【報告】Delicious Movement in Tokyo (3)
本ブログは、6月10日、17日、24日に東京大学駒場キャンパスで「Delicious Movement in Tokyo 2017」が開催された短期集中講座の報告を第3弾です。
身体を起点にする学び、動きは、隣人(参加者同士)および時間と場所が離れた人や出来事に近づき、そして自身の場所と時間に帰ってくる。しかし、それは変わらない自分にではない。最終日の課題図書の林京子著『再びルイへ。』では、長い時間をかけた被爆者の生の終点と参加者の生きている現在(ポスト福島)が一致した。身体を動かしながら、個人的な関わりを手探りに「第二次世界大戦」「原爆投下・原爆実験」「福島原発のメルトダウン」との距離を詰め、現在の時間と場所に辿り着く。既に歪み、跡のついた時間と場所に在る、自分自身の身体へと。そして、それからも、動く。この授業で「動き」は命であり、また個であり、時代だ。生まれる前からはじまり、時代の流れに逆らいながら、流されながら、個の命は動く。
Photo: William Johnston
講座を終えて、米国カリフォルニア州出身の参加者は「私の身体は私にとっての他者であり、意志から独立して未知のものを常に取り込むが(食べ物、景色、他人、それに関連する感情)、欠乏を内在している故に新たな需要と受容をもたらす。身体は私にとって未知であり脅威だが、かつ唯一の世界との接点であることを学んだ。」と書いた。また、東京からの参加者は「人だけに限ったことではなく、ここまでの人生の課程、自分が出会った多くの人や事柄や出来事、歴史、社会との関わりの中に、自分は生きている・生かされていると実感することができた」と感想を述べた。
筆者は学部生時代に永子さんの授業を履修し、その経験を日本の人たちと共有したい思いで、今回の講座を企画した。ダンス経験の有無を問わず、年齢も職業も多様な参加者が集まり、授業の構成には永子さんと共に工夫を凝らした。それぞれが仕事や学業もあるなか、それでも書かれてきた参加者による毎週の課題は、はっとするような思考や気付きに溢れていた。「社会人になっても(または学生も社会に生きる人間として)真剣に学ぶ場所を作りたい」という筆者の願いも、まだ実験的な形だが、現実になってきたという実感を得たのである。
Photo: Eiko Otake
以下に日本で開催した「Delicious Movement」と米国でのそれとの比較を述べたい。あらゆる意味で比較できる対象でないと意識しつつも(講座の日数、参加者、教育、言語、その他)、以下の点は見過ごせない。今回の課題を次回の企画に練り込んでいきたい。
• 米国ではそれぞれの参加者が対象(原爆、福島、アメリカ)と異なる距離を持ち、日本のそれに慣らされていた筆者は自分自身を疑い、明らかにする機会を得られた。コリアンアメリカン、フィリピン人、退役米国軍人の孫、その他。これらのクラスメイトに囲まれ、筆者が「日本人」であることがあらたに意識され、自分と対象との距離を批判的に見直し変えようという気持ちにさせられた。対して日本では、多様な参加者とはいっても、学習対象との距離は大きく異なることはあまりない。家族の背景は少し異なるにしても、本やテレビ、学校教育により、ある一定の距離感が外側から築かれがちだ。クラス内での環境や意見の多様性は、個人が想定された枠組みに疑問を持ち、理解と批判力を自らのものにするのに良い条件である。筆者は米国でそれを実感した。
• 今回のワークショップは多種多様で、しかも積極的な人が集まったのだが、集団における対話は、米国で筆者が経験したものとは違っていた。間髪入れずに相手の発言に上乗せして対話が進んでいく米国と、順番が回ってくるまで、もしくは相手が話し終わるまで待つ、または沈黙する日本。集団のなかで自分の意見を発言することは個人の成長と集団の知識にプラスだと筆者は思う。これは今回の講座に限らず、日本の職場や学校で筆者がしばしば直面する課題である。しかし今回は小さなグループでの討議は盛んで、与えられた時間を超えて話し込む姿に、新しい可能性も見た。
末筆になるが、今回の開催と運営に多大な支援と協力をいただいた、共生のための国際哲学研究センターの梶谷真司教授と研究員の八幡さくらさん、佐藤麻貴さん、クラウドファンディングの支援者の方々、また東京大学大学院岡田猛研究室と公益財団法人石橋財団に、厚く御礼を申し上げたい。
文責:青木光太郎(メディアデザイン研究所)