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【報告】国際哲学オリンピック 2018 in Montenegro, Bar(3)

2018.06.18 梶谷真司

IPOモンテネグロ大会に参加させていただきました石川賀之と申します。広島学院高校の生徒で、イタリアのトリエステにあるUnited World College Adriaticに現在留学しています。そのため今年は選考会もIPOも留学先からの参加となり、上廣倫理財団には特別にご対応いただき、心より感謝しております。また引率の梶谷先生、榊原先生をはじめ、北垣先生や林先生には練習エッセイの添削で大変お世話になりました。銅メダルという結果を出せましたのも、皆様のお陰です。報告文を書くにあたってまずお礼を申し上げたいと思います。

昨年のIPOオランダ大会に参加した後に留学をしたせいもあってか、去年とは格段に議論や会話に参加することができ、よりIPOらしさを体感することができました。初日に空港で出会ってから休みなしに声が枯れるまで世界中の若き哲学者たちと語り合うことのできる楽しさはやはり病みつきになる心地よさですし、別れを惜しんで浜辺で夜がふけるまで小さな輪になってお互いの意見をぶつけ合い、情報を交換し、尊敬できる友達と知を創造する営みは代え難いものです。そのIPOらしさ、ということについて少々話したいと思います。硬い文章になってしまいましたがお付き合い下さい。

他のオリンピックを経験したことのない僕が言うのも憚られますが、IPOの参加者は、何と言いましょうか、哲学というIPOの中心である学問に対して斜視的に捉えることのできる人間だと思います。もちろん競争の激しい国内予選を勝ち抜いてきた高校生たちなので哲学の知識には毎回全く圧倒されますが、所謂哲学それ自体よりも哲学的方法というもの —— 批判、論証、解釈、定義、応用など —— に関心がある参加者が多いという感じを受けました。議論の中でも哲学者の理論はあくまで参考文献的に扱われ、それをいかに応用するか、現実をどういう視点で新たに捉え直すことができるかが問題となり、それらが興味の方向を定めていきます。そのためか社会学的な事例(ジェンダーや政治、文化など)を哲学的に議論するような会話が多かったように思います。例えば、開会式の後のパーティーで三、四人と一緒に議論した話題は、僕が日本人だからというだけでたわいもなく始まったゲームの話からストーリー性の話題に移り、映画のストーリーの比較からそれをギリシャ演劇以降のカタルシスの延長として定義し、ゲームのストーリーがどの程度この系譜を引き継いでいるかまで(よくわからない内容に見えますが)息をつかせぬ白熱した議論となりました。この議論ももちろん各人が勝手な意見を別々に言っていた訳ではなく、絶えず反論し、「広い話題を先鋭化しつつ話題を発展させる」という矛盾しているようで実は途轍もなく筋の通った高度なテクニックであり、議論に参加しながらそれを垣間見たような気がしました。面白いのは、そういうテクニックは例えばディベート経験者など誰かが仕切って先導している訳ではなく、輪の中で自然に発展していくものであるということです。一旦話題が提出されたら議論を止めることはできず、様々な角度から事例を使いこなして論じ切る徹底した態度がIPOの特色であることは間違いないでしょう。もちろん結論が目的ではないので、飽きてしまうまで1時間でも議論を止めることができないのは厄介ですが。

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同時に、自然なようでたまに驚かされるのが、話されている言語自体は以外と簡単だということです。これも先ほどの斜視的という方法のひとつではあるのですが、たまに日本で哲学の議論をするときに現れる哲学の専門用語だけ使ったような用語だけ高度で中身のない議論は決して重要視されません。ポストモダンの思想が好きなら必ず言いたくなる「これって脱構築だよね」という発言も、結局は指摘にすぎず、ではその「脱構築」が必要になる背景は何か、どういう展望が見えるか、などを説明しないと意味を伴いません。もちろん議論の中では「脱構築」を知っていることを前提に話は進められていくものの、IPOの参加者は説明がとにかく上手で、そういう意味では参加者にとって議論へのアクセスのハードルが低いのではないかと思います。 参加者全員が口を揃えて言う「哲学はすべての学問の基礎である」という前提の中で知識偏重は否定され、知識よりも知識の再編を基にした論証が多かったのではないかという印象を受けました。何かを知っているという事実を批判的に捉えることは大変ですが面白い。

知るという作業と語るという作業は根本的に何かが違うのではないでしょうか。単純に知識の蓄積と活用という区分ではなく、それぞれの行為の起源が完全に違うのではないか。前者はどちらかというと自分という思考主体がこの世界にどの程度入り込むことができるか、そしてどの程度事実を自分のものとするかを測るものであり、よほど自分オリジナルの考えを持っていない限り知識の拠り所が例えば本であったり他人であったりして、自分という存在はもろいのですが、後者は他人の議論を基にして知識の創造それ自体に自分が参加することであり、結局は他人と自分の集合としての知識といった感じを受けます。もちろん議論の成果が形として存在する訳ではなく、個人が議論に賛成する必要もない訳ですが、この参加のプロセス、お互いに批判的に己の知識を捉え直す作業は絶えず新鮮です。そして意味があります。

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モンテネグロでの5日間は僕にとっては物凄い刺激になりましたし、自信にもなりました。IPOという桃源郷から「下界」に帰ってきてまず考えたのが、上述したような環境の特異性、哲学オリンピックに参加することの意義でした。もしこの報告文を読んでいらっしゃる方の中で中学・高校生がいらっしゃるのであれば、迷わず国内予選に応募してみて下さい。必ず視野が変わると思います。

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(文責:石川賀之)

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