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【報告】国際哲学オリンピック 2018 in Montenegro, Bar(4)

2018.06.18 梶谷真司

IPOモンテネグロ大会に参加いたしました麻布高校3年の高以良光祐です。国内選考・本大会ともに初めての経験だったこともあり、IPOでの経験は今まで知らなかった哲学の世界を新たに開いてくれたという意味で非常に貴重なものとなりました。今回国際大会に出て感じたこと、考えさせられたことを自分なりにまとめてみたいと思います。

エッセイ・ライティング、そして国際大会でのアクティビティを通じて感じたのは、自分で考える、ということの難しさです。「自分で考える」ということは要するに、様々な観点を吟味して、自分の意見をより明確にすることです。この際、様々な観点を吟味する理由は、価値観の多様性を重視しよう、といった考え方によるものではありません。反論されそうだと考えられる論点について考えることで、それを足掛かりに自分の議論をより深く考えてみるためなのです。
このことを痛感したのは、エッセイを書く中で、自分が正しいと思うことを論理的に説明することができないことに気付いたときです。哲学エッセイは、国際大会では4時間という時間制限内で書くもので、一般的に1時間~1時間半の時間を使って自分の主張をサポートするような論理の展開の構成を練ります。これだけでもなかなか大変な作業なのですが、もっと大変なのはそれを実際に言葉に落とし込むときで、そのとき展開の予想図通りにうまく議論が流れていくことはほぼなく、自分が重要だと思っていた論点がさほど重要でなく、大きな論点を見落としていたということがよくありました。さらには、自分の言いたいことを補強するために書いたことが、よく考えてみると自分の意見を根本から否定しかねないことに気付くということもたびたびありました。これはおそらく最初に課題文の主張に対して、「その通りだ」「そんなはずはない」となんとなく思ってからそのあとで論理を肉付けしていくと起こることなのだと思います。よく考えてみたら論理がおかしいと自分でもわかるのに結論だけとると直感的に正しいと感じてしまうことがあるのです。
これは別に狭義の哲学に限った問題ではありません。何時間も自分の考えと向きあってもこの有様ですから、私たちは立ち止まって考えてみれば自分でも違和感を覚えるような考えを平気で抱いて日々の生活を送っているのではないでしょうか。私たちは日常生活で“なんとなく正しそうなこと”をよく言います。その多くは互いに矛盾しかねないようなものばかりです。「一人一人の考えを尊重しなければ」、「常識的に考えてその考えはダメでしょう」。また「努力したら必ず報われる」、「うまくいかなかったのは努力が不十分だったからだよ」。私たちは何のためらいもなくこうした言葉をもっともらしく自分の口から発することができます。確かに日々暮らしていく中では、何事も深く考えていたらきりがないし、考えてもどうにもならないことだっていくらでもあります。でも、“なんとなく正しい言葉”や感情、直感でごまかされてしまい、見えてこない本質があると思うのです。それは生命倫理といったよく議論されるような大きな問題だけでなく日常生活の一コマにもあると思います。だからそこで立ち止まってみるべきだと感じます。そしてその方法として「自分で考える」ことがあると思うのです。

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私は国際大会を経て、他の人に自分の考えをぶつけることは「自分で考える」大きな手助けになると思いました。自分の意見(それがいかに平凡なものでも奇抜なものでも)が受け入れられるためには多くの人が納得できるようなものであることが不可欠です。それは様々な観点を吟味しなければできないことなのです。実際、国際大会のエッセイ・ライティングが終わってしばらくは、話題は自分がどのようにエッセイで議論を展開したかでもちきりでした。ある人が「芸術作品とは○○である」と定義した、と言うとそれを聞いた人が、では芸術作品だとは思えない△△も芸術作品にあたることになるが、それはどう説明するのか、というような会話があちこちで自然発生的に繰り広げられていました。そのような会話は、一人一人が自分の論点を持ち寄って真実に近づいていこうとする共同作業のようなものだといえます。別に有名な哲学者の名前を次々と列挙することは必要ありません。そこでのルールはある意味とてもフェアです。議論がきちんと論理的になされているのかどうか。たとえ直観に反するような結論が出てきたときでも、すぐに直感的に間違っていると断じてしまうのではなく、その議論のロジックが本当に正しいのかどうか素直に向き合うこと。この二つだといえます。
国際大会の参加者にはみな積極的にほかの人に考えをぶつけようとする意識がありました。その意識は、自分の意見を説得力もって伝えようとすることと他人の考えを受け入れようとすること、という二つの両立し難しいことをバランスよく心がけることで初めて成り立つことだと思います。ただ自分の意見を通そうとすると、相手の議論は何があっても反論されるものでしかなくなってしまい、その議論が意味しうることに真摯に向き合うことは困難になってしまいます。逆に他人の考えを受け入れすぎると、結局は個人それぞれの見方・感じ方、ということになってしまい、普遍的な真実の追求を放棄することになってしまいます。私はそのバランスのとり方を哲学オリンピックで垣間見ることができたと思っています。そしてそのような態度で哲学上の問題と向き合ったときにはじめて、他者からの指摘というものは自分の考えをより豊かなもの(より考え抜かれたもの)へと導く力となるのだと思います。

最後に、エッセイを指導していただいた引率の梶谷先生と榊原先生、そして北垣先生と林先生に心より感謝申し上げます。また、国内及び国際大会を通じて上廣倫理財団には大変お世話になりました。厚く御礼申し上げます。

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(文責:高以良光祐)

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