがある――学校教育の文脈では、新学習指導要領の「主体的・対話的で深い学び」、探求授業、道徳教育との関連から要望がある。彼自身が教員であるという立場からは、眠気防⽌やいろんな問題を⾃分事として考えてもらう、問いを⽴てることで理解を深めるといったことがある。そうして自分の考えを⾔葉にできるようになってほしいし、それが⽣きる⼒にもなると考えているという。また他の学生の意⾒を知ることが友達作りのきっかけにもなり、それが孤⽴を防ぐことにもつながるという。
また彼個人としては、何より楽しいからやっているという。考えたことのない問いに出会えるし、仕事だけでは出会えない⼈と出会える。気分転換にもなるし、仕事でも家庭でもないサードプレイスとして、趣味の活動としてそのような場をもちたいし、それが⽼後の備えにもなると考えている。
さらに一市民の立場としては、多くの人たちにとってのサードプレイスにもなるし、年齢や世代、職業、国籍などの壁を超える場にもなる。それは対話することによって、⾃分から、常識から、世間体から、⼀瞬離れて自由になるところでもある。
このように馬場さんは、哲学対話のもつ多様な側面を踏まえつつ、それぞれの場で力点を変えながら、コミュニティを作っているようである。そのさい彼がどのような場でも大切にしているのは、「まざる」とか「まぜる」ということである。大学の授業には、シニア⼤学OB、哲学カフェの常連さん、県教委主事、アーティスト、⼭岳ガイドの人に参加してもらい、⼩・中学では⼤学⽣やシニア⼤OB、高校では学年が混ざるようにしている。また哲学カフェでは、もともといろんな人が来ているが、より多様な人が来るように声掛けを意識しており、高校生のグループに司会をしてもらったり、大学生のサークルと共催したりしている。
どのカフェでも無理に深めるのではなく、話しやすくいろんな意見が出るように配慮していて、そのために問いのカードを使ったりゲームのようなことをしたりするなどの工夫をしている。とくに馬場さんの活動で興味深かったのは、屋外で自然の中にある物を使って作品を作るランドアートと組み合わせたり、美術館で芸術作品の鑑賞と対話を結びつけたりしている点である。さらには散歩しながら行うウォーキング哲学対話をしたり、ロッククライミングをしたり、漫才をやったあとに対話をするなど、いろんなアクティヴィティとセットで行っている。また「哲学対話すごろく」という、年齢ごとに質問があって、それに答えたり互いに質問したりしながら進んでいくゲームを小学生、教員用など参加者に応じていろんなヴァージョンを開発している。
馬場さんの活動は、このようにアイデアいっぱいで新しい試みを次々に行っているが、その原点は意外にも伝統的な農村共同体にある。かつてのような生活基盤を共有しているコミュニティが少なくなる中で、世の中には企業や団体のように特定の目的のもとに集まる組織や、趣味を共にする集まりのような準共同体がある。そんな世の中で、哲学対話はルールと心構え、そして問いを共有するコミュニティと言えるが、組織のように役割や地位が決まっているわけではない。それぞれがその人自身として言葉を発し、そこで現れる違いこそが対話を深めていく。このように差異に基づいて探究を共にするということが、哲学対話に独特な共同性のあり方をもたらしている。
それぞれ異なる自分でありながら、同時に一緒にいられるというのは、個人であること、自分自身でいることを尊重する近代以降の趨勢を維持しつつ、そこで共同性が失われて孤立している今日の状況を乗り越える場となりうるかもしれない――というのが、馬場さんが考える哲学対話のコミュニティの特徴である。
私自身も馬場さんとまったく同意見である。これまで違った場所で違ったスタイルで対話を重ねながらも、同じ結論にたどり着いているというのは、哲学対話がいかに実証的かということを示しているように思う。
ただ、私から見て長野県の際立った特徴として、もともと教育関係者(特に校長先生)が哲学に関心をもっているという土壌が挙げられる。馬場さんが哲学対話を紹介したところ各方面から反応があり、スムーズに受け入れられていったようだ。東京とは大違いである。また地元の高齢者にも熱狂的に受け入れられ、馬場さんが言う「老後の備え」というのがリアルに感じられる。私も一度参加させていただいた商店街にある哲学カフェは、地元の老若男女が大勢集まり、異様な熱気であった。こうして馬場さんが一人奮闘するのではなく、いろんな人たちと一緒に進化させていっているのは、馬場さんのキャラクターや努力があるとはいえ、“長野流”という感じがする。
次に稲原さんにご自身の活動を紹介していただいた。
稲 原さんの哲学対話の活動には、彼女自身の境遇が深く関わっている。稲原さんは脳性麻痺による障害があり、子どものころはいじめに遭い、居場所がなかったという。高校で恩師と呼べる素晴らしい先生たちに出会うが、大学からもっと自分らしくいられるところを求めてオーストラリアへ行き、大学で社会学を専攻。その後はイギリスへ行って、大学院で哲学を修めた。
帰国してUTCPで研究員として1年間、当事者研究に携わった後、大阪大学の臨床哲学研究室に移り、3年間助教を務めた。その時に哲学対話を始め、その後神戸大学に勤務し、社会教育での対話実践やジェンダーやマイノリティの問題、コミュニティ支援に関わりつつ活動を続けている。
このような稲原さんの経歴は、彼女の活動をひときわ独自のものにしている。一つには、彼女自身が障害当事者として当事者研究に関わりつつ哲学対話を取り入れている点、もう一つは、おそらくそれゆえに、公的なプロジェクトのうちに哲学対話を位置づけ、研究と実践の両方に結びつけている点である。
大阪大学では、歯学部附属病院障害者治療部で「歯科医療現場における障害のある子どもとその親への包括的支援プログラムの開発」(研究代表者:村上旬平さん)というプロジェクトにおいて、歯医者という場を通して、障害のある子どもをもつ親の「生きづらさ」を明確にし、どのような改善策が必要なのかを考える場を作った。
そこで稲原さんは、障害当事者への歯科治療と並行して親の語りを聴き、その経験や感情を詳細に記述していく臨床哲学的アプローチと、一対一の対話を通じて心の変容を促す心理療法的アプローチを行うことで、親の心理状態の理解と支援をはかろうとした。それは、親のサポートなしには生きることの難しい障害当事者の心身の健康状態、 QOL の向上にも寄与することが考えられ、そこから障害のある子どもとその親への歯科医療現場における包括的支援のあり方を考え直すきっかけになったという。そのさい哲学対話カフェを繰り返し行ったところ、お母さんたちがそれまで一人で悩み、人目を気にしていたのが、みんな似たような問題を抱えていることに気づくことで、おのずとコミュニティができていったとのことである。
阪大ではさらに「障害者の親の QOL を高めるための歯科治療における包括的家族支援プログラムの開発」のプロジェクトを行い、障害のある子を育てる親への包括的支援プログラム 「親育ち学級」 を企画・運営し、そこではレクチャーと哲学対話を組み合わせて活動した。
神戸大学に移ってからは、WACCA(わっか)というプロジェクトで、貧困やDVで困難を抱える女性やシングルマザーと彼女たちの子どもたちの孤立感を解消し、安心や自信を回復し、人や社会への信頼感を取り戻して生活するのを支援する団体で対話活動をするようになった。そのさい阪大の高橋綾さんと一緒にWACCAのスタッフやボランティアのための哲学対話を行ったところ、ここでも自主的に継続するコミュニティができていったという。さらに大学院のゼミ生とは、大学のサテライト施設である「のびやかスペースあーち 」の一室を使って、異世代間交流の場としての「哲学対話」実践を続けている(2020年からコロナ禍のため、対面での対話イベントの開催は控えており、関西学院大学の三井規裕さんと有志の学部生たちと企画運営しているHC Caféという哲学対話イベントをオンラインで開催しているという)。また「学ぶ楽しみ発見プログラム」(KUPI:Kobe University Program for Inclusion)では、知的障害のある青年が学ぶことの楽しさを感じ、自分や他者を理解しながら成長していけるモデルの開発を行っている。そこでは対話だけにこだわらずに、絵文字や歌謡曲、Tシャツのデザインをするなど、様々なことを試みている。
こうした活動を通して見えてきた哲学対話の意義について、稲原さんは次のように語った――まず「一緒に考える」というのは、対等の関係で参加者がみんな当事者になって対話をすることであり、モヤモヤしていた自分の考えが明確になり、そこから互いに共感できるものを見出していくことである。そのことが「コミュニティを作る」ということにつながる。哲学対話では、そこに集う人々がありのままの自分になり、それぞれの経験から互いの考えや感情を率直に話すことができる。そこでは、障害当事者をはじめ、誰もがもっている言語化しにくい経験を一緒に言葉にして、世の中の「当たり前」をたえず問い直し、その呪縛から自らを解き放つことができる。そうして通常の組織や人間関係における役割や立場から解放された関係性ができ、自由なコミュニティができていく。
こうしたことは稲原さんが身をもって自らの変容として体験したことでもある。彼女にとって哲学対話とは、そのような小さなコミュニティをベースにして、「問答」を通して、共通の「問い」のもと、この世界を一緒に多角的に探究していくことである。
また彼女は当事者研究と哲学対話を結びつけるが、そのさい一般の人も参加するように心がけている。それは、当事者どうしの対話も重要だが、そうでない人たちと対話をすることで、お互いの視野も広がるし、世の中の人たちの意識が変わっていくからである。そこは当事者が“当事者”としてだけでなく、一人の人として話ができる場になるという意味でも重要だという。
二人の発表の後は、参加者からのコメントや質問を取り上げつつ、3人でディスカッションをした。
馬場さんは哲学対話を通して、悩みを聞くことが哲学になるという確信をもつようになり、哲学対話のほうから当事者研究を考えるようになったという。そこで稲原さんに対して、当事者研究から哲学対話に移っていくとき、どんなことを考えていたかという質問をした。
それに対して稲原さんは、かつて自分だけで悩んでどんどんネガティヴになっていたが、他の人と話すことで共感しあえる関係ができたのは、当事者研究でよかったことだと答えた。とはいえ、そうやって自分の問題を深堀していける当事者研究は、時につらくなることもある。また当事者研究では、研究しないといけないプレッシャーがあり、看護と社会福祉とか精神医療で使われるため、医者や病院が苦手な自分としては、哲学対話のほうが気楽であるという。また当事者研究は、ある特定の困難の当事者が参加するが、世の中には、いわゆる何かの当事者とは言えない人も多い。そういう意味では哲学対話はボーダーレスで、いろんな人が関われるのが利点だとのことだった。
そのほかいろんな質問やコメントがあり、哲学対話と飲み会の話、当事者どうしの話し合いがどのように違うのか、哲学対話に参加する人の関係性はどうすればフラットでオープンなものにできるか、研究する哲学と哲学対話の哲学と、二人にとってどのような関係にあるのかなどについても話が及んだ。
今回のイベントを通して、哲学対話は様々なところでいろんな目的で使うことができ、当事者研究や教育のためだけではなく、芸術や音楽、演劇や漫才、食事や料理など、何とでも組み合わせられる。だから様々なところでいろんな目的でコミュニティを作るのに活用できる自由さがある。二人の話はそれぞれにそうした哲学対話の可能性を見せてくれた。