【報告】公開哲学シンポジウム「哲学と精神分析――デリダ、リクール、ラカン、そしてフロイト」
2020年8月29日、東京大学のUTCPにてオンライン・イベント「哲学と精神分析――デリダ、リクール、ラカン、そしてフロイト」が開催された。この企画は、とりわけ難解であると言われる「精神分析」および「現代フランス哲学」を、〈一般の人々に分かりやすい言葉〉で伝えるという趣旨のもと構想された。それだけでなく、本企画は第1弾(「現代フランス哲学から見る〈共生と責任〉の問題」)と同様、哲学に興味を持っている一般の人々と、哲学の研究者を繋げるための〈場〉を構築したいという意図も込められていた。そのため、本シンポジウムにおいては、「講演」の部と同じくらいの時間をかけた「質問」の部を設けることに決め、とりわけ一般の参加者の方々との双方向的なやり取りを行うことを重視した。
第1弾の企画も大変な盛況であったが、今回の企画は、それをさらに上回る盛り上がりを見せた。まず、事前登録の時点で240名以上の方々から申し込みがあり、当日も常に160名以上の方が講演者の講演を視聴していた。また、今回は前回を上回る量の質問が一般の方々から寄せられ、(公的な形では17時に閉会したにもかかわらず)、その後の質疑応答の時間は19時頃まで続いた。とりわけ、その間も100名以上の方々が継続して視聴を続けていたという事実は、特筆すべき点であるように思われる。さらに、今回も前回と同様、シンポジウムが開催される三日前に講演者同士で予行演習を行い、お互いの講演内容のすり合わせや、用語や議論のレベルの調整等を行った。こうした丹念な事前打ち合わせがあったからこそ、当日の盛況ぶりに繋がったのだと言える。
以下、続く箇所で、シンポジウムの講演内容の概略を報告する。
まず、一人目の講演者である工藤顕太氏は、「精神分析における現実・歴史・痕跡」という題目で講演をされた。フロイトおよびラカンが探究した「無意識」とは、大づかみして言えば、〈個人を決定的に方向づけているにもかかわらず、本人が自分でアクセスすることができない心の領域〉である。こうした「無意識」は、「抑圧されたもの」(言わば意識から押し退けられた異物)であるとされる。フロイトがこうした存在を確認したのは、初期のヒステリー治療を通してである。ヒステリー発症の原因としてフロイトが考察したのが、性的に未成熟の子どもが大人から「誘惑」を受けるというトラウマ的な記憶であった。確かに、実際はそうした体験があったわけではなく、その記憶が患者によって語られた「フィクション」であったという事例も確認された。だが、ここでのポイントは、「物的現実」ではなく「心的現実」こそが患者にとってはよりリアリティを持つということ、そして、その意味で患者を取り巻く「現実」という概念の意味が根本的に問い直されるようになったということである。それは、言葉によって根拠づけられた「現実」である。だが、多くの場合、神経症者の「無意識」(=「主体の歴史」)は数多の欠落を含んでいる。こうした状況を受けてラカンは、精神分析を、主体の歴史の中にある真理を探究する役割を担うものとして規定した。ここでの精神分析独自の知見は、患者の症状を、その当人の本質を表す本質の一部として尊重することである。精神分析の目的=終わり(fin)とは、症状が証言する主体の歴史を明らかにし、そこから主体が拠って立つアイデンティティを引き出すことなのである。
二人目の講演者である片岡一竹氏は、「精神分析から見る善悪の起源」という題目で講演をされた。まず片岡氏は、精神分析の革新性を、「全てを人間の欲望から考える」点に見出す。たとえば、「正しいとは何か?」という問いは「人間の欲望にとって正しさは何の意味を持つか?」という問いに置きかえられるのである。そこで片岡氏が提起する問いが、「なぜ我々は道徳や善悪を愛してしまうのか?」というものである。片岡氏は「第二局所論(エス・自我・超自我)」の説明を展開しつつ、先の問いに対して「超自我が道徳を守るように命令するから」という一つの回答を提出する。だが、いったいなぜ人間の心の中には超自我なるものが存在するのだろうか。こうした問いに対して、片岡氏が提示するアプローチが「喪とメランコリー」を分析するという道である。超自我は失われた対象に向けてサディズム的な愛を向けるが、自我は対象と同一化しているため、自分自身に向けられるマゾヒズムとなる。こうした「自我のマゾヒズム」と「超自我のサディズム」が組み合わせられると言うメカニズムのもとに分析される事態が「メランコリー」である。善悪は、初めは親の愛に結び付いているのだが、ある時にそれが切り離され、それ自体で善いもの/悪いものが分析されるに至る。この切り離しの時こそが超自我の誕生の時であると片岡氏は主張する。すなわち、親の愛の喪失の不安が道徳として内面化されるがゆえに、私たちは道徳や善悪を愛してしまうのだ。
三人目の講演者である松田智裕氏は、「分析すること、挫折すること」という題目で講演をされた。松田氏は「分析」と「挫折」という二つの観点から、ジャック・デリダという哲学者の核となる部分を提示した。まずデリダにとって「脱構築」とは、伝承された概念や考え方がどのような位置関係(政治、制度、時代状況、等々)のなかで成立したのかを考察する営みであり、その点で脱構築は遺産相続に喩えられている。こうした基本的なモチーフを確認しつつ展開されるのが、デリダが用いる「分析(analyse)」という語の含意である。それは« ana- » 「高方に」という始原学的モチーフと、« -lyse »「ほどく」という分解的モチーフから構成されたものである。この二つのモチーフは、「分析」という言葉が「物事を支える高次の原理に遡るために、それを個々のファクターに分けて検討する」という意味があることを示しており、それは哲学と精神分析の双方が共有している考え方である。さらに松田氏は、「分析の始原学的ないし遡及的原理は、つねに挫折するよう定められている」というデリダの言葉、とりわけ「挫折」という語に込められた含意の検討を試みる。それは、解釈や分析の営みを閉ざしてしまう打ち止めの事態を示す言葉ではない。そうではなく、どれだけ解釈を実践しても、その解釈とかみ合わない異質なものが残り続けてしまうという「根源的な絡み合い」の事態を指し示すためにこそ、デリダは「挫折」という語をあえて使っているのである。松田氏は、デリダの中で「挫折」・「チャンス」・「落下」という語が結び付けられていることを看取し、デリダにとって「挫折」とは、単に「分析や解釈が不成功に終わる」ということではなく、分析や解釈を行うたびに、既存のものとは異なるなにかが不意に出現する事態を意味する概念であったことを主張した。
最後に、四人目の講演者として、シンポジウムの企画立案者である山野弘樹が「人間はいかにして〈自己〉を知るのか」という題目で講演を行った。リクールは1960年に、有限性と無限性の間に引き裂かれた人間の姿を、とりわけ「パースペクティブ」・「死」・「欲望」という三つの観点から説明しているが、その5年後の1965年に、リクールは『解釈について』というフロイトの精神分析に関する大きな本を書く。ここに、哲学と精神分析の関係性を見出すリクールの視座が明確に現れているのだ。リクールは「欲動論」や「夢解釈」などの議論を綿密に検討し、フロイトの精神分析を自らの理論体系の中に受容していくのだが、本発表においてとりわけ重要になるのが、リクールが精神分析を「懐疑の実践」として定式化していることである(リクールに関する二次文献において、それは「懐疑の解釈学」と呼び表される)。リクールがそこで提出する二つの解釈学とは、既存の意味をはぎ取るような「懐疑の実践」と、新たな意味を豊かに構築するような「意味の再建」という、それぞれの使命を遂行するような解釈学の二様態である。リクールは、とりわけ前者の解釈学の代表格としてフロイトの精神分析を評価した。だが、リクールは芸術作品(とりわけ『オイディプス王』)の分析を通して、後者の解釈学への道を探究する。そしてリクールは、〈日の光〉と〈精神の光〉という対を議論の中で提示することにより、自己意識、および自己認識の悲劇として『オイディプス王』を捉え返す。それは、人間が単なる意識からより高次の自己意識へと上昇する過程に他ならないのである。すなわちリクールは、自らが自らのことを理解していないということを理解せしめる懐疑の解釈学を経由することを通して、自分が何者であるかという探究の道を再び始動させる弁証法的な「自己の解釈学」の道を遂行しているのである。
今回は前回とは異なり、シンポジウム終了間際に、参加してくださった方々に対してアンケートのご協力をお願いした。その結果、
●「とても良かった (54. 2%) /良かった (43. 1%)……計97. 3%」
●「もし第3弾があるなら、再び参加を強く希望する (54. 2%) /参加を希望する(40. 3%)……計94. 5%」
という大変高い評価をいただいた。
また、シンポジウムに対して自由に感想やコメントを書き込んでいただく欄においては、とりわけ多様なご意見が寄せられた。そこには様々なフィードバックがあり、中には改善点や工夫の余地が見られる点など、今後の運営の質の向上に繋がるアドバイスも数多く存在した。全体的に見て、第3弾の企画を望む声が圧倒的に多く、とりわけ次回のイベント内容として「希望するテーマ」を具体的に書いてくださる方々も大勢いた。哲学という難解な営みに興味を持ってくださる一般の方々がこれほど数多く存在するという事実は、驚くべきことである。今後、堅実かつ誠実な学術研究を行う哲学研究者と、哲学に関心を持つ一般の方々を繋げる〈場〉を構築するという取り組みは、より意義深さを増すであろう。
最後に、一つの問題を提起して、本報告を終えたい。それは、「一般の方向け」という言葉が大きすぎるということである。想定としては、「学会レベル(専門家向け)」ではないという消極的な規定において「一般の方向け」という言葉を用いていたのだが、それだけでは対象となる層の圧倒的な多様性に対応することができないということが今回のアンケート調査の結果から分かった。例えば、今回のシンポジウムは、「一般の方には難しすぎる」という意見と、「ここまでかみ砕いていいのだろうか、まるで勉強会のようだ」という意見が同時に寄せられた。こういったご意見にお答えするためには、さらにイベントにおける「用語」や「議論」の一般性/専門性のバランスを細かく調整していく必要があるだろう。場合によっては、同じ企画趣旨・講演内容を準備しつつも、それを異なる二つのレベルで(別日に)実施するという工夫を行ってもよいのかもしれない。今後、こうしたオンラインのイベントを開催していく中で、より企画趣旨に適った運営方法の工夫を案出していくことが求められているであろう。
(文責:山野弘樹)