梶谷真司 邂逅の記録111 コロナの中の日常~誰もが思考の当事者になる
2020年5月9日、オンラインイベントとして第1回の公開哲学セミナーを行った。この機会にコロナウィルス関連のテーマで、ユヴァル・ノア・ハラリがFinantial Timesに寄稿した記事を素材に「コロナ危機と来るべき世界」について考えた。その時は、世界や社会という“大きな”レベルの“危機”がテーマであった。
とはいえ、こうした大局的な変化は、多かれ少なかれそこに巻き込まれるとはいえ、その影響は人や地域によって違っているし、個々人がどうすることもできない。私たちにできるのは、つねに、自分たちの生活の変化を向き合うことだけではないのか。それはそれぞれの人が語る権利を等しく持っているのではないか。
かくして一か月後の6月13日、第2回目のイベントでは、もっと身近な個々人の日常における変化について考えることにした。素材としたのは、エッセイストで『家族無計画』の著者、紫原明子さんが自分でアンケート調査を行い、その結果を受けて東洋経済Onlineに書いた二つのエッセイである。
「150人調査で見る「コロナ下の日本人」驚く変化~人間関係を見つめ、浮かび上がってきたもの」
https://toyokeizai.net/articles/-/347658
「自粛生活に「幸福を感じた人」が口々に語る理由~150人調査で見えてきた、意外な「要不要」」
https://toyokeizai.net/articles/-/350993
これを読むと、コロナがもたらしたのが“危機”という言葉でくくれるような単純なことではないというがよく分かる。私たちの日常に起きているのは、小さいかもしれないが、もっと多様で豊かな変化である。参加者には、この二つの記事を読んで来ていただき、コロナの中で自分の日常生活に起きた変化について、それぞれの経験をもち寄り、共に考える機会にしようと思った。またそういう趣旨のイベントであるから、今回は新しい試みとして、参加者から“登壇者”を募集し、自身の経験、身近な出来事について報告してもらうことにした。当日は90人を超える参加者が集まり、北海道から沖縄に及び、さらに海外はフランス、マレーシア、ルワンダから参加した人がいた。報告者は13人いて、うち高校生が6人もいた。
イベントではまず私が紫原さんの記事を画面共有し、ざっと内容を参加者と確認した。最初の記事は人間関係の変化についてである。夫婦については、コロナ離婚が懸念される中、逆にお互いの良いところを改めて認識する機会になった夫婦もおり、コロナベビーを欲しがる声もあった。親子関係では、やはり子供も親(特に母親)もストレスがたまり、家族の中がギクシャクしている様子がうかがえた。高齢の親に対しては、コロナへの無頓着にいらだつ人がいる一方、こもりがちだった親がさらに引きこもり、閉塞感を募らせる回答があった。友人関係は、意外なことに、普段頻繁に会っていた人と連絡を取らなくなる一方で、今まで交流がなかった人と交流するようになり、いわば人間関係の断捨離が起きていた。
二つ目の記事は仕事やライフスタイルの変化について。とりわけ都市圏だと思われるが、通勤の苦痛から解放され、生活に余裕が出て、幸福感を大いに増した人がかなりいたようだった。また仕事ヲ失った人や、もともと引きこもりで働いていなかった人が、普段感じていた引け目や劣等感が薄くなり、気楽になったという人が何人もいたようだった。厚労省の調査では、例年の同時期と比べて自殺が20%減ったという。仕事は、業種によって苦境に立たされた日とも言えれば、あまり変わらなかった人、好転した人いろいろである。人生を見直して元気になった人もいれば、突然今まで熱心にやっていたことに興味を失ってしまった人もいた。
記事をみんなで読んだ後は、休憩をはさんで、報告者からの話をしてもらった。沖縄から参加した大学生は、学生生活と就職活動の変化のなかで、多くの人が戸惑い、苦労している様子を話してくれた。趣味で音楽活動をしている愛知県の主婦の人は、自粛のおかげで家に居ながらにして普段は会えないミュージシャンとも交流できるようになったと言っていた。また北海道の浪人生の人は、家から遠い高校で寮生活をしていて家族と疎遠になっていたが、この機会に兄弟や親とも関係を深めることができたと喜んでいた。同様のことは、宮崎の山間部にある全寮制の学校の生徒たちも言っていた。また宮崎市内の高校の先生は、密を避けて行動すると、おのずと自然のなかへ戻っていくこと、また近年人口や機能の「集中と分散」が言われているが、地方ではすでにそうなっているのではないかと話していた。
他方、千葉在住で、緊急事態宣言中もずっと都心で仕事をしていた女性は、在宅勤務になった夫との間で家事分担が激変したことを報告した。また、埼玉に住んで大学院で勉強しながら講師としても働いている女性は、通勤の苦痛を始め仕事に関わる様々な制約から解放されたこと、また実家に帰らなくてよくなった気楽さを語った。その後、パリ在住の女性とマレーシア在住の女性から、現地の様子を話していただいた。
参加者の報告が終わった後、実はイベントに来てくださっていた紫原明子さんにコメントをいただいた。彼女にとってもまだまだ知らないエピソードがあったことを喜んでくださった。とりわけ大人があれこれ大変だのかわいそうだのと言っている高校生たちが、自分たちの経験を語ってくれたことが、参加者の多くにとって、とても新鮮で目を開かされるものだった。
つい最近、紫原さんは、ご自身が定期的に開いている「語り」の場、「もぐら会」のエッセイ集「あの人今、泣こうとしたのかな」を出したところで、それを私にも送ってくださっていた。その序文にこんな文章があった。
“私はただ、私でいることを許されたいだけ”
この冊子にはそんな「私の物語」が詰まっている。
思うにコロナは、私たちに、自分自身が何者なのかに向き合わせてくれた。それは、それがどんな姿であったとしても、きっと私たちは、自分でいることを許された稀な時間だったのではないか。
非常事態宣言が解除され、徐々に日常が戻ってくる。世界はどう変わるのか、変わらないのか、それは分からないし、どう変わってもいいのかもしれない。けれども、私であることを許される、周りの人によって、社会によって、そして自分自身によって許される、そんな世界になることを期待したい・・・そんな思いを残したイベントだった。