【報告】 ANU-PKU-UTokyo Winter Institute 2018 (3)
3日目の午前において、早くも「批判的地域研究―共生の理論と実践」における一つの概括が行われたといえる。Pickering氏がモデレーターを務める中、午前中から積極的な議論が行われた。中でも興味深いのは、とりわけ認識論的な問いが盛んに提出された点である。
昨日から問題となっていたのはuniversalizationの概念であったが、当概念とglobalizationの差異はどこに在り(佐藤氏)、あるいはまた、純粋かつ絶対的な知識が不在である中(Biccum氏)、我々はいかにして知識を universalize するのか(Schmidt氏)という提題がなされた。
続けて、日常的な生活世界に対する学問の寄与とはいかなるものであり(北川原氏)、その中でもとりわけ哲学はいかなる役割を演じるものなのか(Cunio氏)という議論が展開された。ここで示唆的なコメントを述べたのはZhang氏である。平均的な理解の彼方に忘却されてしまう「問題提起」を保存することこそが学問の役割なのではないかという氏の論点は、懐疑論的な議論に陥りがちなポスト構造主義以降の思想風景に一条の光を与えるものだと言えよう。
午後からは二つのセッションに分かれたシンポジウムが行われた。初めに Jiang氏によってよる「アフリカ研究における複数性と相対性の概念についての政治的批判」の提題がなされた。その中でも氏の論点は、文学を通したアフリカ研究を行う際に鍵となるのが「多‐主体性(Multi-Subjectivities)」であるという点に約言される。ポストモダン的な批判に立脚することで、アフリカ文学がuniversalizationを考えるにおいて非常に有益になりうることをJiang氏は主張する。
続いてPickering氏によって「言説」と「翻訳」をめぐる現在的問題が提題された。ここでもとりわけ盛んに議論されたのは認識論的な問いかけである。異なるポジチョナリティーに位置づけられた多様な概念や知識といったものを、私たちはいかにして和解することができるのだろうか(Schmidt氏・Cunio氏)。そして「翻訳不可能性」の問題は、「共生のプラクシス」を考えるにおいて枢要な問題となることが議論された。
続けてFoley氏による「莫言(Mo Yan)は『世界文学』を書いたか?」との提題がなされた。莫言とは2012年にノーベル文学賞を受賞した中国の作家であるが、Foley氏の議論の中で興味深い点は、莫言のフィクションは『世界文学』となる可能性を秘めているという点をフィクション論の観点から分析している点である。むしろ「我々が現実だと思っているものとは何か」という点が問われ直されているのである。そこに現実とフィクションとの間の交換可能性が存し、同時にフィクションが現実に支配的な言説経験を乗り越える方途を示しているとの議論がなされた。
途中の休憩を挟み、初めに議論を展開したのは社会学者の園田氏である。当議論において、氏はいくつかのリサーチ・プログラムの実例を紹介しながら、中国研究における氏の経験を振り返るという実り多い思考の軌跡を展開された。このように、社会学という隣接諸科学との連携を実現しつつシンポジウムが構成されている点は、まさに今回のWinter Instituteの「学際性」を象徴していると言えよう。
続けてBiccum氏によって行われた提題は 「グローバル・シティズンシップ」及び「知識の政治学」をめぐる市民教育の問題であった。ここで指摘された問題点は、市民教育の非体系性、また無批判な革命思想に傾きがちな点である。議論の中で、Biccum氏は、政治的変化を達成できる人物こそが「市民」であると述べる。その最中、力強い支配力を持つ「より大きな歴史の物語り」に対置される「植民地史」の可能性を論じた点は、二日目に行われたNugent氏の議論とも通じるものがあり、「歴史の政治性」を考えるにおいても有益な討論となったと言えよう。しかし、フロアの中からは、例えば中国などの環境ではどのように導入すればよいのか(Ziang氏)、市民教育をいかにして「採点」していくのか(Pickering氏)といった点が議論され、活発な意見交換がなされた。
三日目を通して行われた議論を総括する形で、中島氏が本日の知的交流の結節点をまとめられた。知識のネットワークが有機的にとりまとめられた中で、知識論・認識論をめぐる問題が「保存されるべき」問いとして、シンポジウム参加者に共有されたと言えよう。
文責:山野弘樹