【報告】Mario Wenning教授講演――現代におけるコスモポリタニズムの可能性
7月19日、マカオ大学のMario Wenning教授を招き、講演会を行った。氏は2009年にもUTCPで “The Return of Rage” というタイトルでGuest Lectureを行っていて、今回は実に10年ぶりの登壇となった。
“Cosmopolitanism in the Age of Adjustment” と題された今回の講演は、ドイツの哲学者マックス・シェーラー (1874-1928) が第一次世界大戦後に唱えたコスモポリタニズム思想を、グローバリゼーションが進む現代の世界でとらえなおそう、というものであった。
なぜ、ハイデガーやガダマーといった同時代のドイツの哲学者に比べ、研究の進んでいないシェーラーの晩年の思想を取り上げるのか。氏は二つの動機を述べた。
第一に、現代人のコスモポリタニズムのとらえ方への疑念。現代、一般的にコスモポリタニズムとして想起されるのはハーバーマスやドゥルーズらカントの系統をひく思想であり、これらはどこか理想主義的で、抽象的で、エリート的なものとしてとらえられている。その一方、ストア学派らそのほかの哲学者が提唱したコスモポリタニズムは影を潜めている。
第二に、現代世界ではポピュリズムや独裁政権の復権が進み、民主主義の危機が到来しつつあり、またヨーロッパ中心主義に対する疑問が広まっていること。これは,ナチスらが台頭した戦間期のドイツと共通して見られる現象だといえる。
一般的に、シェーラーは第一次世界大戦前にはヨーロッパ中心主義を唱え、またドイツの戦争参入を支持したことで知られている。しかし、彼は第一次世界大戦後に自らの思想を転換し、独自のコスモポリタニズムの枠組みの中で、ヨーロッパ哲学を位置付けなおす(Ausgleich)ことを試みている。従来のヨーロッパの自己理解を激しく揺さぶった第一次世界大戦後の時代は、自然と共生していた産業革命以前の状態への回帰を希求する勢力や、科学技術の進歩を推し進めることで人類を幸福にしようとした勢力が活発に議論を展開した時期でもあった。
その中で、シェーラーは、これらの勢力はどれも結局は人間の在り方に関する規範を求めようとするヨーロッパ的発想に基づいている、として批判した。そのうえで、ニーチェが主張した規範的な人間像である「超人(Übermensch)」をもじって、人間が規範にとらわれずに自己形成する「全人(Allmensch)」という人間像を提唱した。この議論を展開した上で、シェーラーは、Ausgleichというプロセスは二つの側面を持つと指摘している。一つは、Ausgleichはある概念を収束に向かわせていくということ。つまり、哲学に関していえば、ヨーロッパ哲学がコスモポリタニズムの枠組みの中で「世界の哲学(Weltphilosophie)」へ収束されていくことである。もう一つは、Ausgleichはある概念の個別性を強調していくこと。つまり、ヨーロッパ哲学はコスモポリタニズムの枠組みの中でかえって個別性が強調されるようになることである。シェーラーは、Ausgleichはこの二つの一見矛盾し、相反する力が作用しあうことで、右往左往しているように見えながらも着実に、ある理想へと向かうと考えていたのだ。
シェーラーが作り出す概念の多くはこうしたある種の矛盾をはらむものがある。「全人」という概念も、すべてを包摂するようにみえて、空疎にも思えるし、またAusgleichに作用する二つの力も明らかに相反するものである。現に同時代のドイツ人哲学者らはこの点を批判している。例えば、カール・シュミットは「中立化、脱分極化」、ハイデガーは「バランスを取ろうとするナイーブな立場」と批判している。
しかし、Wenning教授はこの一見矛盾するシェーラーの議論こそ、現在のグローバリゼーションを理解するうえで重要な視点となりうる、と指摘している。コスモポリタニズムの枠組みの中でヨーロッパ哲学を位置づけなおそう、という試みの中で生まれたこの視座は、グローバリゼーションをとらえるうえで大きなヒントになりうるからである。Ausgleichのもつ二面性は、そのままグローバリゼーションの二層性につながる。現に、同じ国の都市部と農村部の生活よりも、異なる国々の都市部における生活の方が、はるかに似通ったものとなっている点でグローバリゼーションは人々の生活を収束させていると言える。その一方で、国を超えたやり取りが盛んになる中で、かえって諸国の独自性が際立って認識されるようになっている。この二つの相反する傾向をとらえるうえで、シェーラーの思想は、レトリカルな側面を含みながらも、グローバリゼーションをとらえるうえで、一面的な理解を超えた視座を与えてくれる、豊かなものとして新たにとらえなおされることができるだろう、というのがWenning氏の最大の主張であった。
今回の発表は、1920年代のドイツ哲学の思想を、現代の視点を通じて再発見しようとするもので、非常に興味深いものであった。個人的には、様々な矛盾や相反する要素を含むシェーラーの思想はとても扱いづらいと感じたが、同時にそれを学ぼうとする者が具体例を想起してできる限り現実に即して考えようと努めれば、とても懐の広い考え方たりうるであろうと感じた。
こうしたコスモポリタニズム思想の再発見は、グローバリゼーション時代に対応する新たな思想を紡ぎだす上でのヒントとなるであろう。(文責:高以良光佑)