【報告】フレデリック・セヴジェ准教授講演会
駒場キャンパスにて、東京大学ヒューマニティーズセンター(HMC)とUTCP共催、東大友の会支援、イェール大学マクラミラン国際地域研究所後援で、第12回山川健次郎記念レクチャーが開催された。今回は、イェール大学政治学准教授のFredrik Savje先生をお迎えした。
セヴジェ先生の御専門は政治学であるが、政治の場面における数量データ解析を中心にした御研究をなさっていることから、駒場では『因果とデータ(原題:Causality and Data)』と称して、対象を学部生レベルにして御講演いただいた。
政治学の面白さは、哲学的な問いを背景に持ちつつも、数値データを用いることにより実証的に研究できる対象たりうるということにあり、人間の社会的営みである「政治」を様々な角度から論じることができるところに、政治学の面白さがあると思うという前置きから、先生の講義は始まった。一口に因果といっても、データ解析においては、各パラメタ間に相関が見られるから因果(causality)と言えるのか?あるいは相関(correlation)が見られれば即因果と言えるのか?といった問題があるが、先生は次の例を挙げて、相関を因果として捉えることの誤謬を指摘された。「家庭教師をつけていた学生の方が、成績が悪い」という数値データが、成績結果として出た場合、「家庭教師をつけることが成績を悪くするという因果関係がある」というように言えるのだろうか?
こうした問題に対し、家庭教師の有無と、成績の良し悪しに相関関係が見られたとしても、その前提条件まで含めて考えないと、そこに因果関係が見いだせるということは結論できない。もしかしたら、もともと成績の悪い学生が家庭教師をつけていた可能性があるかもしれず、そうすると、「家庭教師をつける学生は成績が悪い」という単純な因果図式は描けないはずである。すなわち、データから得られる直感的な、直接的な因果関係だけを論ずるのではなく、関連する周辺情報を如何に多く集めることができるか(収集データの種類)、また、データ収集の前提(前提条件)をどこに設定するのか、ということ次第で因果と考えられる関係は変化し、従い、因果関係と相関関係の差異を焙り出す作業が必然として必要となってくる。一見すると「因果と相関の誤謬」について、「因果関係がある」と当たり前のように考えられている事例が、実は疑わしい因果関係である可能性である事例は、社会においては散見されると指摘された。例えば、アスピリンと頭痛の関係(アスピリンを飲めば頭痛が治る)は因果なのか、相関なのかは、多くのデータ収集や前提条件の差異に応じて、その関係が因果関係ではないという可能性もあり得るということを示唆していると、説明された。
では、こうした「因果と相関」の曖昧な関係性について、どう対処すれば良いのか?先生は、こうした問題について、次に示す4種類のアプローチが定義されるとした。1)ヒューム的(Humean):規則性や必然的関連性に注目、2)機械論的(mechanistic):どのようXがYを生じさせるのか説明、3)反事実的(counterfactual):事実に反する世界を想定して検証、4)操作的(manipulation-based):ある行動の結果としての因果を閉じた系で検証。このうち2)の機械論的アプローチは、基礎物理学に見られるアプローチに代表されると指摘し、因果というのは、ある種の枠組み(部分集合)の中でしか証明しえないことを示された。すなわち、ある仮設を立て、数値データを数式として組み立てていく際に、WHY質問(例:どうして○○は▽▽を誘発するのか?)そのものが入らないように、むしろWHY質問を定義として、数式を組み立てていくことによって、因果が成立する枠組自体を定義することでしか、因果があることを示すことはできない。また、その際に、WHEN(時間概念t)をパラメタに入れていかないと、時間に依存した各パラメタの変化を示せないため、相関の可能性を拭えないとも指摘された。また、時間概念を取り入れることに加え、立てた数式の仮説検証のために、様々なキャリブレーション手法が存在することにも、簡単に触れられた(クロスセクション比較など)。
先生の講義の後には、様々な質問が学生から提出され、大変活発な議論が展開された。ある種の定義づけにより問題を単純化して論じることによる弊害、数値データで一見すると因果があるように見せかけてしまうことについての弊害、また、すべては人間中心主義的な概念に基づく因果関係である可能性や、質的なものをどのようにしたら量的数値的データに転換できるのか、またそれが可能だったとしても質を数値データに置換する際の定義自体を疑う必要性もあることなど、様々な問題が指摘された。セヴジェ先生は、最後に議論の締めくくりとして、様々な指摘された問題については、本来であれば、提示されている様々な数値モデルについてメタ分析すること必要性を認め、因果を示す手法として提示されている数式化という方法論自体を問い直す必要性も出てくるであろう、とされた。また、例え、定義の段階で合意されたとしても、質的なものを数値化することに対する真の意味での不可能性については、それは拭い去れるものではなく、常に議論対象となるであろうし、先生御自身もこうしたことを念頭に置いた上で研究したいとコメントされた。大変白熱した議論は尽きることなく、場所を移して、夕食を囲みながら、11時近くまで学生を交えた楽しい議論が続けられた。(文責:佐藤麻貴)