【報告】第25回 国際哲学オリンピック・オランダ大会
日本代表 石川賀之(広島学院高校2年)くんの報告
五月末にオランダで国際哲学オリンピック(IPO)に参加しました、石川賀之と申します。僕にとっての初めてのヨーロッパでしたが、美しいロッテルダムの街でこのような素晴らしい大会に参加できましたこと、引率の梶谷先生、林先生、上廣倫理財団事務局の佐々木さん、そして北垣先生に心から感謝いたします。
中三で興味を持ってから、高二の現在まで哲学とは二年の付き合いになります。実は昨年のベルギー大会に兄が参加しており、その時の兄のルームメイト(インド代表)が今年もなんと僕のルームメイトだった、というハプニングもあって色々と縁を感じました。しかし、その哲学がここまで面白く、不可解で、そして厳しいものだとは、実際にIPOに自分が行って初めて気付かされました。正直いうと、周りに圧倒されるシチュエーションの方が多かったです。昨年の大会がよほど衝撃だったのか、兄からは、議論に歯が立たなかった、英語のレベルが高すぎて最後頭痛になった、入賞するのが精一杯だったなどと散々言われてきたので、いったいどれほどのものかと身構えていましたが、案の定そうで、英語で頭痛になりはしなかったものの議論やグループワークではレベルの違いを痛感せざるを得ませんでした。
ディスカッションと呼べるような行事は一度だけ、3日目にHet Nieuwe Instituutという建築博物館で、大会のテーマであったTolerance(寛容)の定義を議論しました。後にも先にも大会中でこれが一番の衝撃でした。日本ではあまり見ない光景ですが、IPOでは参加者が全力で議論をしてきます。話を遮られて引っ込むのは日本人(残念ながら僕はそうでしたが)だけ、他の国の参加者は、自分の意見を何が何でも通そうと、そして聞かせようとします。僕のグループだけ攻撃的だったのは事実ですが、しかしメンバーの目の鋭さ、定義にrespectを入れるか入れないかまで詰めていた緻密さ、そして議論の力強さ、それらすべてが圧倒的というものでしょう。その場で数回しか発言できない自分の力不足を痛烈に感じました。
エッセイライティングも含め、僕には議論の力が欠けていると強く感じました。さすがに同等とまでは言いませんが、天地ほどの差は英語においてはついてなかったと思います。正直なところ、英語がめちゃくちゃでもゴリ押しで意見を言っている人もいました。問題は議論の力と、土台となる知識量でしょう。さすがに各国の選抜試験を受けただけあって、みんなの哲学の知識や議論に対する造詣はものすごいものがあります。 しかし、それ以上に、議論で言えること、言わなければならないような意見を自分が持っているか、ということをIPOで自問せざるを得ませんでした。 これを持っているか否かで議論への貢献度が完全に変わります。おそらく日常での問題意識の持ちようの差がここに現れていたのではないでしょうか。自分がどういう視点でものを考えているのか、そして自分の考えが世の中でどういう意味を持つのか、それらを意識することのできる人が議論を動かしています。
議論で発言できるためには下地準備も欠かせず、例えばパーティーやCity Walk等で積極的に話に関わり、ちょっとでも一目置かれるような立場を作れれば、ディスカッションで周りに発言を聞いてもらえる可能性は格段に上がるでしょう。ディスカッションや議論は総合力であるはずです。いつまで日本人は、こういう場で圧倒され続けなければならないのでしょうか?
少し雰囲気を変えて、これからIPOを目指す同じ高校生の皆さんへ。まず、入賞できなくてごめんなさい。
僕にとって四日間の大会は、新しい考えや目標を得るには十分すぎるほどでした。とはいえ、四日間とも哲学をゴリゴリやってうんざりだったかというとそうではなく、こういう大会ではよくあると思いますが、多分純粋に哲学の話をしていたのは初対面同士の時だけだったと思います。しかしこの最初の意見交換がベースになって、お互い一目置いた状態で会話や議論をするという環境はIPOの特徴でありますし、哲学に興味のある皆さんなら絶対心地よいと感じるでしょう。
IPOから帰ってから岡潔の『春宵十話』を読んだとき、「どの人がしゃべったかが大切なのであって、何をしゃべったかはそれほど大切ではない」と書いてあって全くうなずけました。僕自身もIPOの前に大量にエッセイを読み込みましたが、自分の年のエッセイを読むと、一味違って感じます。メダリストのエッセイは実際オンラインで見れますが、どういう人がそれを書いたのか、なぜそれを書いたのか、それにはどういう経験がベースになっているのか、など人格を含めた全ての交流はIPOでしかできません。特に、なぜそれを書いたのかの部分を、皆さんにIPOで実際に確かめてほしいと思います(自戒を込めて)。