【報告】哲学コレクティフ@UTCP ―― 阿部ふく子さん、新潟での哲学対話の活動を語る
2019年12月21日(土)に東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム3にて、「〈哲学×デザイン〉プロジェクト18──哲学コレクティフ」が開かれた。
講師に新潟大学人文学部准教授である阿部ふく子氏をお招きし、氏が実践している「哲学コレクティフ」についてご講演いただいた。当日はさまざまな地域から30人ほどの人々が集まり、会は盛況のうちに幕を閉じた。以下に当日の内容を記す。
まず阿部氏から、氏がこれまで行ってきた「哲学対話」についてご説明いただいた。そもそも「哲学」とはなんだろうか。氏は「哲学」を、「考え、問い、応えつづけること」と捉える。この考えには、「哲学」がなにか明確な「答え」を与える営みではなく、なにかしらのかたちであれ「応答」していく営みであるという意味合いが込められている。この理念のもとで「みんなで一緒に」探究をしていくこと、そしてその場にいる人々の問いかけを「聴く」ということ、これが氏の考える「哲学対話」という営みである。すなわち「哲学対話」とは、「みんなで考え、問い、聴き、応えつづけること」なのだ。
「哲学対話」は、さまざまな立場の人々が集まって成される営みであり、そこにはそもそも「哲学」になじみのない人や子どもたちも含まれる。そこで、まずもって彼らが安心して対話に参加できる「場」を確保する必要があるだろう。ここで重要となるのが、「哲学対話」を成り立たせるためのルールである。例えば「なにを言ってもいいが人を傷つけることは言わない」、「専門用語に頼るのではなく自分の言葉で話す」、「黙っていてもいい」などが挙げられる。これらのルールはひとえに、誰もが安心して対話に参加できるようにするため設けられるものなのである。そうして担保された「場」において、分け隔てなくお互いに問いを投げかけそのつど応え、最終的に分からないこと(問い)を増やす──このことを阿部氏は「哲学対話」の目的として据えている。
続いて、新潟での「哲学対話」の実践を報告していただいた。新潟では、大学での対話はもちろんのこと、小学校に赴き子どもたちと、あるいはアカデミック・インターンシップの一環として高校生と、それぞれ対話を行っているとのことだった。また、氏が関わっている活動の一つとして、「つばめの学校」プロジェクトについても報告していただいた。新潟県の燕市で行われているこのプロジェクトは、「学び続ける大人へ」というコンセプトのもと、市民に「学びの場」を提供するために設立された。彼らの思いにこたえるため、阿部氏は現在に至るまで、実際に現地に赴き、講演と共に「哲学対話」を行っている。過去に私も参加させていただいたことがあるのだが、そこに集まる人々の熱意はすさまじいもので、その場でかたちづくられる雰囲気は、大学のゼミと比べても負けずとも劣らなかった。彼らの意欲に圧倒された私は、いくつになっても「学びたい」という思いはあふれ出てくるものなのだと、そう痛感させられたことを記憶している。
さて、本講演のテーマである「哲学コレクティフ」は、まさにこの「つばめの学校」プロジェクトとの関わりの中で生まれてきたものである。いくつもの実践を通して、阿部氏は対話の安心感を提供するためとはいえ、極端に専門性が抜け落ちてしまう「哲学対話」のありかたに限界を感じていたと言う。「哲学対話」によるのでは、「つばめの学校」における「もっと学びたい」という思いを抱く人々の要求にこたえられないのではないか、と。そこで、「哲学対話」のエッセンスは残しつつ、より専門性を取り入れた対話の「場」を模索して辿り着いたもの──それが「哲学コレクティフ」である。
「コレクティフ」はフランスの精神科医ジャン・ウリが提唱した概念で、フランス語で「集団」や「集まり」を意味している。さらに語源を遡れば、この語はラテン語の「colligo」に由来し、「集める」や「熟考する」といった意味を備えるに至る。ウリによれば、「コレクティフ」とは「人々が集まること・動くこと」であり、「個々人のありかたを尊重すると同時に全体をかたちづくるもの」であると言う。このウリの定義をもとに阿部氏は「コレクティフ」を、「さまざまな人たちが集まって、個々人の経験・言葉・実感・考えを大切にしつつ、みんなで一緒に哲学的な探究をしてみる活動の場」と捉え直す。すなわち、「哲学的な概念」と「哲学対話」を兼ね備えたものが、氏の考える「哲学コレクティフ」なのだ。
とはいえ、「哲学コレクティフ」は未だ探究の途上にあり、阿部氏もまだ思索を巡らせているとのことだった。そこで本講演の後半パートでは、「哲学コレクティフ」の奥行きを掴むために、まさに「哲学コレクティフ」についての「哲学コレクティフ」が行われた。まず阿部氏から、「哲学コレクティフ」に関わるかもしれない──あるいはそこから離れるかもしれない──ような、いわゆる「専門的な」概念を紹介していただいた。例えば、ウリは「コレクティフ」をさらに敷衍し、「ちょっと遠くへ行ってみること」であり、いくつもの要素が共存するという意味で「ポリフォニー」であると言う。ロラン・バルトは「偶景」という概念を用いて、たまたま生まれた言葉が大きな影響を与えることを説く。アドルノは「哲学」に蔓延る専門性やエリート主義を批判し、エッセイ(小さなもの)が大きなものを破壊するのではないかという、エッセイ主義を展開する。
これらの一連の概念は「哲学コレクティフ」とどのように関わるのだろうか。あるいは、直接的には結びつくことはないのかもしれない。けれども、もしかするとこうした小さな概念たちが、そのときたまたま発せられたにすぎない言葉たちが、なにか大きなことをもたらすかもしれない──そうした淡い期待を胸に、私たちは「哲学コレクティフ」についての「哲学対話」を行った。3グループに別れて行われた対話では、例えば「哲学コレクティフにおける「みんな」って誰」とか、「「ちょっとしたこと」ってなんだろう」といったざっくばらんに発せられた問いについて、偶然集まった参加者たちが時間の許す限り「考え、問い、聴き、応えつづけ」ていた。各グループが対話に真剣に取り組む様子や、対話では語り尽くせずに残った一抹の名残惜しさは、その後行われた振り返りの時間の活発さからも窺えたかと思う。
以上のように、専門的な概念を導入とし、各人がそこから得た問いを対話で考え、そこでの出来事を振り返るという一連の営みが、阿部氏が暫定的に考える「哲学コレクティフ」である。とはいえ、先ほども述べたとおり、本講演で行われた営みはあくまで一例かつ実験的なものにすぎず、この営み自体をさらに考えていく必要があると氏は考える。今回初めて体験した身ではあるが、対話の「安心感」を残しつつも「専門性」を確保すること、「哲学コレクティフ」の課題はまさにこの点にあるように思われた。今後「哲学コレクティフ」がどのように発展し、どのように錬磨されていくのか──私としては、本講演で偶然集った人々から発せられた小さな言葉たちが、「哲学コレクティフ」という大きな体系になにかしらのかたちで寄与することを願ってみたりもしている。
最後になるが、遠方よりお越しいただいた阿部ふく子氏に再度感謝を申し上げ、本講演の報告とさせていただく。(文責=渡邉京一郎)