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梶谷真司 邂逅の記録99 映画と対話の出会い~中里龍造さんとのコラボイベント

2019.01.15 梶谷真司

12月23日に行った〈哲学×デザイン〉プロジェクト12(HPやポスターではそう記すのを忘れたが)は、映画監督の中里龍造さんとのコラボイベント。中里さんと知り合ったのは昨年のTED×UTokyoだった。

彼の映画作りは、みんなで話し合いながら進めていくので、全然できあがらない――完成しない映画を作る映画監督――結論の出ない対話をする自分と重なる。それだけで「中里さんとなんかやろう!」と、その時すぐさま思った。それで1年過ぎて、ある程度映画ができてきたタイミングで、イベントをやることになった。

中里さんによれば、「ぐるぐるまわる光の中で」は、不思議な成り立ちで生まれつつある物語。内容は「ある男女が、音楽ライブの撮影というフィクショナルな状況を通して出会い、互いに見たいものについて考える」というもの。

しかし中里さんは、監督が統括し、スタッフがその指示に従って動くようなヒエラルヒーのなかで映画作りをすることへの疑問を抱いていたという。スタッフが特定の役割分担をして、プロフェッショナルとして関わると、それぞれは自分の役割を果たすだけで、作品や制作全体を理解しなくなる。全員がそれぞれの立場から作品に向き合い、徹底的な話し合いを通して方針やアイデアを出しながら、全体が動いていけばいい。

ところがそうすると、映画の撮影は筋書き通りに進まず、すれ違いや摩擦のせいで時に混乱する。この映画じたいが、こうした制作のプロセスを表現したものである。映像には撮影スタッフも写っていて、メイキング映像のような面もある。どう呼んでいいのか分からない、おさまりの悪い映画。どんな居場所があるのか探している感じ。

それでもそこには何とも言えないエネルギーが生まれた。このエネルギーは何なのか? 作っている本人が、なんだかよく分からない。この「出来事」が何だったのか、ずっと考えている。すでに7年の歳月が流れ、映画はいまだ完成していない。

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実を言うと、今日のイベントも、このような終わりの見えない制作プロセスの一部なのだ。だから会場は、まるで撮影現場さながらの本格的な音響機器とカメラに取り囲まれている。上映のために部屋の照明を消して、持ち込んだライトで薄暗く照らしている。何とも物々しい雰囲気に、来場者は部屋に入るなり緊張気味。

そこで私たちは、来場者に注意事項を伝える――「今回のイベントは、映画上映会ではなく、皆さんはたんなる観客ではありません。この制作プロセスを見ながら自分たち自身がそこに参加ような感じだと思ってください。皆さんが発する言葉、態度が最終的な映画の中身、出来を左右するかもしれません。そういう自覚と責任感をもって参加してください。」

そして映画を上映。70分ほど。私自身もはじめて見た。いわゆる鑑賞用の映画としては、訳が分からない。どう受け取っていいか戸惑う。脚本に沿って演技をしているように見える部分、出演者へのインタビュー、スタッフが写るメイキングのような箇所、ドキュメンタリーのようでもある。どこまでがフィクションでどこからが現実なのかも分からない。

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休憩をはさんで、とりあえず映画についての質疑応答。中里さんと大竹さんが映画作りの意図や経緯を話す。しかしこれは鑑賞会ではないので、早々に切り上げ、映画の話から離れて、異なる人が一緒に何かを作るということについて問い出しをしてもらった。

一人一人の違いをどこまで許容すべきか?

同じ理解をしたとは何をもって言えるのか?

何かを作るのに目的は必要?

分からないものが分かるってどういうこと?

バラバラと一つは対立概念か?

分からないものが分かるってどういうこと?

何かを「つくる」としたら、それは糸を共有したことになるのか?

完成するってどういうこと?

 等々、全部で50以上の問いが出てきた。

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そのあと、今度は参加者がこれらの問いをグループ分けし、そこに共通する主なテーマを浮き彫りにする。その中からさらに問いを立て、最終的に「バラバラなものが一つになるのに何が重要か? バラバラなままではダメなのか?」についてs哲学対話を行った。

映画にも出ていたバンドメンバーが、ライブの時の一体感について語り、他方で普段の生活の中で一つになるように求められる息苦しさを語る人もいた。人に干渉したくない、されたくないという思いと、人とつながりたいという相反する思いの間で私たちは生きている。バラバラであることは、一つになることと矛盾するわけではなく、その条件なのではないか。バラバラだからこそ一つになれるのではないか。

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一つになるにしても、いい場合と悪い場合がある。一つになるには、誰かを排除しないといけないのではないか。バラバラでいいと言っても、家族や学校のクラスのように、それでは困る場合もある。何かを一緒にする、作るときは、やはり何らかの仕方でまとまらないといけないが、その核になるのは、お金のこともあれば、誰かに対する怒りや恐れの場合もある。そういうのではなく、みんなが尊重され、自由や自発性を守りながら、一つになるにはどうすればいいのか。お互いの関係性、場の作り方にどんな工夫が必要なのか――多くの問いと思い、考えが次々に出た。この対話が映画の完成にどう生かされるか、楽しみにしたい(この映画が「完成する」ってどういうことか分からないけど)。(梶谷真司)

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