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【報告】第1回 Frontier Author's Talk

2018.02.08 梶谷真司, 石井剛, 國分功一郎, 文景楠

先に本ブログで報告した第1回UTCP Frontier Author"s Talk に関して修士課程で学んでいる学生が力のこもったレポートを寄せてくれましたので、以下にその全文を掲載いたします。

2018年1月19日、UTCPの新たな企画として、UTCP Frontier Author’s Talkの第1回が開催された。まず会の開催に際して、石井剛先生から企画趣旨の説明がなされた。本企画は、過去にUTCPに関わり現在最前線で活躍する研究者の方々とUTCP自体の関係がやや希薄になっている現状を踏まえ、そうした研究者の方をふたたびUTCPへお招きし、駒場の教員、UTCP若手研究者、修士以上の院生が小規模に集まり、その方のいる場で直接、当人の活動・著作について密度の濃い議論を交わし、第一線の研究者とともに豊かな知を、このUTCPという縁の地において生み出すことをめざして立てられたものである。その記念すべき第1回は、昨年大きく話題となった『中動態の世界──意志と責任の考古学』(以下『中動態』)の著者である國分功一郎氏(高崎経済大学)をお迎えして、『中動態』の合評会として行われた。

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本合評会は、二人の代表質問者、文景楠(東北学院大学)と宮田晃碩(東京大学大学院博士課程)のそれぞれの問いかけに対してまず國分氏が回答したあと、質問を参加者全体から受けつける、という形式で進められた。参加者からの質問は、代表質問者の提起した論点におよそ収斂するものであったように思われるため、以下では、まず二人の代表質問者の問いの論点を概観し、そのあとそれらの論点に沿ってどのような國分氏の回答とさらなる議論がなされたかを追う、という順序で報告を進めたい。

文はまず、アリストテレスの著作における中動態という語の形の存在が「する」「される」の外部の意味の存在を帰結するわけではないことを、アリストテレス研究を踏まえて指摘したうえで、『中動態』の議論の根幹をなす、言語の文法と思考の在り方の関係について話を進める。文は、語彙に現代の「意志」に正確に対応する語がなくともそれに近い意味の名詞の形で、中動態においても意志の概念を導入できることから、『中動態』の主張の方向性をごく単純化した「或る言語において能動態と受動態の対立がなければ意志の概念はない」という議論を否定し、さらに、「される」の意味の側に属するギリシア語単語が形としては能動態である例や、能動態や受動態を使っていても意志をもつ行為者を想定せず「中動態的な意味」を表しうることなど、語の形と意味の錯綜した関係の具体例を挙げて、言語の特定の文法構造から(社会や歴史のレベルにおける)異なる思考の在り方の可能性を読み取ろうとする『中動態』のリサーチプログラムに(このプログラムの困難は國分氏も自覚しているだろうと留保をつけつつ)懐疑を示す。

さて、ここまで批判を加えてきた『中動態』における言語と思考の関係の議論は、その議論が強調する「中動態の世界」──出来事だけがあり、意志や責任のない世界──という概念が、意志や責任の問題を考えるための補助線として役立つからにすぎないと文は理解し、批判の焦点を『中動態』における意志や責任をめぐる議論へと移す。そこで文が批判するのは、スピノザ形而上学が描き出す「中動態の世界」における倫理の意味である。スピノザの世界観では、世界は唯一の実体である神そのものであり、世界に現れているすべてのものは神の変状である。ゆえに真に原因であるのは神のみであり、その結果も何らかの変状としてある神自身に返ってくるのだから、すべては中動態的な出来事にすぎない。このような世界で、人はいかにして能動でありうるのか。スピノザによれば、自らの本質が表現されず、自身の外部からの刺激にされるがままになっているのが受動的な状態である。そこから、自らの本質を認識し、外部から刺激されつつもそれを引き受け、本質を十分に表現しつつ行為して受動的な状態を脱するとき、人は能動的であり、自由であるとされる。この「自らの本質を認識することで、自らの本質が表現されていない状態から表現されている状態に変える」という姿勢こそが、スピノザ形而上学における倫理の眼目であろうが、しかしそれは、依存症といった困難を抱えた人々に対してどのような意味をもつだろうか、というのが文の問いである。そもそも、自らの本質などどうやって認識するというのか。そして、自らの本質を認識できず苦しむ人々、そもそもそれ以前に受動的な状態から脱すべく一旦「気をそらして頭を冷やす」こともできず苦しむ人々に対して、「それがそのままあなたの本質なのであり、あなたはすでに自由なのです」と声をかける以外のことができなくなるのではないか、スピノザの描く「中動態の世界」に能動性の契機など本当はありもしないのではないか、と文は危惧する。

宮田は、そのような「中動態の世界」における主体性について再考する。意志のない世界で、どのように主体性・人格性を考えることができるのか。そこで注目されるのが、スピノザの倫理における「自らの本質を認識する」という契機である。宮田は、アレントの「意志」概念について、『中動態』における読解とは異なったところに力点を置いて解釈をすることによって、アレントから「「意志」とは、現実を「偶然的なもの」とみなし、そうではない可能性を想像する能力である」という説明を引き出す。この「意志」概念を、スピノザの世界、そして当事者研究における苦しみの語りに重ねることによって、「中動態の世界」においては、もとより辿り着けないものとしてある自らの本質、それを認識できないという苦しみを、問いとして抱え続け、別の在り方を模索し続けることにこそ主体的な「意志」を見出すことができる。このように、「中動態の世界」という世界観を通じて、「意志」概念の別なる積極的な可能性を提起することができる、と宮田は示す。

以上が二人の代表質問者の議論の提要であり、大まかに、文からは「言語と思考の関係」・「スピノザにおける倫理」、宮田からは「意志と責任の捉え直し」という論点を(もちろん互いに重なり合う部分はあれども)取り出すことができる。以下では、この三点をめぐる國分氏と参加者の議論を粗描したい。

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「言語と思考の関係」について
中動態が姿を消し能動態と受動態の対立だけが存在するようになっていったという語の形のうえでの変化と、その言語を用いる社会における意志概念の有無をどこまで結びつけて語ってよいかは、文が正しく見て取ったとおり自身も悩んだところであると國分氏は言う。やや物語的な語り口をとりすぎたかもしれないという留保をつけつつも、國分氏は、誇張的な書き方をすることによって、現代における常識的な意志、責任への考え方を相対化することをより強く促すねらいがあったと主張した。また、語の形の変化とそれが表現する思考の変化は、社会における傾向性のレベルでは、まったく関連がないとまでは言い切れないのではないか、とも國分氏は回答した。参加者からは、やはり文の分析どおりそもそも語の形と特定の思考様態はまったく結びついていないのではないかという意見も提起され、議論は平行線を辿った。

また、次の「スピノザにおける倫理」の論点とつながることだが、本会に同席した当事者研究に携わる熊谷晋一郎氏から、依存症やトラウマで苦しむ人々は言語化・象徴化の作業を必要とするという話があったのち、この言語化という作業はまさに「自らの本質が表現されている状態に変える」ための一契機となりうるのではないか、思考を言語にもたらすことがスピノザの倫理とつながるのではないかという話題になった。國分氏によれば、スピノザにおいて言語は問題にのぼらないのであり、新たに言語の観点をスピノザ読解と接続するという可能性が今後の研究について提起された。

「スピノザにおける倫理」について
「自らの本質をどうやって認識するのか」という問題に対して、國分氏は、自身の著作『スピノザの方法』における研究を踏まえ、スピノザにおける本質の認識では、デカルトのようなつねに懐疑を抱きエビデンスを積み上げるような知の取得ではなく、直観的な知の取得が考えられていると説明を加える。しかし参加者からは、それはある種の妄想にすぎないのではないかと指摘がなされた。

また、スピノザの倫理が依存症に苦しむ人々に対して言えることについては、頭を冷やして苦しみから抜け出すということができなくとも、苦しみを抱えながらもその苦しみを言語化・象徴化などによってなんとか対象化しようとしてみること、それによって人の心は変わりうる、この変化をめざすことの価値をスピノザの倫理から訴えることができると國分氏は主張するが、同時にその変化がはたして当人の本質に近づくような善い方向の変化なのかはわからないとも言う。

報告者の意見を差し挟むならば、スピノザにおける倫理は、國分氏も言うように倫理を語るうえで一般には欠かせない「他者」という要素についてもあまり説明がなされていないなど、全体としていまだ積極性、具体性を欠くものであるという印象が拭えない。さらなる研究が必要であることは國分氏も認めるところであり、意志や他者、道徳的善といった論点についての他の哲学的議論と接続することでスピノザの倫理の可能性をさらに引き出すことが今後に期待されるだろう。本会での宮田による「意志」概念の更新は、そうした期待に応える研究のひとつと言える。この宮田の発表に対してどのような議論がなされたか、最後の論点に移りたい。

「意志と責任の捉え直し」について
本書は、常識として信じられている「単純な」意志概念──過去を断ち切って、かくあるべしという方向に自身を変化させようと決断する意志──を適用すれば、依存症患者に対してそれを行使しないことについての責任が帰せられてしまうが、しかしことはそれほど単純ではないと批判することをめざして書かれたものである、だからこそ本書は医学書院の《シリーズ ケアをひらく》から出版されている、と國分氏は前置きしたうえで、たしかに本書は「中動態の世界」における新たな意志、責任、主体、刑罰といった概念を扱うことができなかったと認める。「中動態の世界」においても、自由に至るためにはもちろんある種の意志を必要とするのであり、宮田の発表はそのひとつの可能性を確かに示すものであっただろうということで一致を見た。

以上が本会の内容の報告である。企画趣旨にふさわしく内容の濃い議論がなされ、本企画の次回以降にも期待のかかるところである。

(文責:田中 斗望)

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