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【報告】フィリップ・トーマス氏講演会:前半

2018.06.11 梶谷真司, 佐藤麻貴

学校教育において、哲学はいかなる理論的貢献を果たすことが出来るか? それが今回、フィリップ・トマス氏が行った問題提起の大枠である。トマス氏はここで、二つの哲学思想の思考法を、学校教育において用いることを提案している。それが「ポストモダニズム」および「現象学(phenomenology)」である。

20世紀の思想界を彩ったこの二つの思潮が、いかにして生徒が自ら思考する際の「導き」となるのか。その点こそが、トマス氏の講演の中心問題であった。実際、グローバル化が進み、「多文化共生社会」が推進される中、これまでのような古典的・合理主義的な道徳・倫理教育の方針を変える根本的な理論として、哲学の社会的な役割というものは、今日飛躍的に増大しているのだ。そうした試みの一環として、トマス氏は非常に先駆的な問題提起をUTCP主催の会場で行ってくれた。

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まず、ポストモダニズムがもたらした哲学的貢献とは、認識主体としての我々が形成する知識の総体と、私たちの主観性から独立に実在する「世界」の総体とが十全に「対応」するわけではないという「真理の複数性」の思考である。ここでトマス氏はリオタールやレヴィナス、そしてローティなどの哲学者の思索を引き合いに出しながら、近代哲学が念頭に置いていたような「大きな絵画」(形而上学的世界像の隠喩)の不可能性を論じた。言い換えれば、単一の実在や真実の表象の原理的可能性が示されたことによって、そうした思考の原理を前提に置いた道徳教育や古典的倫理学の「植民地主義」や「全体主義性」が、ポストモダニズムの思想家たちによって示されたのである。真理の複数性を許容するということは、異なる規範のもとで生きる「他者」の存在を認め、「共に生きる」ということである。こうしたポストモダンによる脱構築の思想こそは、実りある教育の目標を達成しうるものであるとトマス氏は述べる。

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続けて、トマス氏はフッサール、ハイデガー、メルロ・ポンティといった現象学者の思想の要点を説明し、そこから現象学の可能性を描き出す。要言すれば、現象学の可能性とは、「人生や世界の深みを開く」ということである。「意味」とは、学校教育で子供たちに仕込まれるような科学的・実在論的世界観に先立つ「生活世界」において根源的に生起する存在である。現象学は、こうした前科学的・前概念的な「意味」を主題的に取り上げ、その「深み」へと至る理路を繋ぐ哲学運動である。まさにこの点こそが、哲学教育における重要な側面であると、トマス氏は述べるのである。現象学的な方法によって生徒たちに「導き」を与えるときにはいつでも、私たちは生徒たちに対して、自らが世界の中に存在するということ、そして、人生と世界の中に自らが根差しているという事実性を、自覚的に意識するように働きかけることができるのである。トマス氏は、「共同主観性」という人間存在の可能性の条件を、主観的な実体である個人がお互いに影響を与えるような描像ではなく、むしろ両者の主体性がそこから発展するような共通の地盤として捉え返す。その世界の中で、私たちは自己を経験し、人生を生きるのである。このような現象学的態度は、「大きな絵画」の中へ人々を押し込めることなく、私たちの経験を再構築することを可能にするのだ。かくして、トマス氏は、これら二つの現代哲学の思想の系譜が果たす哲学教育への理論的貢献の可能性、およびその内実について、その素描を提示したのである。

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こうしたトマス氏の貴重な講演に対して、非常に活発な意見が提出された。そのときの議論のあらましを簡潔に振り返るならば、それぞれポストモダニズムと現象学の理論的可能性についての質問が大部分を占めていた。例えば、ポストモダニズムの代表的な思考スタイルとして「真実の表象」や「単一の実在」の原理的不可能性が主張され、そこから他者や世界への「開き」が唱えられることになるが、しかし果たして、そうした思考法は「相対主義」の問題をどこまで回避できるのであろうか? ここで「歴史」の授業の場面を念頭に置くと、そこに一つのジレンマが存することを確認することが出来る。この世界に正しい表象はない。ところで、歴史とは公的に是認された各個人による過去の表象である。そうであるならば、私たちはいかようにも歴史を語ってよいのだろうか? この問題は、まさにドイツにおける「歴史家論争」の中核部分である。このとき、トマス氏は「事実」の概念こそが問題であると述べられていたが、まさに論争の焦点は「事実」概念に多義性に集約されることになった。

また、哲学の専門知識のない生徒たちは、そもそも現象学的思考スタイルを本当の意味で会得できないのではないか、という指摘もあった。「人生の意味」とはすぐれて哲学的な問題であるが、多くの生徒たちにとっては容易に「飛び越えられがちな」問いであることもまた事実である。そこでトマス氏はそれらの意見の妥当性を認めつつも、だからこそ哲学教育こそが、そうした「意味」をめぐる問いを発し、生徒たちが「自己」について思索し、その上で「自己」を経験するという営みを、学校教育の現場で行っていくことが必要であるという考えを示された。こうして、実りあるトマス氏の貴重な講演に始まり、そこから示唆を得た東京大学の大学院生および研究者による活発な質問にトマス氏が多角的な視野から応答するという形で、前半のセッションは終了することとなった。(文責:山野弘樹)

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