【報告】高校生のための哲学サマーキャンプ報告 〈前半〉
2017年8月1日(火)から8月2日(水)にかけて、国立オリンピック記念青少年総合センター(東京・参宮橋)および東京大学駒場キャンパスKOMCEE West K303において、「高校生のための哲学サマーキャンプ」が開催された。1日目の様子についてチューターの田渕より報告する。
[開会式と講義]
キャンプは講師の梶谷真司先生(東京大学・UTCP)と林貴啓先生(立命館大学)による開会の挨拶で始まった。引き続いて梶谷先生より、「思考の組み立て方」に関する講義が行われた。哲学とは問い、考え、語ることであるといった話や、頭ではなく目と手で考えるのだという話に、高校生たちは頷いたり首を傾げたりしながら真剣な表情で耳を傾けていた。
[第一セッション:哲学対話]
講演の後、参加者は用意された四つの課題文のうちから一つを選んで哲学対話を行った。課題文は以下の通りである。
1. 人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁くその裁きで、自分も裁かれ、あなたがたが量るそのはかりで、自分にもはかり与えられるであろう。(『新約聖書』マタイによる福音書)
2. 私たちが見るものを同じように見て、私たちが聞くものを同じように聞く他人が存在するおかげで、私たちは世界と私たち自身のリアリティを確信することができるのである。(ハンナ・アレント『人間の条件』)
3. 大いなる道が廃れると、仁愛や正義が唱えられるものだ。さかしらな知識が広まると、大いなる偽りが出てくる。家族が不和になると、子どもの孝行が話題になる。国が混乱すると、忠臣なるものが現れる。(老子)
4. 夏草や兵どもが夢の跡 (松尾芭蕉)
(写真はグループ3の哲学対話の板書です)
この哲学対話の主な目的は、「思考を広げて深める」ことである。すなわち、課題文に関連する問いを出し合い、出た問い同士の関係を探り、さらに問いに関わる具体的な論点についても議論を行う。報告者が参加したのはアレントのグループであったが、ある人の「リアリティを感じるのはどんな時か」という問いに対し、他の人が「リアリティとはそもそも感じるものなのか」という問いを提示するなど、対話だからこそ生まれる問いの広がりが見られたのが興味深かった。今回の参加者の中には、哲学対話に慣れている人もいるように見受けられた。一方で中には対話にうまく参加できなかったと感じた高校生もいたかもしれない。だが、たとえ一瞬でも対話の中で語られていることに納得できた瞬間や、自分の問いが生まれた瞬間があったなら、その感覚を大切にしてほしいと思う。
[第二セッション:ストラクチャーの作成]
第二セッションでは、哲学対話で出た問いや論点を参考にしつつ各自がエッセイのストラクチャーを作成した。高校生の手元には、「哲学エッセイの設計図」というタイトルのプリントが一部ずつ配られていた。プリントには、上部にエッセイ全体の問い、下部に結論を書く欄があり、その間に3章×各章3節ずつの計9つの枠が設けられている。梶谷先生からは、これら9つの枠をなるべく均等に埋めるようにというアドバイスがあった。
だが、1時間という限られた時間の中でそれを成し遂げるのは大変難しいことである。実際、一部しか書けなかったり、全て埋めてはみたものの途中の議論が十分では無かったりと、満足のいく出来とまではいかなかった高校生も少なくなかったようである。一度考えを設計図に書き起こしてみることは、議論の足りない部分を明確にするためにも、自分の立てた問いの大きさが適切であったかを確認するためにも重要なことであるように思われた。
[夜の哲学対話]
夜には土屋陽介先生(開智日本橋学園中学校)のファシリテーションのもと参加者全員で哲学対話が行われた。テーマは、参加者があげた幾つかの候補の中から、多数決により「世界平和はなぜ実現できないのか、そもそも実現可能なのか」に決定した。とは言っても、最終的に対話のほとんどは平和の定義に関わる発言や問いで占められ、平和という概念をめぐる多種多様な意見が参加者から出された。全体での対話の締めくくりに土屋先生は、「こういった対話ではよく、ぐるぐる回って最終的に1ミリだけ進んでいるということがある」というお話をされた。こと平和に関して、こうした結論の出ない議論を報告者自身はもどかしく感じてしまうことがあるのだが、結論を出すことを目的にしない対話だからこそその中で生まれてくるものもあるのかもしれないと考えさせられた。
その後は平和について引き続き話すグループ、別のテーマで哲学対話をするグループ、チューターと話をするグループに分かれ、各々が思い思いの時間を過ごした。参加者にとって、他の高校生やチューターと語り合うこうした時間が有意義なものとして感じられていれば幸いである。
(文責:田渕あゆ[東京大学前期教養学部])