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【報告】〈哲学×デザイン〉プロジェクト26「居場所がなかったり、あったり、」

2021.09.11 梶谷真司, 中里晋三

5月30日にオンラインで実施した〈哲学×デザイン〉プロジェクト26「居場所がなかったり、あったり、」は、近年さまざまな文脈で語られる「居場所」をテーマに、しかし「居場所とは何か」と、ただその成立を問うのではなく、より広い視野で「われわれは『居場所』をいかに経験するか」を考えたいと、企画された。私たちにとって、居場所の喪失、漂流、邂逅、船出などはいずれもが重要な「居場所」経験だろう。しかし、それらが表立って語られることは少ないと感じる。

今回は、埼玉の自立援助ホーム「樹の下ホーム」に勤める志村亜希子さんと、大阪の依存症回復施設「リカバリーハウスいちご」に勤める渡邊洋次郎さんをお呼びし、ご自身の経験、あるいはこれまでに出会った子どもや大人について自由に話していただいた。

志村さん
 自立援助ホームは、義務教育終了後の青少年が地域でスタッフと生活し、社会で生きていく準備をする場所。地域の一軒家を借りて、6名の子どもたちに生活支援、就労・就学支援、退所後支援を行う。ほぼ全ての子どもが虐待を受け、家庭にいられず、その後、明日も知れない状態で行き場がなく入所してくる。
 自分自身も社会的養護のもと、乳児院、児童養護施設(二施設)、里親家庭で暮らすなか、居場所をめぐってさまざまな経験をしてきた。とくに5歳で委託された里親家庭は、家族仲が悪く、また直接的な厳しい言動もあり、絶えず周囲を伺う必要のある息が詰まる場所だった。小学生のときは学校が逃げ場になったが、それでも自分みたいな境遇が他にあるとはとても思えず恥ずかしかった。高校生になり生活の制限が厳しくなったことで、長年の不満を一気に爆発させた結果、里親家庭から放り出される形で、施設入所となる。施設の職員は自分の意見を聞いてくれ、また高校では同じ境遇の友人に出会えて自分のことが話せるようになって、どちらも安心できる場所になった。同時に、大人に決められるばかりの状況が嫌で、早く大人になりたいと強く思った。高校の恩師の言葉もあり、社会に助けてもらった恩をいつか返そうと決めて、社会に出ると、仕事では、生い立ちに関係なく結果が評価され、人ともフラットな関係が築けて嬉しかった。20歳のときに3歳の自分を迎え入れようとしていたアメリカ人家族と再会したとき、事実が今まで聞かされていたものと違うことにショックを受け、「大人」という存在への強烈な不信感が生まれた。「家族」の温かさにも触れたことで、混乱して自らの居場所を見失った時期でもあった。その後、アメリカ人家族との交流で関係性が深まるにつれ、距離や血縁に依らず、心のつながりが自分のなかに芽生え、ここ(日本)で頑張ろうと思えていった。
 社会的養護の子どもたちの多くは、虐待的環境で存在を否定し続けられ、他愛のない日常で周囲と違う自分の現実をつねに突き付けられている。大切な人がいてくれる安心感と自己肯定感があって初めて居場所は生まれる。

渡邊さん
 現在は、依存症回復施設で働いているが、自分自身がアルコール・薬物の依存症者であり、依存症と診断されたのは20歳のときだが、中学生ですでにシンナー中毒だった。
 子どものとき、思っていることを伝えるのが苦手で、小学校では勉強も分からず、靴を履き替えるなど、ごく当たり前のことも理解できていなかった。「自分は大事な存在」という感覚を持てたことがなく、誰かと向き合えば自動的に自分は下と感じていた。「何か」を恐れている感覚、自信のなさがずっとあって、それを悟られまいとしてきた。中学校からの非行の前兆として、小学校時代の家出や盗み、人が気持ち悪がることをしていたが「自分みたいな人間はそんなことでもしないと人は関心を持ってくれない」という思いで、からかわれるのでも嬉しかった。中学時代、捕まった警察に「なんでお前みたいに普通の家のやつがグレんねん」と言われたときは、自分なりにしんどいものがあったのに、それを否定されて傷ついた。人に呑まれて嫌と言えない自分がみじめで嫌だったが、薬物をして悪さすれば周りは関心を示してくれて優位に立てるから、その場所を守らねばと思うようになった。
 少年院を出て、ホストの仕事でアルコール依存が進み、自傷も重なってアイデンティティがどんどん崩れていく。精神病院の入退院を繰り返しても、しらふで生きることの価値が見いだせず、33歳で刑務所を出て、依存症の自助グループにつながるまで生活は変わらなかった。今振り返ると、親や社会が、自分の寂しさを受け入れてくれないしんどさがあったと思うが、当時は、色んな大事を起こしながらも、原因が分からなかった。ひとつ一つの傷つき、痛みは見えにくいし、人からは大したことでなくても、自分には大きなものだったと思う。以前は「素の自分」ではなくキャラを演じることで居場所を作ってきた。今は、自分の何かを託せる愛着の対象として、良いも悪いもある世界、そして人というものを考えられる。物理的な自由さとは異なる「生きるうえでの裏付け」を与えてくれるものが居場所だと思う。

以上のゲストお二人の話を踏まえ、イベント後半ではホストの梶谷、中里を交え、対話を行った。

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渡邊さん(左上)、志村さん(左下)、梶谷(右下)、中里(右上)

居場所として真っ先に「家族」が挙がることは多い。しかし今回は、ゲストお二人の話を通じて、家族が最初の居場所にならないときを考えたかった。渡邊さんは、「家族」という言葉に今でも自分や家族のみんなが苦しんでいると語る。かつてお父さんが亡くなってから趣味を始めたお母さんに渡邊さんは「逃げるのか」と詰め寄ったし、精神病院にいたときは、渡邊さんと家族はお互いを自分のためにコントロールしようとする関係になっていた。「家族」は、むしろ互いを傷つけ縛るものだった。志村さんの場合、最初から「家族」というものに一定の距離を取ったことで、たとえば里親家庭で居心地を感じられなかったりするなかでも自分を失わずに生きられたようだ。そして時を隔てて出会ったアメリカ人ファミリーを自分の家族と思えるようになった現在、いまの離れた距離が自分の安心につながるちょうど良いものと思えると語る。距離の近さゆえに家族が居場所とむしろならない場合に、お互いの心地よさをもとに家族という居場所があらたに作られる必要があるのだ。

また、お二人の話で共通して語られたことに、幼少期から現在までの人との関係性の変化がある。幼いときの志村さんは、自分に選択の余地がなかったその時の状況を自分のこととして話すのに抵抗があり、プライベートに話が及ぶと作り話をして、本当のことを話せない時期が続いた。その後就職して、仕事がそれ自体で評価される職場環境のなかで、志村さんは生い立ちに関係なく、誰かとフラットな関係を築ける心地よさが感じられるようになる。他方、渡邊さんの場合は、刑務所にいたときに「自分自身を生きよう」と思って、それまであいまいだった周囲との境界をあえて作るなかで、人間関係には何かしら条件が必要だと気付いたのだという。出所後に居場所になった自助グループでも「人をあがめるな」と言われ、相手や関係性を絶対視しないことを渡邊さんは意識している。

居場所とは、ただ居るのではなく、自分自身として居られる場所であり、その一人ひとりの確かさがそこで出会う人同士のフラットな関係性につながるように思われる。そのことを反映して、志村さん、渡邊さんはそれぞれ最後に次のように語ってくれた。

志村さん 自立援助ホームの子どもたちはよく「自分には居場所がない」とこぼす。居場所がたくさんあるに越したことはないが、存在を否定されてきた子どもたちが「自分は生きていいんだ」と感じられる場所が一つでもあれば、その子たちは自分で生きていけるんだと思っている。

渡邊さん 昔を振り返ったとき、目に見えるものばかりを求めて気付けなかった色んな人の思いが、否定しえない事実として見えて、「実はたくさんもらっていた」と気づいた。そのことで、これからは自ら日々に彩りをつけ、少しずつでも良くしていこうと思えるようになった。「けんか状態」を脱し、ようやく自分、そして世の中と仲直りできたと感じている。

居場所とは、肯定できる存在として自分自身、そして他者に出会える場所である。もちろん、私たちはつねに幸福な出会いを果たすわけではない。かなりの部分、それは運に左右されるだろう。しかし、相手が自分であれ、家族であれ、果ては一度ならず失敗し続けた出会いであれ、出会い直しの可能性がどこかしらに眠っているものなのだ。「居場所がなかったり、あったり、」という居場所をめぐる経験とは、その可能性に向かって、「私たちは自己と他者をいかに肯定しうるか」という問いをめぐる出会いの遍歴と言えるのではないだろうか。

(文責:中里晋三)

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