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梶谷真司 邂逅の記録 112 ただ自分自身でいられる場を求めて~紫原明子さんとの対話

2020.12.07 梶谷真司

“私はただ、私でいることを許されたいだけ”

 今回お招きしたエッセイストの紫原明子さんが定期的に開いている「語り」の場、「もぐら会」のエッセイ集「あの人今、泣こうとしたのかな」の序文に出てくる文章である。
 今年の6月13日、コロナ関連のイベントの第2弾として「コロナの中の日常~生き方の変化と向き合う」を行った。紫原さんが独自アンケートに基づいて書いたエッセイを読んで、参加者が自分の生活の変化について自由に語り、一緒に考えるという趣旨だ(私のブログ報告「邂逅の記録110 コロナの中の日常~誰もが思考と経験の当事者になる」を参照)。

 そのさい、紫原さんから頂いていたエッセイにあった上の言葉を紹介した。以来、この言葉がずっと気になっていた。ただ私のままでいる――簡単そうで何と難しいことか。私たちはいつも、自分以外の誰かや何かを気にして、それに合わせて生きている。生きていくためには必要なことだが、そうしているうちにいつの間にか自分が何者なのか、何をしたいのか分からなくなってしまう。そしてどうやって自分に戻ったらいいのかも分からず苦しむ。
 「もぐら会」は、たぶんそんな人のための場なのだろう。直接紫原さんと話をしたい――そういう思いで、あらためて紫原さんをゲストとしてお迎えして、対談をすることにした。
 「もぐら会」というのは、もともと月に1回(今では人数が増えたので月6回)、10人から20人ほどが集まって車座になり、一人ずつ順番に自分のことを話し、他の人はただ黙って聞くという「お話会」である。
 まず自己紹介をして、その日の体調について話し、この1か月のあいだにあった出来事、その日にあったことなどを気がすむまで話す。とくにテーマは決めない。話し終えたら、その人が次の人を指名する。全員話し終わるまでそれが続く――モノローグの連続。あらかじめ話を用意してきても、前の人の話を聞いているうちに、準備していたのとは違う話をする人も多いという。そうしてもともとバラバラのはずだったモノローグが自然につながっていく。ただ話して聞いてもらうことで、一人一人の言葉がその場に蓄積され、みんなのものになる。
 紫原さんの思いとしては、「誰にも触れてほしくないけど、聞いてほしい」「私のものは私のものだが、人と共有したい」ことを話す場にしたいとのこと。そうしてお互いの話を聞いていると、それをきっかけに他の人の中でも、自分で蓋をしていたこと、忘れていたことが沸き起こり、今まで自覚していなかった自分に出会う。それを紫原さんは、(いろんな石がその人の中から採掘されるという意味で)「もぐらの鉱物採集」と呼んでいる。
 ただ、どうしてもプライベートな話が多くなるので、それなりの配慮が必要である。だからもぐら会はメンバー制になっており、同じメンバーで回を重ねることで、お互いの安心感が増す。さらに紫原さんは、「あなたがここで話した言葉は、あなただけの言葉ではなくなってしまいます、それでもいいことを話してください」、そして聞いた話は「ここに置いていく、忘れることを大事にしましょう」と伝えているという。
 他方でより気楽に参加できる様に、「うまく話そうとしなくていい」とも言っている。拙くても、その人が話したかったことは、聞いている人の心に残るからだそうだ。実際、もぐら会のメンバーの一人も、「何でもない話、他人を意識した話よりも意識しない話の方がより深く響く」と似たようなことを言っていた。
 また参加者はしばしば、「20人違う人たちがいることに気づいた」と言うそうだ。私たちは普段、世の中にいろんな人がいると頭では分かっていても、実際にどれくらい、どのように違うのか実感をもってはいないだろう。ところが参加者一人一人の話を聞いていると、それがどんなに何気ない、些細な話であっても――あるいは何気ない些細な話だからこそ――こんなにも人によって感じ方、考え方が違うのだということが分かるのだろう。その当り前のことに私たちは気づかないのだ。紫原さんによれば、そうした気づきによって参加者の心が拡張され、参加者どうしが信頼感によってつながっていくのだという。
 こうした体験は、哲学対話で起きていることときわめて近い。しかし決定的に違うのは、「問い」がないことと、モノローグだということだ。哲学対話は、共に考える場である。私たちは問いがあって初めて考える。だから哲学対話には問いが不可欠であり、しかもあくまでダイアローグである。他方、もぐら会はそうではない。なのに、対話と同じようなことが起きている。
 これは不思議と言えば不思議だが、おそらく「ただ聞く」ということに重要なカギがあるのだろう。人の話をただ聞く。何も反応しない。表立って問うことを封じられたことで、聞くことが自分の中にどんどん問いを呼び覚ます。それが自分に向かい、今まで気づかなかったものがあらわになる。だから反応しなくても、あたかも対話のように相手とつながるのではないか。しかもただお互いに受け止めることで、冒頭の言葉のように、「ただ私であることが許される」場になる。
 これはある意味、哲学対話よりもラディカルかもしれない。それでいてすごくシンプルだ。「問いが大事」などと言っている場合ではないかもしれない。次は問いのない哲学対話をやってみよう、と最後に思った。

 もう一つ、紫原さんのラディカルなところがある。もぐら会は、何と資本主義義に対抗するためにやっているらしい。それで通常のお話会とは別に、マルクスの『資本論』、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、「贈与」に関する本の読書会もしたらしい。紫原さん、もぐら会は哲学よりもハードですよ。でもそれくらいしないと、私であることは許されないのかもしれませんね。

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